諏訪大社
すわたいしゃ


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【由緒】

諏訪大社の話
御鎮座の年代、起源等の詳細については知るすべもありませんが、我国最古の神社の一つに数えられます。延喜式神名帳には南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)と記され、信濃国四十八座の第一にあり、当時既に信濃國一之宮として信仰されていたことがわかります。 明治4年に国幣中社に列格、同29年に官幣中社、大正5年に官幣大社に昇格し、終戦を迎え昭和23年に諏訪大社と改称致しました。
諏訪の信仰
全国に分布する御分社は一万有余社を数えお諏訪さま、諏訪大明神と親しまれ、敬まわれつつ巾広い信仰を有し、御神徳の数々は枚挙にいとまがありません。古くからある信仰には風と水を司る竜神の信仰や、風や水に直接関係のある農業の守護神としての信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされております。
神功皇后の三韓出兵や坂上田村麿の東夷平定にも神助ありと伝えられ、東関第一の軍さ神、武家の守護神とも尊ばれて来ました。精進潔齋を形だけする者より、肉を食べても真心込めて祈る者を救おうという諏訪大明神御神託や、浄瑠璃や歌舞伎の本朝二十四孝が世上に広まるにつれ、日本の屋根信州諏訪の地へとの参拝者も日と共に繁く、諏訪大明神の御神徳の厚きことが伺われます。

公式HP



【御柱祭】

御柱祭(おんばしら)は7年目毎、寅と申の年に行われます。正式名称は「式年造営御柱大祭」といい宝殿の造り替え、また社殿の四隅に「御柱」と呼ばれる樹齢200年程の樅の巨木を曳建てる諏訪大社では最大の神事です。
勇壮さと熱狂的ぶりで、天下の大祭としても全国に知らている御柱祭は、古く、804年桓武天皇の御代から、信濃国一国をあげて奉仕がなされ盛大に行われる様になり、現在でも諏訪地方の氏子20万人以上と訪れる親戚、観光客がこぞって参加し、熱中するお祭です。
御柱祭は上社、下社それぞれに山から直径約1m、長さ約17m、重さ10tにもなる巨木を8本切り出し、上社は約20km、下社は約12kmの街道を、木遣りに合わせて人力のみで曳き、各お宮の四隅に建てるものです。
4月の「山出し」と5月の「里曳き」とがあり、山出しでは、たくさんの観衆が見守るなか巨木の御柱が次々と坂を下る「木落し」、上社では冷たい水が流れる川を曳き渡る「川越し」あり、男の度胸試しにふさわしい壮観な見せ場があります。里曳きでは、長持ち、騎馬行列など時代絵巻が見もの。
大社の御柱がすむと諏訪地方の神社では御柱祭が行われます(小宮祭と言う)。この年は諏訪大社の御柱祭から始まり小宮の御柱祭で一年が終わります。

公式HP



【文化財】

重要文化財(国指定)
諏訪大社上社本宮 16棟(建造物) - 幣殿・拝殿・左右片拝殿・脇片拝殿・四脚門は昭和58年12月26日指定、布橋以下(附指定を含む)は平成28年2月9日追加指定
幣殿 拝殿 左右片拝殿(2棟) 脇片拝殿 四脚門 布橋 勅願殿 文庫 勅使殿 五間廊 摂末社遙拝所 神楽殿 天流水舎 神馬舎 入口御門
(以下は附指定) 神橋 塀重門 額堂 銅鳥居 注連掛鳥居
諏訪大社下社 7棟(建造物) - 昭和58年12月26日指定。
春宮幣拝殿 春宮左右片拝殿(2棟) 秋宮幣拝殿 秋宮左右片拝殿(2棟) 秋宮神楽殿
太刀 無銘(工芸品) - 1960年盗難。v 太刀 銘忠吉(工芸品) - 1960年盗難v。 銅印(考古資料) - 平安時代の資料。印文は「賣神祝印(めがみほうりのいん)」。昭和9年1月30日指定
長野県指定文化財
史跡 青塚古墳 - 昭和40年2月25日指定
諏訪大社上社前宮神殿跡 - 昭和39年指定
天然記念物 諏訪大社上社社叢 - 昭和39年8月20日指定
無形民俗文化財 諏訪大社の御柱祭り - 平成6年8月15日指定
諏訪大社上社十五夜祭奉納相撲 - 平成20年4月21日指定
諏訪市指定文化財
有形文化財 諏訪大社上社建造物 7棟 - 昭和48年5月7日指定
諏訪大上社社宝物 15点 - 昭和48年5月7日指定
諏訪大社上社宝印 2点 - 昭和59年3月26日指定
天然記念物 諏訪大社上社境内の社叢 - 昭和49年3月23日指定
茅野市指定文化財
史跡 犬射原社 - 昭和42年10月5日指定
大年社 - 平成6年12月26日指定
下諏訪町指定文化財
有形文化財 春宮下馬橋(建造物) - 昭和48年6月26日指定
秋宮経塚出土品(工芸品) 平成14年12月26日指定 舟形水差1、和鏡2、花形鋺1、黄瀬戸香炉1、灰釉と黄金46
諏訪大社下社宝物(工芸品) 平成14年12月26日指定 和鏡1、舟形錠1、鎌1
