上社本宮・上社前宮・下社春宮・下社秋宮の4社で構成される。 大国主神の御子神建御名方神が建御雷神に敗れ、逃れて科野国諏訪の地に至り、ここに永く留まったという。 奉仕の祀職の長官は上社は神別、下社は皇別とされ、その後裔が連綿として近世に至るまで続いてきた。 上社最高の祠官は大祝(おおほうり)と称し、祭神と同一視され「神」の姓を負っていた。 下社では、神武天皇の御子神八井耳命の後裔建五百建命が科野国造となり、金刺氏を称し、清和天皇貞観5年9月5日に、金刺貞長が大朝臣を賜り大祝として下社の祭祀を掌つた。以來、金刺氏がこれを継承してきた。 七年目の毎寅、申歳に執行される一大特殊神事、式年造営御柱大祭がは、その規模の雄大なること、神事の豪壮なこと、又、由来の古さ、祭事の特殊なことで、天下の三大奇祭の一つに数えられている。 阿波国名方郡鎮座 多祁御奈刀弥神社の社伝によると宝亀10年の記録に、信濃国諏訪郡南方刀美神社明神大には、「阿波国諏訪大明神を移遷し奉る。」と記されている。 |
由緒 御鎮座地 当大社は諏訪湖の南北に二社ずつ、四ヵ所に鎮座する独特の形の神社で関係の摂末社は六十有余社を数え群内全域に分散しています。 諏訪大社、上社、本宮、長野県諏訪市中洲宮山鎮座。前宮、長野県茅野市宮川鎮座。下社春宮、長野県諏訪郡下諏訪町鎮座。秋宮、長野県諏訪郡下諏訪町鎮座。 御祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ) 建御名方神は大国主神と高志沼河比売神の御子神で、八坂刀売神は妃神です。下社には御二柱に併せて御兄神八重事代主神を祀りますが、一般には古くから上社に男神、下社に女神の信仰が広く伝わっております。 御鎮座、並、旧社格 御鎮座の年代は千五六百年から二千年前と言われ詳細については知るすべもありませんが、我国最古の神社の一つと数えられます。延喜式神名帳には南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)と記され、信濃国四十八座の第一にあり、当時既に信濃国一之宮として信仰されていたことがわかります。明治4年に国幣中社に列格、同29年に官幣中社、大正5年に官幣大社に昇格し、終戦を迎え昭和23年に諏訪大社と改称致しました。 諏訪信仰 全国に分布する御分社は一万有余社を数えお諏訪さま、諏訪大明神と親しまれ、敬われつゝ巾広い信仰を有し、御神徳の数々、枚挙にいとまありませんが、古くからある信仰には雨や風を司る竜神の信仰や、水や風に直接関係のある農業の守護神としての信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされております。 神功皇后の三韓征伐や坂上田村麿の東夷平定にも神助ありと伝えられ、東関第一の軍さ神、武家の守護神とも尊ばれて来ました。 精進潔斎を形だけする者より、肉を食べても真心込めて祈る者を救おうという諏訪大明神御神託や、浄瑠璃や歌舞伎の本朝二十四孝が世上に広まるにつれ、日本の屋根信州諏訪の地へとの参拝者も日と共に繁く、諏訪大明神の御神徳の厚きことが伺われます。 上社本宮 中央線上諏訪駅から東南へ6キロ、守屋山の山麓で中部地方唯一と言われる原生林に抱かれる如くに鎮座しております。諏訪大社は社殿の四隅におんばしらと呼ぶ大木が建ち幣拝殿や左右片拝殿が横に並び、本殿を欠く等社殿の配置にも独特の形を備えていますが、中でも本宮は諏訪造りの代表的なもので、建造物も四社の中で一番多く残っています。また神体山をお祀りするという大きな特徴を持ち、祭祀研究の上からも注目されております。 境内のほゞ真ん中に東御宝殿、西御宝殿と言う二棟の茅葺の建物があります。本宮で最も大切な御殿で、寅年と申年毎に交互に建替がなされ遷座祭が行なわれます。軒からはどんなに干天の日でも最低三粒は水滴が落ちるといわれ、七不思議の一つに挙げられ、諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される所以にもなっております。 