畠田神社
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   【延喜式神名帳】畠田神社三座 伊勢国 多気郡鎮座
          (合祀)守山神社
          (合祀)宇留布都神社
          (合祀)石田神社
          (合祀)佐伎栗栖神社
          (合祀)国乃御神社
          (合祀)伊呂上神社
          (合祀)櫃倉神社
          (合祀)竹佐々夫江神社
          (合祀)荻原神社


   【現社名】畠田神社
   【住所】三重県多気郡明和町中村1029
       北緯34度35分12秒,東経136度37分9秒
   【祭神】火之迦具土命 品陀和気命 埴安比売命 建速須佐之男命
       豊宇気比売命 火産靈命 饒速日命 宇麻志麻治命 天忍穗耳命 天之穗日命
       天津彦根命 活津彦根命 熊野久須毘命 多紀理姫命 市杵島姫命 多岐都姫命
       菅原道真 大日霊命 大山祇命 伊豆乃売命 蛭子命 入船姫命 宇迦魂命
       土之御祖命 彌津波能女命
       『神名帳考証再考』豊宇氣毘売命 火之迦具土神 埴夜須毘売神
       『勢陽五鈴遺響』に軻遇突知命 埴山姫命 稚産霊命

   【例祭】4月5日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】中世は北藤原・南藤原・中村に各1社あった
        明治41年南藤原・中村鎭座の畠田神社二社は北藤原鎮座畠田神社に合祀
        同年8月13日に現在地に移転された

   【旧地】 畠田神社旧地(北藤原)
   【旧地】 畠田神社旧地(南藤原)
   【祭祀対象】本来は農業神を祀る
   【祭祀】江戸時代は「畠田神社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・手水舎・社務所

   【境内社】祖霊社

旧来より一社で継承されてきたとも、中世三社に分祀していたとも云われている。
中世は北藤原・南藤原・中村に各1社あった。
明治41年3月27日、南藤原・中村鎭座の畠田神社二社は北藤原鎮座畠田神社に合祀の上、「畠田神社」と単称された。
さらに同年8月13日に現在地に移転された。
南藤原の旧社地は、児童公園となつており、東方の一郭には倉庫が建てられている。北藤原の旧社地は、水田に取り囲まれた位置にあり、往時のまま石段、石垣が残されており、昭和5年春に「式内畠田神社宮蹟」の石標が建てられている。
多くの式内社が合祀されている。


畠田神社

【行事】(6月)茅の輪神事(9月)毎年収穫時期には、当社拝殿に篤志農家から新穀の稲束(カケチカラ)が奉納されている。また9月25日には、カケチカラ発祥地(多気郡明和町根倉笹笛地区)にて新穀を奉納し、奉告祭を斎行している。(12月)注連縄奉納、かがり火奉納、年越し甘酒授与。平成22年、拝殿を新しく造営致しました。今年も周辺の田んぼは綺麗に刈り取られて、美味しいお米が収穫されました。春には美しくなった畠田神社へお参り下さい。駐車場の桜も綺麗です。
由 緒
 当社の創始は明らかでないが、『延喜式神名帳』に「畠田神社三座」と記載されている事から、延喜年間(901〜923)には存在していたと推測される。また『倭姫命世記』に命(ミコト)が佐々牟江巡行の折、真名鶴が飛来して稲穂を咥えるのを見て「八握穂社ヲ祀ル」とあり、のちに根倉神社と改称し合祀されている。この真名鶴伝説では、当地が古くから米の産地であり、神宮の神嘗祭の発祥地であると伝えられている。

三重県神社庁



畠田神社

御由緒
創建は延喜年間(西暦901年〜923年)以前なること明白なるも詳細は不明
明治41年10月10日次の旧下御糸村内の神社が合祀され、火之迦具土神外二十四柱の祭神を合祀し、氏神として崇敬され現在に至っている
中村 畠田神社他二社
北藤原 畠田神社他一社
南藤原 畠田神社
川尻 須賀神社
内座 宇気比神社
養田 石田神社他二社
丹川 宇気比神社
田屋 宇気比神社
志貴 佐伎栗栖神社他一社
八木戸 伊呂上神社他三社
浜田 白浜真名胡神社他三社
根倉 根倉神社他三社