諏訪大社下社文書(書跡・典籍・古文書) 平成14年12月26日指定 右大将家下文1、小笠原長基寄進状1、小笠原持長社領安堵状1、江戸幕府朱印状1、御教書1
天然記念物 諏訪大社下社社叢 - 昭和48年6月26日指定 秋宮社叢 春宮社叢
専女の欅 - 昭和56年1月26日指定


【由緒】

目次
概要          1
上社本宮参道に沿って  4
上社前宮参道に沿って  9
下社秋宮参道に沿って  10
秋宮から春宮へ     12
下社春宮参道に沿って  14
諏訪の七不思議     16
上社
本宮 建御名神 長野県諏訪市中洲鎮座
前宮 八坂刀売神 仝茅野市宮川鎮座
下社
春宮 建御名方神・八坂刀売神 仝諏訪郡下諏訪町鎮座
秋宮 配祀 八重事代主神 仝諏訪郡下諏訪町鎮座
概要
信濃国一之宮諏訪大社は、昭和21年迄官幣大社諏訪神社と称しておりましたが、同23年に現在の社号に改称しております。
諏訪大社は諏訪湖の南北に二ん社ずつ四ケ所に分かれて鎮座する、独特の形を持ったお宮です。
御祭神の建御名方神は大国主神(大国さま)の御子神で、妃神が八坂刀売神、八重事代主神(えびすさま)は御兄神に当ります。
御鎮座及御神徳
御鎮座の年代について、詳しく知ることはできませんが、『古事記」その他の書物から推定して少なくも干五、六百年から二干年前と言われており、我国で最古の神社の一つに数えることが出来ます。北は北海道から南は九州鹿児島県に至る全国に勧請された御分社の数は壱万有余にも達し、その総本社であり、昔から諏訪大明神、諏訪南宮法性上下大明神、又はお諏訪さまと親しまれ、雨や風、水の守り神として竜神の信仰も古く、国土開発、農耕生産.開運招福、交通安全の守護神として篤く崇敬され、特に歴代の朝廷をはじめ武門武将からは勝負の神、軍さ神として崇められ日本第一大軍神、又は東関第一の軍さ神と称えられて来ております。
その二、三の例を見ますと、神功皇后三韓出兵の折諏訪大神の神助ありと伝え、平安初期桓武天皇の勅命を受けた征夷大将軍坂上田村麻呂が、途路諏訪大明神の大前に、戦勝の祈願をなされ、やがて平定の後、神思感謝のため諏訪郡の田畑山野各千町歩と毎年の作稲八万四千束の奉納があります。鎌倉時代には源頼朝が源氏再興の守護神として篤く崇敬して社領を寄進し、また大社の重要な祭典である御射山御狩神事(現在8月26、27、28の三日間御射山社祭)には年々諸国の武将を卒いて参列し、霧ケ峯高原一帯に於て武芸を競わせております。隣国甲斐(山梨県)の武将武田信玄は特にお諏訪さまを信仰し、武田家の護り神と崇め、社殿の造営や社領等を寄進し、廃絶していた祭祀をも再興させ、或は各地への戦いにはその都度参詣して武運長久の祈願を込め、諏訪南宮法性大明神の旗印を先頭に出陣しておりますし、浄瑠璃や歌舞伎の本朝二十四孝で有名な諏訪法性の兜を奉納しております。徳川幕府の信仰も厚く、初代家康は上社本宮に神門を寄進、三代家光以下歴代の将車は上社に干石、下社に五百石、都合合千五百石の社領を寄進し、崇敬の誠を捧げています。
日本書紀持統天皇5年(691)を初見として、以後種々の書物に諏訪大神の名を留めており、朝廷武門を始め、一般の人々の信仰も広く、日本の屋根信州諏訪の地へとの参詣も日と共に繁く、諏誇大神の御神徳の厚きことが伺われます。
祭祀(おまつり)
式年造営御柱大祭
諏訪大社の諸祭儀の中でも特筆すべき大祭で。御柱祭またはおんばしらとも言い、寅年と申年の七年目毎に行なわれるもので、その行事が特殊であり、規模が雄大豪壮であるところから奇祭の一つにあげられております。祭りの起源は遠く古代にさかのぼりますが、804年桓武天皇の御代からは信濃国一国の総力をあげて奉仕がなされる様になり、武田信玄もこの祭りには持に力を人れ、祭典が盛大に行われる様に色々な手段をこうじた事が、記録に残されております。唯今ではその奉仕が諏訪地方一円約五万世帯の氏子総参加へと範囲が縮少され、戦後は老若男女の区別なしに奉仕頂いております。
御柱祭は御社殿を造り替ること、その御社殿の四隅に奥山から伐り出す大木(おんばしら)を建てることの二つに大別されます。上下四社に四本ずつ、十六本の柱が建てられますが、明治以後は樅の木が使われ、上社の八本は約25キロ隔てた、八ケ嶽の中腹御小屋山の社有林から、下社の八本は霧ケ峰高原に続く国有林から約12キロの里程を引き出します。
寅、申相当の年の四月上旬に山出し祭、五月初旬に里曳祭が上社と下社では一週間の間をおいて奉仕されますが、独特の木遣り歌と共に一本の柱につき千人から二、三千人の人々が曵行するため、身分の上下なしに、人々の和が必要とされて来ました。
