出雲大社
いずもおおやしろ


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【由緒】

御祭神
八雲立つ出雲の国が神の国・神話の国として知られていますのは、神々をおまつりする古い神社が、今日も至る処に鎮座しているからです。そして、その中心が大国主大神様をおまつりする出雲大社です。
大国主大神様は、広く“だいこくさま”として慕われ、日本全国多くの地域でおまつりされています。大神さまがそれぞれの地域でお示しになられた様々な御神徳は数多くの御神名によって称えられております。
国づくり
その御神名の一つに「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」があります。それは遠く神代の昔、私たちの遠い祖先たちと、喜びや悲しみを共にしながら、国土を開拓された事に由来しており、これが“国づくり”の大業です。
大神様は国づくりの最中、農耕・漁業・殖産から医薬の道まで、私たちが生きてゆく上で必要な様々な知恵を授けられ、多くの救いを与えて下さいました。この慈愛ある御心への感謝の顕れが、一つ一つの御神名の由来となっているのです。
今では広く“えんむすび”の神として人々に慕われていらっしゃいますが、この“縁”は男女の縁だけではなく、生きとし生けるものが共に豊かに栄えていくための貴い結びつきです。そして、日本の悠久なる歴史の中で、代々の祖先の歩みを常に見守られ、目に見えないご縁を結んで下さっているのが大国主大神様なのです。
御鎮座の由来
大国主大神様が国づくりによって築かれた国は、「豊葦原の瑞穂国」と呼ばれ、あらゆるものが豊かに、力強く在る国でした。大神様は国づくりの後、築かれた国を私たち日本民族を遍く照らし治める天照大御神様へとお還し(国土奉還=国譲り)になりました。そこで天照大御神さまは国づくりの大業をおよろこびになり、その誠に感謝なさって、これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい。また、あなたのお住居は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と申して、私の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築きましょう。そして私の第二子の天穂日命をして仕えさせ、末長くお守りさせます。
と申されました。こうして大国主大神様は目に見えない世界を司られ、天照大御神様の御命令によって高天原の諸神がお集まりになり、大国主大神様のために宇迦山の麓に壮大なる宮殿が造営されました。そして大国主大神様は永久にお鎮まりになって人々の幸福のために慈愛をそそいで下さることになり、今に至るまで厚い信仰をお受けになっています。
この荘厳な御社は天日隅宮を始め様々な名称で称えられてきましたが、現在は「出雲大社(いづもおおやしろ)」と申しております。