本宮の昔の建物は極彩色が施され、御社殿以下建物が沢山並んでいましたが、天正10年(1582)に織田信長の兵火のために、山中に逃れた神輿の他はすべて焼失しました。この時まず仮殿が作られ順次再建された社殿は元和3年(1617)に完成しました。その後約二百年を経て諏訪藩主に依り社殿の改築が計画され、立川和四郎二代目富昌が地元の宮大工と共に事に当たり、天保2年から9年(1838)迄八年の歳月を要し現在の社殿が落成し、立川流の代表的建築物とも目されております。尚旧殿の拝殿は嘉永2年(1849)に群内富士見町乙事の諏訪神社へ移築され、桃山時代の代表的建造物として重要文化財に指定されております。 本宮最古の建物は四脚門で、慶長13年(1608)徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じ、国家の安泰を祈願して造営寄進したもので、別名を勅使門とも言います。 神楽殿は文政10年(1827)の建立で、色々な神楽が連日行なわれていたようですが、残念なことにその神楽は現在絶えております。中にある大太鼓は江戸時代のもので、唯今では元旦の朝のみ打つことにしております。 上社前宮 本宮の東約2キロ、中央線茅野駅からバスで約五分の所に鎮座します。境内の大半を占める広場を神原(ごうばら)と言い、大祝の居館である神殿(ごうどの)と附属する沢山の建物が軒を連ね、上社の祭祀の中心地でしたが、室町時代の中葉に神殿が移転され、多くの建物が消滅し、現在では祭典に必要な建物だけになりました。 神原の中心をなし諏訪大神の幸御魂、奇御魂を祀る内御玉殿(うちみたまでん)は一部に天正13年の旧殿の材を使い、昭和7年の造築です。隣の十間廊はその奥行から付いた名称で神原廊とも言い、上社最大の神事御頭祭はこの上段に神輿を安置して執行します。 前宮御本殿は内御玉殿から二百米上段で、古くは神殿に附属したお社でした。高台で豊富な水や日照が得られる良き地で、御祭神が最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の地と伝えられています。現在の社殿は昭和7年伊勢神宮の御用材を以て建てられたものです。 内御玉殿の百米程西に諏訪大神の神裔諏方氏が大祝の職に就く時、極めて重要かつ神秘な儀式が行なわれた鶏冠社という社があります。 下社春宮 中央線下諏訪駅から北西へ1キロ、秋宮から西へ1キロの位置で旧中仙道添に鎮座します。上社へは諏訪湖を隔て約10キロです。 社頭から真直ぐ八百米程伸びる道路はかっては春宮の専用道路で、下社の大祝金刺一族を始め多くの武士達が流鏑馬を競った馬場でした。途中の御手洗川に懸かる下馬橋は室町時代の建立ですが、建築様式は鎌倉時代のもので1730年代の元文年間に修築されましたが、下社では最も古い建物で遷座祭の折りに神輿はこの橋を渡ります。 入口の御影石の大鳥居は万治2年(1659)建立と推定され、境外にある万治の石仏と同じ作者と言われます。 神楽殿と拝殿、左右片拝殿及び御宝殿と続く建物の配置は秋宮と同じです。神楽殿は修改築が幾度となくなされています。春宮と秋宮の社殿の建替が諏訪藩に依って計画された時に同じ絵図面が与えられたと見え、大きさこそ違いますがその構造は全く同じで、春秋両社の建築は彫刻において技が競われております。春宮の社殿は地元の宮大工柴宮(伊藤)長左衛門が請負い、秋宮より後から着工して一年早く安永9年(1780)に竣工しました。 御宝殿は上下社共に三間四方で、方三間の神明造りと言います。下社では寅年と申年の左右の御遷座祭の他に半年毎に春宮と秋宮の遷座祭が執行されます。御宝殿奥の御神木は杉の木で、秋宮は一位の木が祀られています。 神楽殿の西の建物が筒粥殿、その西の清流は砥川です。川の中の島は浮き島と言い、どんな大水にも流されず下社七不思議の一つです。お社は浮き島社と言い、清め祓いの神を祀り6月30日の大祓式、夏越しの祓いはこゝで行ないます。鎌倉武士が御射山の祭典に参列する時まずこの川で身を清め八島高原へ登山したと伝えられます。 下社秋宮 中央線下諏訪駅の東北約1キロ、春宮からも東へほゞ1キロの地点で、旧中仙道と甲州街道の分岐点の要所に鎮座しています。 