相鹿上神社
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   【延喜式神名帳】相鹿上神社 伊勢国 多気郡鎮座
          (合祀)相鹿牟山神社
          (論社)国乃御神社
          (合祀)伊蘇上神社
          (論社)相鹿木大御神社
          (旧地)相鹿上神社旧地


   【現社名】相鹿上神社
   【住所】多気郡多気町相可字磯部寺 464
       北緯34度30分15秒,東経136度32分31秒
   【祭神】天児屋根命
       (配祀)大彦命 伊邪那岐命 天忍穗耳命 天津彦根命 活津彦根命
       熊野久須毘命 大鹿島命 巨狹山命 天穗日命 八衢比古命 久那斗命
       火産靈命 宇迦之御魂命 菅原道真 祭神不詳五座
       『神名帳考証』『伊勢式社案内記』『勢陽五鈴遣響』『勢國見聞集』天児屋根命
       『大日本地名辞書』『神社要録』『相可町史』天児屋根命
       『背書國誌』『伊勢國誌』『布留屋草紙』『勢陽俚諺』
       『勢陽雑記拾遺』『延喜式神名帳僻案集』中臣大鹿嶋命・大香山戸臣命
       『三國地誌』『神名帳考証再考』『伊勢國式内神社宮地記』不詳
       『神祇志料』『大日本史神祇志』不詳

   【例祭】7月第4土曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】由緒不詳
       江戸時代に、度会延経が上相可村の上宮(当社)に比定した
       明治5年2月郷社
       同39年12月25日、神饌幣帛料供進社
       明治41年5月12日式内社相鹿牟山神社、式内社伊蘇上神社、木田神社など18社を合祀
       同41年12月25日伊蘇上神社の跡地である現社地へ移転相鹿上神社と単称

   【関係氏族】大鹿首
   【鎮座地】旧社地は、相可字内畑153番地
        明治41年12月25日伊蘇上神社の跡地である現社地へ移転

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「上宮」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・神饌殿・社務所・庫・手水舎

   【境内社】靖郷神社
   【別当】当社西方500m旧社地南100mの字馬場崎に所在する長社山浄光院は、當社の別当寺と云われている。

境内西側を国道42号線が走る。現社地は、もと式内伊蘇上神社の社地で境内に伊蘇上神社の石碑がある。
明治41年5月12日の合祀以前の旧社地は、相可字内畑153番地にあり、現社地西方約500mにあたる。現在、旧社地は駐車場となり、昭和60年に相可第一区氏子によつて建てられた「相鹿上神社旧跡」の石碑がある。
明治41年5月12日に合祀された式内社伊蘇上神社の境内社であった木田神社は式内社相鹿木大御神社の論社。
「相鹿を称する神社は、延喜神名式の多氣郡に、相鹿牟山社・相鹿木太御社の二社がある。延喜齋宮式では、相鹿牟山社・相鹿上社・相鹿中社・相鹿社の四社がある。相鹿中社は、神名式の相鹿木太御社、相鹿社は國乃御社に相応する。よつて、相可郷には、相鹿牟山社のほか、上・中・下の三社が存在してゐた。」(式内社調査報告)。
『皇太神宮儀式帳』に「玉岐波流礒宮」、『倭姫命世記』に「伊蘓宮(伊蘇宮)」とある元伊勢「伊蘓宮」の候補地。
相鹿木大御神社(式内社)は伊蘇上神社(式内社)境内の一小社小田神社と称していた。明治41年5月相鹿上神社に合祀


