垂仁天皇22創立と伝う。皇女倭姫命五十鈴川上に行幸、佐々牟江に船を留め、その地に佐々牟江宮を造営したという。寺と敷地を同じくする。集落内。佐々牟江宮の旧跡とする。 江戸期には存在が不詳となっていた。 江戸中期には知地の御前と呼称され、佐々夫江橋付近に奉斎されていたが、後年現在地に遷座。 笹笛橋の近くの田の中に『竹佐々夫江旧跡』と刻んだ碑(約1mの高さ)が立っていると伝。 江戸時代末には佐々夫江社と八握穗社が並んでいたものと思われる。 |
竹佐々夫江神社 古くから神宮崇拝の末社参りがさかんであった。また、祇園祭は毎年行われる。八握穂社の由来は鶴が稲穂をくわえていたことから、懸税発祥の地である。 由 緒 「竹佐々夫江」の「竹」は多気郡の意で、佐々夫江は地名に由来する。「倭姫命世記」に垂仁天皇の22年、皇女倭姫命が天照大神の御神霊を奉載し、飯野高宮より行幸の折、佐々牟江に船を留め、その地に佐々牟江の宮を造営して、佐々牟江社を定められた。延喜式内社である。明治40年、八握穂神社、津島神社を合祀し、大正元年に神饌幣帛料供進社に指定された。明治初期には敬神社と称する宮座があり、1月2日に御頭神事が斎行され、毎年4月には境内で獅子舞の奉納があったが、いずれも現行されていない。 三重県神社庁 |
八握穗社 八握穂社の由来は鶴が稲穂をくわえていたことから、懸税発祥の地とされる。 (第11代垂仁天皇27年[戊午]の)また明る年秋のころ、真名鶴は、皇太神宮に向かって天翔り、北より来て、日夜止まずに翔り鳴いた。時は昼の始め。倭姫命は、異しまれて、足速男命を使に見させた。使が行くと、鶴は佐々牟江宮の前の葦原の中に還り行きて鳴いてゐた。そこへ行って見ると、葦原の中から生へた稲の、本は一基で、末は八百穂に茂り、(鶴は穂を)咋ひ捧げ持って鳴いた。使が見顕すと、鳴声は止み、天翔る事も止めた。かく返事を申上げた。 倭姫命は、歓ばれて詔ふに、「恐し、皇太神入り坐さば、鳥禽相悦び、草木共に相随ひ奉る。稲一本は千穂八百穂に茂れり」と詔して、竹連吉比古等に仰せて、初穂を抜穂に半分抜かしめ、大税に苅らしめ、皇太神の御前に懸け奉った。抜穂は細税といひ、大苅は太半といひ、御前に懸け奉った。よって、天都告刀に「千税八百税余り」と称へ白して仕奉る。鶴の住処には八握穂社を造り祠った。 『倭姫命世記』 |
竹佐々夫江神社 竹は前に同じ、佐々夫江は假字也、○祭神在所等詳ならず○倭姫世記云、遂向五十鈴宮、從其幸行弖、佐々牟江御船泊給比、其処爾佐々牟江宮造令坐給支、大若子命白鳥之真野國止國保伎白天、其処爾佐々牟江社定給支、又云、垂仁天皇廿六年秋之比、真名鶴皇太神宮当、天翔從北來天、日夜不止、彼鶴佐々牟江宮前之葦原中還行鳴、使到見、葦原中生稻、本波一基為天、末八百穂茂也、同其鶴住処、入握穗社造祠也、 考証云、按八握穂社者佐々夫江神社歟、 神社覈録 |