鳥居を入ってまず目に付く正面の大きな木はネイリの杉と呼ばれ樹令は六七百年、大社の御神木の一つです。身長一米七十青銅製では日本一と言われる狛犬を両脇に従えた神楽殿は三方切妻造りで天保6年(1835)立川和四郎二代目富昌の作です。御社殿は神楽殿の奥で、二重楼門造りの拝殿と左片拝殿及び右片拝殿が横に並びます。これ等の建物は江戸時代中期の絵図面では帝屋(御門戸屋)及び回廊と記されており、現在の建物は安永十年(1781)春に立川和四郎初代富棟の棟梁で落成しました。 拝殿奥の神明造りの建物は御宝殿で、新しい方を神殿、古い方を権殿と呼び、寅年と申年毎に左右の御遷座祭を行ないます。当社の御宝殿は上社、下社共に平素二殿並んでいます。室町時代の記録では新築後六年間雨風に晒し清めて御遷座をなし、直ちに旧殿を解体新築という形式だったようですが、いつしかこれが逆になり、祭典の直前に旧殿を建直して神殿に御遷座するようになりました。 御宝殿の奥が御神座とも相殿とも言われ、御神木をお祀りする下社の最も重要な場所です。上社の神体山に対し下社は御神木を御神体としてお祀りし、古代祭祀の形式を今に残しております。 主要神事 大社の恒例神事は例大祭を含む七回の大祭式に依る祭典以下関係する摂末社の神事迄年間二百余度の祭典が執行されております。 御頭祭、上社例大祭、4月15日、本宮で例大祭の神事執行後神輿行列を仕立て前宮に赴き十間廊で古式に依る祭典が行なわれます。古くは3月酉の日に行なわれたため酉の祭とも言われ、農作物の豊穣を祈って御祭神のお使いが信濃国中を巡回するに際して行なわれたお祭りで大御立座神事とも言います。特殊神饌として鹿の頭を始め鳥類魚類等が供えられるため、一部では狩猟に関係したお祭りの如く言われています。唯今は剥製の鹿頭をお供えしますが、昔は七十五頭献じられたこともあり、中に必ず耳の裂けた鹿があって高野の耳裂け鹿と言い七不思議の一つに挙げられています。 御船祭 下社例大祭、8月1日、2月1日に春宮に御遷した御霊代(みたましろ)を神幸行列を以て再び秋宮へ御遷座する遷座祭に引続いて、下社例大祭は秋宮で執行されます。この遷座の行列に次いで青柴で作った大きな舟に翁媼の人形を乗せた柴舟が、当番地区(御頭郷)の氏子数百人に依って春宮から秋宮へ曳行されます。秋宮へ曳付けて神楽殿を三巡し、神事相撲三番が行なわれて式が終り、翁媼人形は焼却されます。明治初年迄は柴舟を裸の若者が舁いで練ったので裸祭りの名も伝わっております。尚遷座祭には当社独特の風習として楊柳(川柳)の幣が献じられます。 蛙狩神事並御占神事 上社、1月1日、本宮前の御手洗川の氷を砕いて蛙を捕え、神前で小弓を以て射通し矢串のまゝお供えしますが、どんな寒いときでも蛙が捕れ、七不思議の一つです。続いて宮司が神秘な占いを行ない、当年の諸祭儀に奉仕する地区、御頭郷を選定する御占神事が行なわれます。 筒粥神事 下社、1月15日、春宮で米と小豆と葦の筒を大釜に入れて一晩中粥を炊き、15日未明に筒を割り中の粥の状態で豊凶を占います。現在は四十四本の筒で農作物四十三種と世の中全般を見ますが時代に依り本数は違います。占いの正確なこと神占正に誤りなしと七不思議の一つです。 御田植神事 下社、6月30日、下社の末社御作田社の神前で雅楽を奏し、三坪程の神事田で田植えをします。一ヵ月後の8月1日には神前に供えることが出来たと言われ、御作田の早稲と言い七不思議の一つになっています。室町時代の記録では上社の藤島社でも同日田植神事が行なわれていますが現在の上社のそれは一般の田植と同じ頃行なわれます。御射山社祭、上社、下社、8月26、27、28日、上社の御射山社は八ケ岳の山麓にあり、下社は江戸時代初期に八島高原から秋宮東北5キロ程の山中に移されました。青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参篭の上祭典を行なうので穂屋祭りの名称があります。鎌倉幕府は全国の武将をこの神事に参列せしめ、八島高原や霧ヶ峯一帯で武芸を競わせたりして祭事を賑わしめ、参加した武将は諏訪大神の御分霊を拝戴して任地に赴き御分社を奉齋しました。