相鹿上神社

相鹿上神社略記
1.鎮座由来
当相鹿上神社の御鎮座の時期は不詳ですが、延長5年(西暦927年)に完成した『延喜式』の『神名帳』に記載されている所謂式内社であることから考えると、今から千百年以上前に創始されたものと考えられます。
上代から平安時代にかけ、相可地区は大鹿首(おほかのおびと=相可の地名の由来)という氏族が支配していました。大鹿氏は、相可地区が伊勢の神宮や斎宮の神領地になっていたため、政所や検校などが置かれ、そこの役人としてこの地に住み着いたのではないかと思われます。大鹿氏は朝廷の祭祀を司る中臣氏(後の藤原氏)と同族で、自分の祖神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭神とする神社を建立したものが『相鹿上神社』と呼ばれ、付近一円の氏神様として崇拝信仰されるようになってきたものと思われます。
鎌倉時代以降は、武士の台頭により相可地区の神領地はほとんどなくなりました。しかし、熊野三山詣や那智山詣としての熊野街道と、都(平安京)や上方(大坂)と伊勢の神宮とを結ぶ参宮街道が交差する交通の要所であった相可地区は、宿場町としての繁栄にあわせて、『相鹿上神社』も大きく発展してきました。
明治時代になり、相可地区と荒蒔地区は相可村になりました。当時の政府の方針(一村に一神社)で、現在の相可一区、相可二区、荒蒔に祀られていた『伊蘇上神社』『八柱神社』などとその境内社を『相鹿上神社』に合祀し、『郷社相鹿上神社』となり、昭和20年代に現在の『相鹿上神社』になりました。
2.御祭神
天児屋根命・大彦命・伊邪那岐命・天忍穂耳命・天津彦根命・活津彦根命・熊野久須彦命・大鹿島命・巨狭山命・天穂日命・八衙比古命・八衡比売命・久那斗命・火産竪命・宇迦之御魂命・菅原道真公・誉田別命・両大神御魂・他五柱
3.神社概要 面積1028坪(約3392平方m)
社殿 東面 神明造
構造=銅板葺 堅魚木五本 千木外粉風穴付
鳥居 五基(明神鳥居三基 神明鳥居二基)
灯籠 十四基〔最も古いものは宝暦2年(1752年)の銘〕
手水舎 二基
狛犬 一対(石造)
宝物 木製瓶子一対(室町時代製作)
   一升桝〔天正壬午(1582年)の銘〕
獅子頭 一対(徳川時代初期製作)
境内社 靖郷社
    山の神
4.諸祭典 
  大祭   祈年祭節分の日
       例大祭(じんじ) 7月第四日曜日
       新嘗祭 11月第四日曜日
  準大祭  厄除祈願算賀祭 3月上旬
       靖郷社慰霊祭8月
  中・小祭 歳旦祭元旦
       建国記念祭 建国記念日
       春分祭 春分の日
       大祓祭 夏越の祓6月 
       晦日大祓 12月
       秋分祭 秋分の日
       七五三祭 11月第三日曜日
       天長祭 天皇誕生日
       月次祭毎月
5.合祀神社
相鹿上神社 所在地=相可字内畑153番地
      境内社=多賀神社 若宮神社 地宮神社
伊蘇上神社 所在地=相可字磯部寺官第464番地
      境内社=菅原神社 秋葉社 稲荷社
          若宮神社 相鹿木太御神社
相可牟山神社 所在地=相可字牟山官第963番地
下殿神社   所在地=相可字東垣外官第239番地
塞神社    所在地=相可字三反切官第1030番地
塞神社    所在地=相可字出張官第49番地
氷室神社   所在地=相可字内畑官第592番地
八柱神社   所在地=荒蒔字九十九戸官第206番地
       境内社=秋葉社 神明社

由緒書



相鹿上神社

熊野三山詣や那智山詣としての熊野街道と、都(平安京)や上方(大坂)と伊勢の神宮とを結ぶ参宮街道が交差する交通の要所であった相可地区は、宿場町としての繁栄にあわせて『相鹿上神社』も発展してきました。
由 緒
 当社の御鎮座の時期は不詳ですが、延長5年(西暦927年)『延喜式』の『神名帳』に記載されている所謂式内社であることから、今から1,100年以上前に創始されたと考えられます。上代から平安時代にかけ、大鹿首(おほかのおびと=相可の地名の由来)という氏族が支配していました。大鹿氏は相可地区が伊勢の神宮や斎宮の神領地になっていたため、政所や検校が置かれ、そこの役人として、この地に住み着いたのではないかと思われます。大鹿氏は朝廷の祭祀を司る中臣氏(後の藤原氏)と同族で、自分の祖神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭神とする神社を建立したものが『相鹿上神社』と呼ばれ付近一円の氏神様として崇拝信仰されるようになってきたものと思われます。

