出雲大社
いずもおおやしろ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】杵築大社(名神大) 出雲国 出雲郡鎮座
          (境内社)大神大后神社
          (境内社)神魂伊能知奴志神社
          (境内社)神魂御子神社
          (境内社)素鵞社
          (境外摂社)神魂伊能知奴志神社
          (境外摂社)因佐神社

   【現社名】出雲大社
   【住所】島根県出雲市大社町杵築東195
       北緯35度24分7秒、東経132度41分8秒
   【祭神】大国主大神
       (配祀)天之御中主神 高皇産靈神 神皇産靈神 宇麻志阿斯訶備比古遅神
       天之常立神 和加布都努志命

   【例祭】5月14日 例祭
   【社格】旧官幣大社 勅祭社 出雲国一宮
   【由緒】崇神天皇60年7月神宝検校のために使者を派遣
       垂仁天皇26年8月神宝検校のために使者を派遣
       天平5年(733)2月30日「企豆伎社」『出雲国風土記』        延暦17年(798)出雲国造が杵築大社に移住
       貞観9年(867)正二位
       寛仁元年(1017)10月2日勅使種々の御幣物を奉納
       長元4年(1031)閏10月15日奉幣使差遣
       文治5年(1189)源頼朝神馬一匹を寄進して祈願
       元弘3年(1333)3月14日王道再興を御祈願
       康永2年(1343) 出雲国造家が千家家と北島家に分裂
       文和4年(1355)12月1日後光嚴院兵革を祈願
       永正16年(1519)尼子経久出雲大社仮殿式造管
       天正8年(1580)毛利輝元仮殿式造営
       寛文7年(1667)正殿式造営
       明治4年官幣大社
       大正6年(1917)勅祭社

   【関係氏族】
   【鎮座地】往古より現在の地に鎮座

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 出雲大社
   【社殿】本殿大社造
       拝殿・社務所

   【境内社】大神大后神社・神魂御子神社・伊能智比賣神社
        門神社(東)・門神社(西)・素鵞社・氏社(北)・氏社(南)
        神魂伊能知奴志神社・神大穴持御子神社・大穴持御子玉江神社・上宮
        出雲井神社・因佐神社・湊社・釜社・十九社(東)・十九社(西)
        下宮・大歳社・祓社・杵那築森・大穴持伊那西波岐神社・阿須伎神社・出雲森

   【境内図】 境内図

延喜式神名帳で「大社」(おおやしろ)の呼称は当社の一例だけであつて他にはない。出雲国風土記でも「熊野大社」と当社の二例だけが「大社」と呼称している。
出雲国風土記には「天の下造らしし大神」として、記紀神話とは別の説話のもとで出雲国の開拓神としてその活躍が物語られている。 皇孫降臨に際しては、国土を皇孫に譲り、幽冥の主宰神となられた。そこで天照大神は特に諸神に命じて、多芸志の小汀(現在の御社地)に広大なる宮殿を造営せられ、且つ御自身の第二の御子天穂日命をしてその祭祀を司らしめられた。これが今の出雲大社の起源である。天穗日命の子孫は出雲国造となつて大神の宮に今の世に至るまでも変らない祭祀を奉仕することになつた。
社伝によれば、往古は社殿の高さ32丈あり、その後16丈となつたといわれる。16丈時代の宮制は金輪造営ともいい、その後、齋明天皇の御世から今日のやうに高さ8丈、方六間四面の宮制となった。
16丈の建築物が古代において建造可能であったのかを疑問視する意見もあるが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術レベルを超えて建築された可能性は否定出来ない。上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると考えれば、不自然では無いという意見もある。
平成12年地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。