その為多くの御分社はその例祭日を秋の27日前後にしております。尚唯今では農作物の豊穣祈願と二才児の厄除健勝祈願が行なわれます。 式年御造営御柱大祭 寅申相当年、4月山出祭 5月里曳祭、下社遷座祭、6月上社遷座祭 諏訪大社の諸祭儀の中でも特筆すべき大祭で、社殿の建替とその四隅におんばしらと呼ぶ大木を曳建てることに大別されます。起源は遠く古代に遡りますが、平安朝時代初期桓武天皇の御代からは信濃国の総力をあげて奉仕され費用の調達の為に元服の式や婚礼、家屋の新築や増改築が禁じられたこともあります。唯今では造営も一部の建物に留まり、奉仕も諏訪地方一円二十万氏子へと縮小され、老若男女の区別なく御奉仕頂いております。 おんばしらの用材は樅の木が使われ、三年前から木の選定等準備が始まり、上社関係は約25キロ隔たる八ケ岳の中腹から、下社関係は八島高原の近くから約10キロの里程を曳き出します。大きな柱は周囲3m、長さ16m余、重さ12〜13トンにも及び、独特の木遣り歌と共に二、三千人の人々に依って曳行されます。 車もコロも使わず人の力だけで曳き摺る為に原始的ではありますが、急坂を曳き落としたり、川を引き渡したりして怪我人が出ない方が不思議と言われる程に荒く勇壮な行事として知られ、奇祭の一つに挙げられています。 諏訪の七不思議 氷湖の神幸(おみわたり)、元朝の蛙狩、五穀の筒粥、高野の耳裂鹿、御作田の早稲、葛井の清池、宝殿の点滴 御神紋 梶の葉、葉が三葉あるので三本梶とも言い、足の数四本が上社、五本が下社の社紋です。 信濃国一之宮諏訪大社由緒略誌、その2 御鎮座地 お諏訪様、諏訪大明神と親しまれ、崇敬されている諏訪大社は、諏訪湖をはさんで南に上社、北に下社があり、更に上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれて鎮座しております。この四社を合わせて信濃国一之宮諏訪大社と称し、氏子区域は旧諏訪郡24ケ町村にわたっております。又、付属の摂社末社の数は郡内に六十余社をかぞえ、特殊な祭祀の形態と信仰とを今日に伝えております。 上社、本宮(ほんみや)長野県諏訪市中洲。前宮(まえみや)長野県茅野市宮川。下社、春宮(はるみや)長野県諏訪郡下諏訪町。秋宮(あきみや)長野県諏訪郡下諏訪町。 御祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ、男神)。八坂刀売神(やさかとめのかみ、妃神)。八重事代主神(やえことしろぬしのかみ、兄神)。建御名方神は神代の昔、父神大国主神、兄神八重事代主神を助けられて、国造りの大業を成しとげられ、その後、八坂刀売神並びにその御子神と共に、信濃国の開拓に御神意をそそがれ、やがて、この諏訪湖畔の聖地を永久の神居と定め、お鎮まりになられました。 御神徳 当大社は古来より朝廷の崇敬がきわめて厚く、持統天皇5年(691)には勅使を遣わされて、国家の安泰と五穀豊穣を祈願されたのをはじめ、歴代の朝廷が神位や神階を進められ、或は神田、幣帛、御宸筆等を御奉納なされ、又、皇族の方々が数多く御参拝なされております。又、諏訪大神は武勇の神、武門武将の守護神として仰がれ、古くは神功皇后の三韓出兵の折りに御神威を顕わされ、平安時代には関より東で、第一の軍さ神として広く世に知れ渡りました。鎌倉時代以降は源頼朝をはじめ北条氏一門、足利尊氏、武田信玄、徳川家康以下歴代の将軍、その他、高島藩主をはじめ諸国の大名たちがいづれも社領を寄進し、或は神宝を奉納して武運の長久と国家の安泰を祈願されております。人々は雨、風の守り神、水の守護神と仰いで五穀の豊穣を祈り、或は又、生命の根源、生活の源を司られる神として、家内安全、健康長寿、交通安全、商工業の繁栄、開運招福を祈るなど、諏訪大神の広大無辺なる御神徳は、広く深くゆきわたっております。 社格 延喜式神名帳に名神大社として信濃国の第一にあげられ、朝廷の奉幣をうけ、広く全国の崇敬を集めておりました。上社と下社は明治維新の際に一社となり、明治四年に国幣中社に列格、大正五年に官幣大社に昇格し、昭和二十三年に諏訪大社と改められました。