三重県神社庁



相鹿上神社

相鹿は前に同じ、上は賀美と訓べし、○祭神大鹿首祖歟〇上相可村に在す、(考証俚諺)○姓氏録、(未定雑姓、右京)大鹿首、津速魂命三世孫天児屋根命之後者、不見、

神社覈録



郷社 相鹿上神社

祭神 天之児屋根命
合殿
 大彦命 天之穂日命 天之忍穂耳命 天津日子根命 活津日子根命
 熊野久須日命 大鹿島命 巨狭山命 誉田別命二座 八衙比古命二座
 八衙比売命二座 久那斗神二座 伊弉諾神 菅原道眞 火産霊日神二座
 宇賀御魂神 両大神宮祭神不詳五座
創建年代詳ならす、社伝によれば、上世は相可郷の内上邊の地に鎮座ありしを、後大字相可字内畑へ遷祀すと、神名帳考証に云く、「相鹿上神社、在上相可村、云上宮、姓氏録(未定雑姓、右京)に云く、「大鹿首。津速魂命三世孫天児屋根命之後也」、神名帳考証再考に云く、「相鹿上神社、今相可森の中に在り、上の宮と称す、」神社覈録に云く、「相鹿は阿布加、上は賀美と訓べし、祭神大鹿首祖歟、上相可村に在す、」又神祇志料に、「相鹿上神社、今相可郷上相可村にあり、上宮と云ふ、」大日本地名辞書に云く、相可神社、延喜式、相鹿上神社と云ひ、土俗上宮と称す、大鹿首の祖天児屋根命を祭る、大鹿首は旧事紀に見ゆ」とあり、神都志に云ふ、「敏達天皇釆女、伊勢大鹿首小熊女、曰菟名子夫人、生二女、長曰大娘皇女、更名、櫻井皇女、少曰糠手姫皇女、更名田村皇女」と、相傳ふ、大鹿首の末裔其氏祖を祀りし者にして、今尚村内に村田某なる者あり、古名瓶子屋と称す、上世皇大神宮伊蘇宮に奉齋の時瓶子を調進せし家にて節、大鹿首の後裔なりと、果して然るや否、記して後考に備ふ、明治5年2月郷社に列せらる、同41年5月村社八柱神社、同伊蘇上神社及び無格社四社境内社十一社を合祀し、村社伊蘇上神社合併跡地に移転せり、右合祀社伊蘇上神社は、神名帳考証に云ふ、「伊蘇上神社、今在上相可磯邊寺前森中、云磯宮、大彦命、世記云、垂仁天皇25年、從飯野高宮遷幸伊蘇宮、続日本紀云、神護景雲元年4月癸巳、伊勢國多気郡人外正七位下敢磯部忍国云々、宝亀6年5月伊勢国多氣郡人敢磯部忍國等五人賜姓敢臣、神名秘書裏書云、伊蘇宮、在多気郡逢鹿村字古宮本、』神社覈録に云く、「伊蘇は假字也、上は賀美と訓べし、祭神詳ならず、上相可村磯部寺森中に相鹿木太御神社と並び在す、」尚頭書に「齋宮式伊蘇上乃社に作る」とす、而して神祇志料に、「伊蘇上神社、今上相鹿村磯部寺前森中にあり、磯宮と云ふ」と見え、又無格社四座の中牟山神社は大鹿島命及び巨狭山命を祭神とし、大字相可宇牟山の鎮座にして、神名帳考証に云く、「相鹿牟山神社二座、在上相可村小川東岸、云大山神、中臣大鹿島命配享大香山戸臣神、旧事紀云、大山祇、名正鹿山津見、摘大山與正鹿宇、名大鹿號牟山、牟麻音通、正山也、土為中央與中臣同理、配享称臣乎、祭主家公文抄云、任料牟山称宜絹一疋、姓氏録云、大鹿首、津速魂命三世孫天児屋根命之後也、」神社覈録に云く、相鹿牟山神社二座、相鹿に阿布加、牟山は武夜萬と訓べし、祭神在所等詳ならす、勢陽俚諺に、「近世取失ひしに、逢鹿村のホウ山と云ふを牟山なる事に考て、享保年中此処に祠を造りたり」と云へり、神祇志料に、「相鹿牟山神社二座、奈々美神社、今飯野郡七見村にあり、下杉宮と云ふ」となし、[相鹿木太御神社、また相鹿中社と云、今相可村礎部寺前森中にあり」といへり、然れども神名帳考証は此社を林村に在りとし、神社覈録は上相可村磯部寺森中伊蘇上神社に並び在すと云ふ、執か是なるを知らす、記して後の考定を待つ、かくて当杜及び伊蘇上神社牟山神社は共に延喜の制式の小社に列し、多氣郡五十二座の中に数へらる、而して合祀の後当社は同年12月25日同村字磯部寺へ移転すと云ふ。
社殿は神殿、拝殿、神饌殿、門、瑞垣等具備し、境内坪赦589坪(官有地第一種)を有し、古檜老杉其他樹々枝を交へて昼尚暗く、實に清浄幽邃の霊境だり。
宝物は硯一面(奥井松蔭寄附)飾太刀二口(西村三郎大夫寄附)等あり。

明治神社誌料



相鹿木太神社

相鹿は前に同じ、木太は岐多と訓べし、〇祭神詳ならず○上相可村礒部寺森中伊蘇上神社に並び在す、(久方考) 類社
当國何曲郡鬼太神社

神社覈録



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