由緒

出雲大社の由緒
八雲立つ出雲の国が神の国、神話の国として知られておりますのは神代の神々をまつる古い神社が今日も到る処にあるからであります。そして、その中心が「だいこくさま」をおまつりした出雲大社であります。だいこくさまは「天の下造らしし大神」とも申しますように、私達の遠い遠い親達と喜びも悲しみも共にせられて、国土を開拓され、国造り、村造りに御苦心になり、農耕・漁業をすすめて人々の生活の基礎を固めて下され、殖産の法をお教えになりましたし、医薬の道をお始めになって、人々の病苦をお救いになる等、慈愛ある御心を寄せて下さったのであります。だいこくさまは救いの親神さまであると共にすべてのものが自然の姿にあるように護って下さる親神であります。
また、だいこくさまといえば出雲の神さま、出雲の神さまといえば縁結びの神さまと申しますが、この縁結びということは、単に男女の仲を結ぶことだけでなく、人間が立派に成長するように、社会が明るく楽しいものであるようにすべてのものが幸福であるようにと、お互いの発展のためのつながりが結ばれることであります。だいこくさまが福の神と慕われ、すべての人々から広く深く信仰をおうけになっているのも、この「むすび」の御神徳、即ちいいかえますと、我々に愛情を限りなく注いで下さる神さまであるからであります。だいこくさまは私達の家庭の親が、子供の幸福を願って教導保護するように、人間の幸福の「縁を結んで下さる」親神さまであります。 このような御神徳をおもちになっている「だいこくさま」には多くの御別名があります。大国主神と申しあげる外に、大己貴神・大物主神・大地主神・大穴持神・八千矛神・葦原醜男神・大国魂神・顕国魂神・奇甕魂神・広矛魂神・所造天下大神・三穂津彦神・伊和大神・幽冥事知食大神等と申し上げます。これらの御神名にはそれぞれの御神徳があるわけで、大国主神の御神徳が如何に広く深いものであるかがわかり、福の神として、日本の永い歴史にあって変わらない信仰をおうけになっていることが知られるのであります。大国主神は多くの御別名がありますように、人々のために数限りない「むすび」の御霊力をおそそぎになって、住みよい日本の国土を築いて下さいました。豊葦原の瑞穂国と呼ばれるような、あらゆるものが豊かに成長する国を造り上げて下さったのです。この国造りの大業が完成すると、日本民族の大親である天照大神に、その豊葦原の瑞穂国をおかえしになって隠退されました。そこで天照大神は国造りの大業をおよろこびになり、その誠に感謝なさって、これから後は、この国の政治のことは私の子孫があたることとし、あなたは人々のために「むすび」の霊力を与えて幸福に導いて下さい。また、あなたのお住まいは天日隅宮と云って、私の住居とおなじ様式にして、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして建築しましょう。そうして、私の第二子の天穂日命をして仕へさせて末長くおまもりさせます。(日本書紀)と、申されました。そこで天照大神の御命令で諸神がおあつまりになって、宇迦山の麓に壮大なる宮殿を造営され、ここに大国主神は永久にお鎮まりになって、人々の幸福のために愛情をそそいで下さることになり、今に至るまで厚い信仰をおうけになっています。そうして天穂日命の子孫は代々一系に大国主神のおまつりを司っています。この天日隅宮の外に出雲大神宮・巌神之宮・杵築大社・杵築宮・石kuma之曽宮と称へられていますが、今は出雲大社と申します。
本殿は大国主神の御事蹟に対して建てられた宮であり、御神徳にふさわしい比類のない日本一の大規模な木造建築であったと古事記・日本書紀という日本最古の書物にしるされています。950年頃(平安時代)に出来た口遊という本によりますと、高さは東大寺の大仏殿十五丈をこえる一六丈にも達した日本最大の建物であったようであります。1200年頃(鎌倉時代)になってからは規模を小さくし、現在の本殿は高さ八丈六間四面で、1744年(延享元年、江戸時代)再建されたのであります。各神社の本殿中、最古の甚だ特異な様式であり「大社造」と呼ばれています。本殿の白木造りで簡素な直線的気高い姿は、今日でも壮観で圧倒的に印象を与えています。今よりも更に高大であった鎌倉時代以前の偉容は想像をこえたものであったでしょう。「雲にわけ入る千木」とか「この世のこととも覚えず」と当時の参拝者は驚異の眼をみはっています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



出雲大社

出雲の国は、神の国、神話の国として知られています。その“出雲の国”には、今もなお古の神社がいたるところにあります。そして、その中心が「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」をおまつりする出雲大社(いづもおおやしろ)です。
大国主大神は、「だいこくさま」と申して慕われている神さまです。だいこくさまは、「天の下造らしし大神」とも申しますように、私達の遠い遠い親達と喜びも悲しみも共にせられて、国土を開拓され、国づくり、村づくりに御苦心になり、農耕・漁業をすすめ、殖産の法をお教えになり、人々の生活の基礎を固めて下さいました。また、医薬の道をお始めになって、今もなお人々の病苦をお救いになる等、慈愛ある御心を寄せて下さったのです。だいこくさまは、救いの親神さまであると共に、すべてのものが「おのずから」の姿にあるように護って下さる親神です。

公式HP



詳細ボタン


出雲国INDEXへ        TOPページへ



順悠社