社頭石碑



カケチカラ

カケチカラとは神嘗祭の節、その年の初穂〔新穀)を神宮の内玉垣にかけ、また籾を内玉垣に庭積として奉納し、広大な大御神さまのご神徳に感謝のまことを捧げ、わが国永遠の繁栄をお祈りする行事で、わが国卜占以来の伝統であり、美風であります。
この行事はまこと大御神さまのこ神恩に直接浴することのできる奉献者の誇りでもあります。
カケチカラとはの由来
神宮では占来、神嘗祭の奉幣の儀の際に、御領地である伊勢、伊賀、尾張、三河、遠江の諸国の神郡、神戸等から奉納しました稲を稲穂のまゝ瑞垣、又は玉垣に奉幣し、それを懸税〔かけちから〕と申しました。又遠方の地からは籾を俵詰にして奉納し、これを玉垣前に奉献し、庭積と称えて、大御神さまの御恵みに感謝の誠を捧げる行事があります。
懸税の「税」(ちから)とは田力の略で、古くは人々が力役し、耕作して奉る租、税のことをいったもので、稲穂を御神前に懸げて奉るゆえに懸税と呼んだものです。
垂仁天皇24年秋倭姫命が、大御神を奉じ、佐々牟江今の山大淀の西方〕の行宮に至り給うた時、一茎の穂が生えているのを御覧になって、これを大税「おほひちから」=懸税のこと=として大御神さまの御神前に懸けて奉られたと伝えられているのが懸税の起源であります。(『倭姫命世記』参照)延暦23年〔804年〕編纂せられた『皇大神宮儀式帳』の九月の条に「懸税稲1437束」と見え、また同じく「止由気宮儀式帳」にも「懸税稲乎1180荷持参人氏云々、玉垣爾懸奉」と見えております。このうるわしい報恩感謝の古例が、明治4年の神宮制度の改革の際、一旦廃止されましたが昭和21年の神嘗祭から長い由緒をもつ此の旧儀が再興せられ、広く一般崇敬者の奉献さられる稲穂を御垣に懸けて神前にお供えすることになりました、昭和25年有志の人々が相計って、広く農家に呼びかけ「かけちから会」を結成し、毎年神嘗祭および新嘗祭に稔りの御初穂を懸税として奉納しています昭和26六年秋、社団法人伊勢神宮カケチカラ会設立認可、その奉納数量は年々増大し、今日に至っています。
尚、天皇陛下には昭和4年以来皇居の御苑内に水田を設けられ、御親ら農民の労苦を御体験になり、その初穂を全国から捧げられる献殼米と供に白酒、黒酒に醸されて、11月宮中の新嘗祭に御親ら天照大神を始め諸神に奉られますが、昭和27年からは特に神宮に稲穂を奉られることになりました。
かくして神宮の大御前における奉懸は、先ず陛下御奉献の分には紙垂を付け内玉垣御門近くに次に神宮神田の分、次に「カケチカラ会」の分という順序で奉献されます。
昭和32年には御親作の御初穂奉献の御心を詠ませられた前掲の御製二首を甘露寺掌典長を通じて北白川神宮祭主に賜わりました。
カケチカラ会員の毎年奉献せられる稲穂は前記のように内玉垣に奉懸され、籾、玄、白米等は庭積として内玉垣御門前に奉納されるのはまことに無上の光栄に浴することと申さねばなりません。
カケチカラ会の甘酒奉仕
神嘗祭、新嘗祭に奉献せられた初穂米の一部は、その後神宮神職によってお祓いが行われて、酒造店において甘酒に奉醸されます。
それらは、大晦日から正月七日まで内宮々域において、毎年神宮参拝者に無料にてふるまわれ、神恩感謝とともに大変喜ばれています。
神宮祭典とカケチカラ会の奉献
◎神嘗祭 10月16日 外宮
     10月17日 内宮
     新穀その他を奉献して感謝と豊穣を祈ります。
◎新嘗祭 11月23日 外宮・内宮
     神嘗祭に同じ
正月1日より5日まで会員の方は神饌券により、内宮神楽殿において、御神饌を拝受することかできます。

カケチカラ会栞



畠田神社 三座

畠田は八太介多と訓べし、和名鈔、(地部)畠一曰陸田、(八太介)田土巳耕者爲田、太〇祭神詳ならず○北藤原村に在す、(俚諺)○神鳳抄云、畠田御園、

神社覈録



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