大きなおんばしらは長さ五十五尺(16.5m)周囲一丈余(3m余)重さが約十二、三トンにも及びますが、車もコロも使わず、人の力のみで引き摺るため原始的ではありますが、急坂を引き落したり、川を引き渡したりして、怪我人が出ない方が不思議と言われる程に荒く勇壮な行事として知られ、このお祭りには数十万人の観衆を動員し、ために、「人を見るなら諏訪のおんばしらに行け」とさえ言われております。 柱を建てる理由については多くの説がありますが、主なものに、祭場の表示、本殿の代り、社殿建替の代り、神様のお降りになる柱等言われております。
平安朝桓武天皇の御代から鎌倉幕府及び武田信玄の頃迄は柱の曳行の他に御社殿から鳥居に至る建造物の建替が行われ、その経費や労力が、信濃国一国に割り当てられ、費用の調達の為に、元服の式や結婚式が禁じられ、家屋の新築や増改等も禁じられ、時には葬式も仮埋葬に留めさせられたこともありました。現在では奉仕の範囲が縮少され、建物も宝殿三殿のみの建替になり厳しい規制もなくなりましたが、家屋の新築や婚礼等を遠慮するようにと言い伝えられております。
諏訪大社の御柱祭がすみますと、その年の秋の終りにかけて、諏訪地方の沢山の神社で脚柱祭が行なわれます。小宮のおんばしらと言いますが、小さな屋敷神にもすりこぎ位のミニおんばしらが建てられます。
この御柱祭の年には、遠近から親せき縁者が集まるため、畳や襖の張替が行なわれ、又その人々の接待のために経費がかさみ、諏訪地方の人々は六年間働いて貯めた貯金を、この一年のお祭りで使ってしまうと言われます。
例大祭
上社の例大祭は4月15日です。午前中本宮で神事が行なわれ、午後は古式に依る大祭典、通称酉の祭とも言う御頭祭が行なわれます。神幸行列を仕立て・前宮に赴き、祭事が行なわれます。農作物の豊穣を祈って、御祭神のお使いが国内(県内)を巡視するのに先立って行なわれたお祭りで大御立座神事とも言いますが、特殊神饌として鹿の頭が供えられたため、一部には狩猟に関係したお祭の如くに思われてむります。 下社の例大祭は8月1日に秋宮で行なわれますが、これは遷座祭と共に行います。遷座祭は2月1日に秋宮から春宮にお移しした御霊代を又秋宮にお移しするお祭りです。この神事はお舟祭りとも言われ、遷座の行列に次いで、柴で作った大きな舟に翁媼二柱の人形を乗せ数百人の氏子の人々が曳行する変ったお祭りで、昔は裸の若者が担いで町を練ったので、裸祭りの名も残っております。
諏訪大社の恒例神事は、例大祭を含め七回の大祭式に依る祭典以下、境内外六十有余社に及ぶ附属摂末社の神事及明治以後独立した関係摂末社の祭典迄含め、年間二百余度に及びます。いずれ機会がありましたら、御来社の折御参拝下さい。
上社本宮参道に沿って
本宮は中央線上諏訪駅から東南へ約6キロ、駅前からバスで20分の処、守屋山の山麓で中部地方唯一と言われる原生林、約五百種の植物が群生する十万坪の社叢に抱かれるが如くに鎮座しております。下社とは諏訪湖を挾んで相対し、また2キロ東方にある前宮と合わせて上社と称しますが、この地方で上社と言った場合は普通この本宮のことを指しております。
正門から参道に沿って御案内します。
手水舎附近
手水舎の建物は1831年天保2年の建立です。脇を流れる小川は御手洗川で、古くはこの川で身心を清めてお参り頂いております。諏訪大社の七不思議の一つに「元朝の蛙狩り」と言うのがあります。毎年正月元旦に行われる「蛙狩り神事」に、この卸手洗川の神橋の上の一段高い所で氷を砕いて川底を堀り、二匹の赤蛙を捕え、神前で柳の弓を以って射通し、矢串のまゝお供えしますが、附近に川が少ない為か、どんなに寒い年でも蛙が取れ、七不思譲の一つとされています。
出早社(いずはやしゃ)
鳥居をくゞりすぐ左側にあるお社で、上社の地主神、お諏訪様の門番の神様と伝えられますが、祭神は諏訪大神の御子神出早雄命(イズハヤオノミコト)です。古くからイボ神様として敬まわれ、小石を捧げてイボの全快を祈る風習があります。
駒形屋
神馬舎とも言い、諏訪大神の御神馬の屋形で、諏訪湖におみわたりが出来た朝卸神馬の身体中が汗で濡れており、附近の人々はお諏訪さまが卸神馬で湖上を渡られるのだと驚き摺れたと中世の記録にあります。明治以後は現在のように木製の御神馬を祀っておりますが、明治27年7月に大風で近くの黷フ大木が倒れ、この神馬舎が倒潰した時、御神馬は10m程前に跳び出た為少しも被害がありませんでした。 時恰も日清戦争の始まった時で、お諏訪様が御神馬に乗って戦場に向われたのだと地元の人々は伝えております。
額殿及御柱曳綱
文政年間の建立で、参詣者の祈願やその御礼として奉納された額や絵馬を納めた所で絵馬堂とも言います。戦前迄は廊下の上にも無数に掲げられていましたが整理されております。尚床の上にある太い綱は御柱を曳いた時の綱で、藤蔓を使ったり、藁や縄を使って、村中の人々が総出で作ります。太いのは元綱と言い、柱につけ、順次細い綱をつなぎます。柱に依っても違いますが、百二、三十米から二、三百米にも及び、それに小綱をつけて引き摺ります。廊下の反対側にある柱が本宮二の柱ですが.引き摺る為に柱の裏側が摺り減っております。尚三の柱は出早社の奥の林の中にあります。
