櫛田川南岸近くに鎮座する。田地の中の神社。 承和2年(835)ごろこの地には兄国里(現兄国)と川田里(現河田)の中間に大分里があった。 現在両地区の中間付近にJR多気駅があり、昭和43年以前は大字大板とされていた。 この地域に旧地があったと思われる。 明治40年11月30日「兄国村字バンハ(所在不詳)」に「無格社大分神社」があり、八柱神社(相生神社と単称)へ合祀された。 |
相生神社 祈年祭には、主として国家の隆昌と氏子崇敬者益々の健康と安全を祈る。例祭には、当神社創設の昔に思いをはせ氏子崇敬者益々の健康と交通安全を祈る。新嘗祭には、新穀を捧げて報恩感謝の誠を捧げる。 由 緒 当社の創始については詳らかではないが、兄国創村の際、天忍穂耳命を産土神として当地に奉遷したのが始まりという。江戸時代には八王子と称し、明治初年に八柱神社と改称された。明治41年2月24日兄国の菅原神社をはじめ23社を当社に合祀の上、相生神社と単称した。大正8年2月7日に神饌幣帛料供進社に指定され、現在に至る。 三重県神社庁 |
大分神社 大分は於保和気と読り○祭神詳ならず○大垣内村に在ず、(考証)○古事記、(景行段)倭建命御子建貝児王者、伊勢之別等之祖、 連胤云、此古事記の文を引し後に伝を考ふれば、伊勢之別は伊豫之別王なりけむと、其徴を挙ていへるは然ることにて、此建貝児王は、日本紀には兄武卵王、是讃岐綾君之始祖也、悌十城別王、是伊豫別君之始組也、とありて此前後西國のみに係りて、伊勢には由縁なし、されど古事記の謬も、後人の写誤にはあらざめれば、本文に引処は削らず、心して見るべし、 神社覈録 |