公式HP



【由緒】

第一章出雲大社
当社は大国主命を祀り、簸川郡大社町の杵築東に御鎮座なる官幣大社で、古来大日隅宮(天日栖宮)・築宮。杵築大神宮・杵築神社・杵築大明神・杵築大社・杵築神宮・所造天下大神宮・出雲宮・出雲大神宮・出雲国の大社・日本大社及び厳神之宮などと数多の社号を以つて称へ来つた、わが國の名社であり大社であります。
鉄道山陰本線今市駅より北に分岐した大社線は、約二里にして大社駅につく。これより賽路十八町素鵞川を渡り大鳥居をくぐれば、やがて一畑電鉄の大社神門駅を右に見て賽路は爪先登りになり、そこに屹然第二の大鳥居(木造)を仰ぐ。これより境内に入るのであつて、広表几そ四萬六千坪。老松の色濃き賽路の両側なる神苑を眺めつつ進めば、寛文6年毛利大膳太夫大江綱広の寄進にかかる銅鳥居に達するのであります。これより内は即ち昔ながらの神域で、風土記にいふ出雲の御埼山の南の下なる八雲山の翠徴を御笠山に翳して、世に大社造と称する正殿造九本立の須佐之男命が宇迦の山本に底津石根に宮柱太しく高天原に氷掾高知りて居れと詔へる神代さながらの姿を今に現示してゐるのであつて、これを廻る諸殿宇は相連り相待つて、転々荘厳を極め、名にし負ふ厳紳の宮たる感を深うする次第であります。
当社の御鎮座はかの御国譲献の時、御祭神の御言葉として「僕が住所をば、天神の御子の天津日継知しめさむ登陀流天之御巣なして、底津石根に宮柱太知り、高天原に氷木高知りてをさめ賜はば、僕は百足らず八十熊手に隠りて待らひなむ」と仰せになつたとあるのに基くもので、その時の社殿の構造は、千尋拷縄をもつて百結び八十結びに結んで、柱は高大に板は慶く厚く作られたものであります。また風土記によると、この杵築といふ社号のもとなる地名の由来は、八束水臣津野命の国引きの後に、皇神等が当社を作り仕へ奉らうとして、宮処に参い集うて杵築きなされたから杵築といふと見えて居ります。
而して畏くも天照大神第二の御子天穂日命はこの御祭神の祭祀権を継承して、その御子孫は当社を始め、出雲国の惣べての神社の神主職を奉仕し来つたのであるが、これ今の千家北島両男爵家であつて、その系統については後に記す通りであります。
さて御祭神大国主命は又の御名を大穴牟遅神とも葦原色許男神とも、八千矛神とも、宇都志国玉神とも国作の大神とも申して、素盞鳴尊・櫛名田比売命の御子に坐し、始め大穴牟遅神と称し給うたが、数々の悪神を日平定し、庶民に農耕医薬を教へ施して、経国の大業を治め給ふに及び、大国主神とも亦天下造らしし大神とも申上げることとなつたのであります。后神は須佐之男神の女の須世理毘売命で、摂社御向社に奉斎されてゐるし、御子は百八十一神坐したといふが、中にも事代主神・建御名方神・阿遅鋤高日子根神・木俣神等の御名は普く世人の知る処であります。而して天孫降臨に際し、天穂日命を始め、武甕槌神・経津主神等が、当国に降りついて、その経営し給うた国土を天孫に献らんことを告げ給うや、御祭神大国主命は、これを因佐浜に迎へて恭順の意を表し給ひ、遂に皇国万世不基たる天孫降臨の一大事實が現はれ出つるに至つたわけであります。

神国島根(一部抜粋)



出雲大社

『古事記』・『日本書紀』によれば、「大国主大神」の国譲りに際して、底つ磐根に宮柱を深く立てた壮大な宮殿を造られたのが出雲大社の始まりです。
 大国主大神は、「八千矛神(やちほこのかみ)」「大穴持神(おおなもちのかみ)」などの多くの別名があり、統率力、英知がある上に人々を幸せな縁で結ぶ神として崇められています。『出雲国風土記』には、大国主大神のために大勢の神々が集まって宮を寸付(きづき)いたと記されており、「杵築(きずき)大社」ともいわれています。
 出雲大社は、少なくとも8世紀には大きな社が建てられていたといわれ、平安時代中頃の『口遊(くちずさみ)』に「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」という当時の大建造物を示す記述があり、これは出雲大社が最も大きく、次いで奈良の大仏殿、3番目に京都の大極殿の順ということを意味しています。出雲大社の本殿の高さは、太古は32丈(約96m)、中古は16丈(約48m)、近古は8丈(約24m)という伝えがあり、平安時代の出雲大社は、16丈の壮大な建物であったといわれています。
 現在の境内は、江戸時代前期、寛文7年(1667)の造営遷宮で計画されたもので、今もその時の建物が多く残っています。現在の本殿など瑞垣内のお社は、その次の延享元年(1744)の造営遷宮で建て替えられたものです。
 遷宮は、その後文化6年(1809)、明治14年(1881)、昭和28年(1953)に行われ、その都度本殿をはじめとする諸社殿の修理が行われてきました。今回の修理事業は、平成20年から8年にわたる「平成の大遷宮」の主事業として行われ、平成25年5月10日には本殿遷座祭が執り行われました。
【参考資料】出雲大社のご紹介

出雲市HP






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