入口御門・布橋(ぬのばし)
御門は1829年文政12年の建立で、地元の宮大工原五左衛門が棟領ですが、雄大な構とその彫刻は見事な出来ばえと称えられています。長廊は約70m、三十八間あり、明治維新迄は上社の大祝のみ通った所でその時に布を敷いたことから布橋の名称が附いています。現在でも御柱祭の遷座祭には近郷の婦人達が自分の手で織り上げた布を持って来て、神様(神輿)の通る道筋に敷くことを例としております。
摂末社遥拝所及大国主命社
額殿に続く細長い建物でこれも文政年間の造営です。上社に特に関係の深い摂社や末社の神号殿で、上の十三所中の十三所、下の十三所で合計三十九社の御名を掲げてあり昔は十三所遥拝所とも言いました。現在大社の摂末社は上社関係が四十二社、下社関係は二十七社あり、明治以後独立した関係摂末社迄合わせるとその数九十五社に及びます。上下四社の境内を始め郡下に点在しておりますが、その摂末社を朝夕こちらで遥拝します。
遥拝所の隣の小さなお社は、大国主命社でお諏訪さまの御父神、大国さまをお祭りしております。
勅使殿と五間廊
大国主命社の前、廊下の反対側にある高低二つの建物で、高い方が勅使殿です。中世の記録には、御門戸屋又は帝屋とあります。朝廷から来られた勅使が着座なされたので、この名称が付いたと思われますが、いろいろな神事がこゝで行なわれました。低い方の建物は五間廊と言いますが、神長官以下の神職が着座したところだと伝えられ勅使殿は元和年問1620年頃、五間廊は1773年安永2年に建てられたものですが、後に改築してあります。
御宝殿(ごほうでん)
廊下の左側にある茅葺の建物で、本宮では一番大切な御殿です。二殿のうち左側を東御宝殿右側を西御宝殿と言い、御柱祭毎に交互に建替えをします。
中にはお諏訪さまの御神輿をお納めしてあり、一般の神社の卸本殿に相当します。この御宝殿の屋根からはどんなに干天の時でも最低三滴は水滴が落ちると言われ、宝殿の天滴と言って七不思議の一つに挙げられ、諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される根元にもなっています。
四脚門
二つの御宝殿の間にある建物で、1582年天正10年に兵変に依り焼失したものを1608年慶長13年に徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じて造営寄進し、国家の安泰を祈願しました。別名を勅使門と言います。
神楽殿
1827年文政10年の建立で、上社では一番大きな建物です。大々神楽や湯立神事が毎日行なわれていたようですが、現在は残念なことにその神楽は伝わっておりません。中に納めてある大太鼓は江戸時代のもので、直径が一米八十あり、当国随一の大きなものと言われ、唯今では元旦の朝だけ打つことにしております。
天流水舎
神楽殿前の屋根にエントツのようなものがついた建物で、俗にお天水と言います。どんな晴天の日でも雫が入り、御宝殿の軒からの天滴と共に中の井戸に溜ると言われております。雨乞の折にこのお天水を青竹に項いて帰り神事をすると必ず雨が降ると伝えられ、唯今でも近郷近県からの祈願があります。この時途中で休むとそこで雨が降るので普は若者達がリレー式に運んだそうです。又このお天水は天竜川の水源とも伝えられています。
狛犬
下社秋宮の大狛犬の原型で、作者清水氏の好意に依り、大社ゆかりの方が昭和49年10月に奉納されたものです。
清祓池・宮島
神楽殿横の池と島で、毎年6月30日に夏越の祓をして、半年間の罪穢を祓い清め、後半の無事息災を祈ったところです。
五穀の種池
清祓池の脇の小さな石の池で、毎年春になると種籾を浸してその浮き沈みに依って豊凶を占っており、現在でも近郷農家の人々に親しまれています。
雷電像
諏訪大神は昔から力の強い神様としても知られ、相撲とは関係が深く、神社でも年々相撲神事が行なわれており、多くの力士も参拝しています。この像は信州が生んだ江戸時代の大力士雷電の等身大のもので、お諏訪さまに対して拝礼の誠を捧げている姿です。
茅野市出身の矢崎虎夫氏が、文部大臣賞受賞を記念して昭和41年10月に奉納されたもので、横綱柏戸関(鏡山親方)がモデルだそうです。
一ノ御柱附近
布橋のはずれ、玉垣の外にある柱が長さ五十五尺の一の御柱です。御柱の奥の大きな石は諏訪七石の一つお沓石です。真中のへこんだところが、お諏訪様のお沓のあとだとか、お諏訪様の召しておられた御神馬の足跡とか伝えられています。玉垣の角の石の柱は、天の逆鉾で、江戸時代の国学者が「神跡石上残」と「たまちはふ神のみくつのあととめてこのとこいわのいくよへぬらむ」と刻んでいます。又柱の上の小石は運勢を占うために投げられたもので、一度で石が乗れば大吉、願いごとがかなうと言われています。
石段の上の門は塀重門と言い1829年文政12年軍のものです。
石段下のお社は交通安全祈祷所で、昭和47年に建てられました。
塀重門を真直に入った山の中に四十尺の四の御柱があります。小さな沢の左側です。
手前にある桑科の植物は諏訪大社の御神紋の原木である梶の木です。御神紋は梶の葉で葉が三枚出ているので、三本梶とも言い、足の数をもって上下社の区別がなされ、上社は四本、下社は五本足になっています。また全国の御分社の大半は一本梶と言って、葉の部分のみで一本の社紋が使われています。
勅願殿
梶の木の左前方の上段にある建物、昔は行事殿とも卸祈祷所とも言って朝廷や諸候の祈願を行った所とも伝えられます。現在の建物は1690年元禄12年に諏訪高島藩によって建てられたものを、安政年間に修理しました。
御社殿
本宮の建物は諏訪造りの代表的なもので、一種独特の形式を備えています。
正面に拝殿と幣殿が続き、その奥には脚本殿はありません。拝殿の左側を右片拝殿、右側は左片拝殿と山を背にした建物を脇片拝殿と言います。
この本宮の昔の建物は極彩色で結構ずくめの社殿でしたが、1582年天正10年に織田信長の軍勢の兵火の為灰儘に帰し、1584年天正12年諏肪藩主諏訪頼忠が造営に着手し仮殿が作られ更に1617年元和3年に諏訪頼水が地元の宮大工に命じ再建しましたが、この建物は、嘉永年間に郡内富士見町乙事の諏訪神社に移転しました。
これは桃山時代の代表的建築物として国宝に指定されています。
現在の建物は江戸時代の末期天保2年から9年(1838)迄8年の歳月を要して、二代月立川和四郎富昌が次男の富種や地元神宮寺の宮大工原五左衛門親成と共に建立したもので、立川流の代表的建築物として知られ、殊に片拝殿の粟穂と鶉や笹に鶏の彫刻は富昌の代表作として、近代彫刻史に光彩を放つと言われ、又拝殿下の波と千鳥の彫刻は立川家の家紋の如き殊芸と言われています。
硯石その他
脇片拝殿の屋根上に見える石で、この石の凹面には常に水を湛えているところから硯石の名称が付いており、諏訪七石の一つです。鎌倉時代の大社の古い神楽歌に
大明神は石の御座所におりたまう おりたまう みすふきあげの 風のすゝみに
とあり、古い記録ではこの一帯が上壇で、お諏訪さまがこの石の上に御出現になられたと伝えられる由緒深い御石です。尚、その記録では中壇が玉の御宝殿、下壇が厳の拝所と記されており、現在の神楽殿の前あたりに拝所御門屋があり、更に古絵図ではその近くに延長百二十間に及ぶ廊下があって、参詣者はその廊下から御山〔神体山〕を拝していた様です。
拝殿前の石畳の所は斎庭(ユニワ)と言い持別の場合以外は入れません。
脇片拝殿に続く建物は神饌所で拝所と共に昭和初期の建物です。
織田信長、法華寺
武田信玄の子勝頼追討のため高遠城を落した織田信忠の軍勢は1582年天正10年3月3日に諏訪に攻め人り、先ず武田家崇拝の本宮を焼打ちにしました。この時社殿等は全部焼け、御神輿だけは漸く守屋山中に逃げ難をのがれました。勢いに乗った軍勢は、3月11日に天目山に於て勝頼の軍を滅亡させました。
そのあと信長は3月19日に諏訪に入り、半年の間本宮隣りの法華寺に陣を敷くと、天下の諸将がこゝに集まって、論功行賞が行われました。この時明智光秀は信長の怒りに触れ、諸将の前で折檻されました。信長は4月3日に諏訪を発ち甲州路を南下し、富士山を見物して安土城に帰ったようです。
しかるに6月2日京都本能寺において光秀に殺されました。この本能寺の変の発端の一つに諏訪に於ける処遇があると言われます。
又法華寺には赤穂浪士の討入りで有名な吉良上野介の外孫でのちに養嗣子になった義周の墓があります。義周は討入りの翌年1703年元禄16年2月に諏訪に流され諏訪高島藩に預けられていましたが、1706年宝永3年正月20日病気のため死去し、この寺に葬られました。本堂の裏に自然石のさゝやかな墓石の墓があります。尚諏訪は江戸時代処刑者の中流の地になっています。
上社前宮参道に沿って
前宮は本宮から約2キロ東方で、中央線茅野駅から約4キロ、バスで15分程の所、旧鎌倉街道に沿った県道茅野岡谷線の途中の山の手にあります。
神原(ごうばら)
県道から人って一段と高くなった処の広場一帯を言い、上社にとっては最も由緒の深い場所です。社伝によれば、諏訪大神が始めて御出現になられたのがこの地だと伝えられています。
この神原一帯は上社の祭祀の中心地であり、御祭神の後裔で諏訪大神の神格を持った生き神、大祝〔最高統轄者〕の居館である神殿(ゴワドノ)と、それに附属する数多くの重要な建物が軒をつらねていましたが、室町時代の中葉に大祝が居館を他に移したので、多くの神殿は消滅し、現在祭儀だけが残っています。
内御玉殿(うちみたまでん)
鳥居の右側の建物で、神原の中心をなしたお社であつ、諏訪大神の幸魂奇魂をお祀りしてあります。古くは諏訪大神の御神宝である真澄の鏡、八栄の鈴、御鞍等も納められていました。現在の建物は昭和7年の造築ですが、正面の柳組や蛙股等は天正12年の旧殿の古材が使われています。
十間廊
鳥居の左側の大きな建物で、問口三間、奥行が十間あるところから名称が付いていますが、昔は神原廊とも言い、上社でも最大の神事である3月西の神事御頭祭(大立増神事、酉の祭)がこゝで行なわれました、当日は大祝以下の全神職が総出で奉仕し、鹿の頭七十五頭をはじめ、鳥獣魚類等独特のお供えものをし、諸郷の役人が参列しました。大祝のお使(神使)が神霊を奉じて、信濃国中に出発する為の大祭でした。この時の七十五頭の鹿頭の中に毎年必ず耳の裂けたものがあり高野の耳裂鹿と言い諏訪七不思議の一つに挙げられています。
この御頭祭、明治以後は4月15日に行なわれ、本宮で例大祭をすませてから行列を整えてお神輿を渡御し、十間廊上段の間に安置して神事を行なっております。
昭和33年3月に不慮の災火にあい、ただちに再建に入り、34年4月に竣工しました。
鶏冠社
内御玉殿の西方百米程の畑中にあり、現在のお社は小さなものですが、昔はこゝで極めて神秘な重要な儀式が行なわれました。諏訪大神の神裔である諏訪氏が、大祝の職に就く時、この社の前で神長官から梶の葉のついた紫の袴と山鳩色の狩衣を着せられて即位の式を挙げた所で、かえでの宮とも言いいます。
前宮本殿
内御玉殿から約二百米登った所にあり、諏訪大神が最初に居を構えた地と言われ、高台で、豊富な水と日照が得られる良き地であり諏訪信仰発祥の地であります。現在の御殿は昭和7年に伊勢神宮の古材を以って建てられたものです。 尚本殿の左後方の小高い所は諏訪大神の御神陵だと伝えられています。
下社秋宮参道に沿って
下社は中央線下諏訪駅下車が便利で、秋宮へは東北方へ徒歩約10分、春宮は北西方へ徒歩約15分です。諏訪湖を狭んで上社迄約10キロ隔っており、秋宮は旧中仙道と甲州街道の分岐点の要所に鎮座しております。
干尋池
秋宮大鳥居手前左側の池で、古図を見ると今より相当大きかったことがわかります。神社の御手洗川の清流が人りこむ池で、池の底は遠く遠州浜松の近くの海に続くと言われ、そこから千尋の名が付いたと言われます。
社伝に依ると大社の宝物で、国の重要文化財に指定されている銅印、奈良朝時代平城天皇の御下賜と伝えられている「売神祝印」が火災の際の灰と共にこの池から発掘されたと言われています。また神社の古い神楽歌に「諏訪の海 人和の浜よりよする波 千尋の池に重の浪立つ」という歌が残っています。
ネイリの杉
鳥居から正面に見える大きな杉の木は大社の御神木の一つです。枝が垂れ下っていて眠っているように見えるので「寝入りの杉」だとか、杉の挿木に根が生えたものなので「根入りの杉」とか言われています。また夜は特に枝を下げ布団を掛けて静かに寝ている様にも見え、時にはイビキも聞こえると言われこの杉の木の皮を使ったお守りは、夜泣きをする子供がよく眠れるようになると言われております。樹令は六七百年と言われます。
狛犬
郡内原村出身の芸術員会員清水多嘉示氏の作で、昭和5年に奉納されたものが戦争のために供出され、昭和25年に間組社長であった神部満之助氏の寄進があって、再び清水氏の手に依り復元、奉納されました。青銅製では日本一と言われ、高さが一米七十あります。台座の「忠・孝」の二字は敬神の念厚い神部氏の筆によるものです。
神楽殿
狛犬を両脇に従えた三方切妻造りの大きな建物は神楽殿で、神様をお慰め申し上げ、またお楽しみ頂くために神楽や舞を奉納したり、色々の祈願をするところです。現在の建物は上社本宮と同じ二代立川和四郎富昌に依り、1835年天保6年に完成したもので、雄大な構想を清楚で簡単にまとめてあり、神社に相応しく、鮮やかな手腕と言われます。
神楽殿の大きな〆縄は地元下諏訪町氏子有志に依る、大〆縄奉献会の入々が出雲から職人を呼び作らせたもので、出雲大社のものと良く似ておりますが、長さが約13mあって出雲大社型の〆縄では日本一長いと言われ、目方は推定ですが五百キロ位です。
社殿
神楽殿の奥の二重楼門造りの建物を拝殿、左右の建物を片拝殿と言いますが、江戸中期の絵図面には帝屋(御門戸屋)及び回廊と記されております。
現在の建物は1781年安永10年春に初代立川和四郎富棟の棟領で落成しました。
御宝殿
拝殿の奥の神明造りの建物は御宝殿です。唯今では普通新しい方を神殿、古い方を権殿と呼びますが、この二殿は、寅年と申年に卿遷座祭を行い、寅年から申年迄は向って右で、申年から寅年迄は向って左でお祭りをします。
春宮の方も同じ造りで、下社では七年目毎の左右の遷座祭、更に毎年2月と8月の春秋両社の遷座祭と、四つの建物を使い分けてお祭りをします。