全国の御分社との交流、諏訪大神の御神威が全国各地に広がるにつれ、御分霊を祀る神社が増し、北は北海道から南は九州鹿児島まで各地に祀られて、現在、御分社の数は一万有余社にのぼります。毎年秋にはこれらの御分社が集う、全国諏訪神社連合大会が本社において開催され、共々に諏訪大神の高く尊い御神威を仰ぎ、交際を深めております。 御社殿 上社本宮、幣殿、拝殿、左右片拝殿、脇片拝殿、以上天保9年(1838)、四脚門、慶長13年(1608)。下社春宮、幣拝殿、左右片拝殿、以上安永9年(1780)。下社秋宮、幣拝殿、左右片拝殿、以上安永10年(1781)、神楽殿、天保6年(1835)。 祭事の大要 恒例の大祭/遷座祭下社2月1日、祈年祭上社3月17日、同下社3月18日、例祭並御頭祭(酉の祭)上社4月15日、例祭並遷座祭下社8月1日、新嘗祭上社11月23日、同下社11月24日 特殊神事 薙鎌の奉斎/薙鎌は諏訪大神を象徴する神器で、例祭の神幸行列に奉じ、御分霊の勧請及び、御柱大祭の際に授与する。蛙狩神事と御頭御占の神事(元旦上社本宮)/本宮前の御手洗川の氷を砕いて蛙を捕え、神前において弓矢で射抜き、矢串のままお供えして五穀豊穣と国家の安泰を祈る、年頭第一の神事である。続いて宮司の神秘な占いにより、一年間、大社の重要な祭事に奉仕する地区、御頭郷を選定する御占神事が行なわれる。田遊の神事(1月15日上社本宮)新年祈請祭(1月15日上社、下社)/筒粥の神事(一月十五日下社春宮)/小正月の年占の行事で、春宮の筒粥殿において大釜に白米、小豆、葦の筒を入れて一晩中粥を炊き、15日の早旦にとり出して筒を割り、中の粥の状態で四十三種の農作物と世の中の吉凶を占う。御頭祭(酉の祭)(四月十五日、上社前宮)/上社第一の祭儀で、古くは三月酉の日に行なわれたので、酉の祭とも呼ばれる。本宮での例大祭の後、御頭郷地区の氏子役員が供奉し、行列を整えて神輿を前宮十間廊に安置し、御杖柱の幣帛を献り鹿の頭、鳥獣魚類等の特殊な神饌をお供えして大祭が行われる。御田植祭(6月第一日曜日上社)御田植神事(6月30日下社)/御舟祭(8月1日下社)/2月1日に春宮にお遷しした御霊代を、神幸行列を以て再び秋宮に御遷しする遷座祭に引続き、例大祭が行われる。この遷座の行列に次いで、青柴で造った大きな御舟に翁と媼の人形を乗せた柴舟を、御頭郷の氏子達が春宮から秋宮に曳き付ける。神楽殿を三周した後、神事相撲があり、翁媼の人形は焚き上げられる。明治初年迄は柴舟を裸姿の若者が担いだので、諏訪の裸祭とも言われた。遷座祭には楊柳(ようりゅう、川柳)の幣が献じられる。御射山祭(8月26日・27日・28日上社下社)/上社下社両社それぞれの御射山社で行なわれる。青萱の穂で葺いた仮屋(穂屋)に神職他が篭って祭を行なうので穂屋祭とも呼ばれている。鎌倉幕府は全国の武将を集めて祭に参加させ、武芸を競わせた。参加した武将は諏訪大神の御分霊をいただいて任地に赴き、御分社を奉斎した。全国各地の御分社で、この日を諏訪祭として例祭日にあてている御社が多い。現在では農作物の豊穣と二才児の厄除健康の祈願が行われる。式年造営御柱大祭(寅、申相当の年、4月山出祭、5月里曳祭、下社遷座祭、6月上社遷座祭)諏訪大社の特筆すべき大祭で、社殿の建替とその四隅におんばしらと呼ぶ巨木を曳建てることに分けられる。起原は遠く古代に遡るが、平安時代、桓武天皇の御代からは、信濃国の総力をあげて奉仕され、費用や材料の調達のために元服や婚礼、家屋の新築が禁じられたこともある。現在では造営も一部の建物に留まり、諏訪郡内二十万人の氏子の奉仕によって盛大に行われる。上社は八ケ岳の御小屋岳の神林から、下社は霧ケ峰の中腹からそれぞれ直径1m余、重さ12〜13トンの樅の大木を各八本伐り出し、独特の木遣り歌にあわせ、一本二、三千人の人々によって曳行される。途中、急坂の木落としや宮川の川越等があり、その豪壮雄大な様は他に比類なく、天下の奇祭とされる。 御神紋 梶の葉(かじのは)足の数は上社が四本、下社五本の区別がある。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |