櫛田川の南岸近く、相鹿駅の西市街地の中に鎮座する。 明治41に相鹿上神社に合祀。旧地は西南800m、30mほどの丘の上。相可高校の実習地となっている。(相可字牟山官第963番地) 旧社地は諸説あり、『調査報告』は多気郡多気町にある浅間山(138.7m)が牟山であり、関係地ではないかと推測している。 弘安3年(1280)3月17日に、異国降伏・天下泰平・仏法繁昌の大願をかけて大藏経を神宮へ奉納する叡尊の内宮参拝にあたつて その折やつて来た巫女が、神がかりして「我是牟山神也」と託宣した。牟山神が本地垂迩思想のもとに重視されていた。 しかし、江戸時代に於いては、牟山社の所在は不確なものとなつていた。 享保年中に小祠を造って再興したと伝える。 明治41年式内社の相鹿牟山神社「大鹿嶋命、臣狭山命」と伊蘇上神社「大彦命」など18社を合祀し、伊蘇上神社の跡地である現社地に移転し、相鹿上神社と単称した。 |
相鹿牟山神社 二座 相鹿は阿布加、牟山は武夜萬と訓べし、○祭神在所等詳ならず 神鳳抄、飯野郡牟山神田、云々、三重郡牟山神田、云々、〇勢陽俚諺に、近世取失ひしに、逢鹿村のホウ山と云を牟山なる事に考へて、享保年中此処に祠を造りたりと云り、 神社覈録 |