この下社の御宝殿の呼称についでは各時代に依り違いがあります。江戸時代中期迄は宝殿一本ですが、江戸末期からは記録に依ってさまざまな呼び方があります。旧殿については権殿のみですが、お祭りをする方の新殿については、神殿、正殿、本殿等があります。
御神木
御宝殿の奥に建物はありません、諏訪大社は御本殿を持たない神社としても有名です。下社の春秋両社は二つの御宝殿の奥の御神木を御神体としてお祀りし、秋宮は一位の木、春宮は杉の木です。これに対して上社はお山(神体山)が御神体となっています。
諏訪大社は大昔の自然物崇拝の形から唯今の大方の神社の本殿祭祀への中間の形としてお祭りの移り変りを調べる上でも重要な位置を占めでおります。
(春宮の同項参照) 
白松
片拝殿前にある珍らしい木は幹の色から、白松と呼ばれる三葉の松で、原産地は中国大陸です。日本へ初めて入ったのは明治中期で、現在三十数本あるようです。当社の二本は大正8年に京城在住の諏訪出身の方から贈られたもので、昭和39年5月12日両陛下行幸啓の砌に親しく御覧頂いておりますが、陛下の還暦のお祝いの折、皇居にも植られておるそうです。
境内摂末社
拝殿に向って右側、一の御柱の奥のお社は手前が稲荷社、真中がお諏訪さまの御子神を祀る若宮社、奥が皇大神宮社です。左側この御柱の近くにあるお社は右から八坂社、賀茂上下社、子安社及び鹿島社です。
子安社にはお諏訪さまの御母神である高志沼河比売命をお祀りしており、昔からお産の守り神と親しまれています。底の抜けた柄杓は、水がつかえず軽く出るように、お産も楽にすむようにと、安産を願い、また安産のお社に奉納されたものです。
社務所の前方の森を八幡山と言い、八幡社と秋宮恵比寿社があります。八幡社には近くにあった天満宮、貴船社御室社が合祀きれています。この近郷で天神きまをお祀りするのはこゝだけですので、シーズンには受験生親子の参拝で賑わいます。
山王台
秋宮境内に隣接する高台で、下社の大祝、金刺家の館である神殿に附属したお城霞ケ城(手塚城)のあったところで、木曽義仲が幼少の頃こゝに匿われていたことがあります。今は大社の外苑となっており250人収容の国民宿舎が建てられています。
秋宮から春宮へ
秋宮から春宮迄は八丁(約1キロ}です。徒歩約15分ですので、途中二、三御案内しながら春宮へ参ります。
綿の湯
秋宮の近くにある浴場です。その昔御祭神八坂刀売神が、上社附近に湧出していた湯をお化粧用にと、真綿に浸し、桶に入れて、小舟で諏訪湖を渡る途中に舟がゆれてお湯が湖に零れ、そのために湖水の中から豊富な湯が出るようになり、今日の上諏訪温泉の基になりました。真綿の湯は点々と湖中に零れ、神社に着く頃にはほとんど無くなって、お化粧に使うことは出来なくなったので真綿を神社の近くに捨てると、そこから温泉が湧き出ました。綿の湯の名称の起源です。不浄の人が入ると湯口が濁ると言われ、下社七不思議の一つにもなっています。
この綿の湯の前が中仙道と甲州街道の分岐点です。秋宮の方へ戻るのが甲府を経て江戸へ行く甲州街道、右へ折れると塩尻、木曽を経て京都へ、また真直ぐ行くと春宮、和田峠から高崎を経て江戸へ行く中仙道です。この附近が下諏訪宿の中心で浴場の隣が旧本陣です。
青塚
途中の四ツ角の左の方に見える森が育塚です。諏訪地方最大の古墳で、長径は約60mあります。形も崩れており、江戸時代には既に石室があばかれ出土品もはっきりしておりませんが、前方後円墳とも双子塚とも言われ下社に関係する人の墳墓と言われ、別名王塚とも言われています。
旦過の湯
四ツ角を右に行くのは新道で明治中葉に開削されました。お寺は来迎寺と言いますが山門の懸魚は珍らしく名前の通り魚の彫り物が付いています。春宮へは坂を下って真直ぐに行きますが内坂の下にある浴場を旦過の湯と言います。八坂刀売神が上社からお湯を運んで来た桶が壊れ、そのタガが転って来たところで、タガが転じてタンガになったとも、春宮近くにある名刹慈雲寺附属の旦過寮という寮がこの辺にあって、それから旦過の湯になったとも言われます。尚慈雲寺と来迎寺は共に下社ゆかりの人がそれぞれ開基となっています。
御作田社
秋宮から春宮への中間やゝ春宮寄り、三つ辻の手前にあるお社が御作田社です。境内に小さな神事田があり、現在でも6月30日に田植神事を行なっております。三ツ辻の左側の通りを卿田町と言います。明治の中葉迄は一面の田圃でした。古くは神社の斎田で、神前にお供えするお米はこの周辺で作られており、卸作田社はその斎田の守護神と言われています。6月30日に田植をして、一ケ月後の八月1日には神前に供することが出来たと言われ、御作田の早稲と言い七不思議の一つに数えられています。
下社春宮参道に沿って
社頭から真直ぐに伸びる道路は大門通りと言い、約800mあり、かっては春宮の専用道路であり、下社の大祝金刺一族を始め多くの武将達が流鏑馬を競った馬場でした。さわら並木と言われ、道路の両側に大木が並び昼尚暗くうっそうと繁っていましたが、枯死、風倒、舗装の為の伐採と順次失われ、昭和39年に最後の一本が枯死して昔の面影を窺い知ることも出来なくなりました。
下馬橋
大門の道路下にある古風な建物は下馬橋です。此より下乗下馬、駕籠や馬から下りて身を清めるところです。御手洗川に掛けられて、その形から俗に太鼓橋と言われます。
室町時代の建立と言われますが、簡素の中に力強さ、美しさを兼ね備え、鎌倉時代の建築様式をもって建てられ、元文年間1730年代に修築したものですが、下社では最も古い建物です。遷座祭の折の神輿は唯今でもこの橋を渡ります。尚建物の左側御手洗川の上流側には溝蓋もしてありませんが、清めの場所で、御柱の曵行の時も柱を清める為にそこを渡すのを例としています。
石鳥居
入口の御影石の大鳥居は石工の名も伝わっていませんが1659年万治2年の建立と推定され、高さ八米二十あります。この鳥居の組立には片付け賃を入れた上俵を積み上げて、その上を笠木をころがしたと言われます。勿論土俵はたちまちに片付いたそうです。
神楽殿
正面の神楽殿は大社の沢山の建物の中でも一番修改築の多い建物で、天和年間1680年代のものに最近では昭和初年に大改修がなされています、社殿春宮、秋宮は同じ絵図面が与えられたと見え、大きさこそ違いますが、構造は同じで、二社の建築は彫刻において技が競われています。秋宮の立川和四郎に対して春宮は柴宮(伊藤)長左衛門が請負い、後から着工して一年早く安永9年に竣工させております。その間にさまざまな言い伝えがあります。春宮側の人足が秋宮へ仕事の邪魔にと夜間に乗じて柱を切りに行くと、和四郎はそれを見越して長目に刻んだので、次の日切られた柱は寸法通りすっぼり目的の場所にはまったと言います。又春宮が先に仕上がったので和四郎が見に行って正面欄間の竜を見で「死んだ竜が刻んである」と言ってけなすと、長左衛門が「悟りを開くと動物でも腹を出して休む知らないのか」と笑った。少し遅くれて秋宮の竣工の時に長左衛門が脇飾りの竹に鶴の彫刻を見て「竹の下のは筍かと思ったが、葉の重なりが百合の芽だ」と笑ったと言います。
御宝殿
伊勢神宮に於ては御遷座の後旧殿を取り払いますが、当社に於ては上下社共に平素二殿並んでおります。室町時代の記録では.新築してから七年間風雨に晒し清めてから遷座をなし、旧殿を解体新築して又七年を経てから御遷座と言う形式だったようですが、江戸時代に入ってからは、新築の建物に直ちに遷座するように形式を変えて現在に至っています。
御神木
下社に於て最も重要な場所で御神座とも相殿とも言われる場所にある御神木は、秋宮の一位の木に対して春宮では杉の木です。平素山上におられると考えられた神々を、この御神木にお招きして、その神々にお供えする御神宝をお祭りしていたのが宝殿であり、後に神々に平素お鎮りを願うために御本殿を作り、今日の一般のお祭りの形式へと変化したものと考えられます。
筒粥殿
神楽殿の左方にある建物で、毎年正月14日夜から15日の朝にかけて筒粥神事を執行するための神粥炊上げの社殿で、土間の中央にある石の円形のいろりは江戸時代初期のものと首われます。大釜の中に米と小豆それにアシの筒を入れて一晩中炊き続け、筒の中に入った粥の状態に依って、その年の農作物の豊凶を占うもので、時代に依り作物の種類と品数は異なりますが、唯今では四十三種の作物と世の中全般を一本、計四十四本の筒が使われます。その占の正確なこと、神占正に誤りなしと七不思議の一つに挙げられています。
浮島
社殿の西方境内の脇を流れる清流砥川の川中にある島で、どんなに大水が出ても流れず下社の不思議の一つになっています。お社は浮島社と言い、清め祓いの神様を祭ると伝えられており、唯今でも6月30日の夏越の祓はこゝで行なわれています。
立川和四郎(たてかわわしろう)
初代和四郎は諏訪高島藩に仕えていた桶職塚原泰義の長男で、13才の時に江戸に出て、本郷堅川町(立川町)に住む幕府の御用大工、立川小兵衛富房の弟子になり、立川の姓を許され富の字を貰い、和四郎富棟と名乗り、21才で諏訪に帰りましたが、彫刻を学ぶため再度江戸に出て、中沢五右衛門について宮彫りを修め30才の頃帰国して、上諏訪で中沢屋と言う屋号の建築請負業を始めました。
富棟は秋宮竣工後、上社本宮の造営に終生の心血をしぼろうと、京都の上賀茂社等の社殿を研究して歩きましたが、不慮の事故に遭い64才でこの世を去り、上社の造営は二代目和四郎富昌が当りました。和四郎の名は富昌に至り全国に聞こえるようになり、関東、中部、近畿にわたって数多くの仕事を残しています。
柴宮長左衛門
諏訪高島藩には大隅流の宮大工として、村田、伊藤の二家が当初かゝえられていたが、長左衛門は伊藤弥右衛門の次男として、兄儀左衛門と共に大隅流を継ぎ、始めは村田家の職養子となり村田姓を名乗り、後に柴宮家の養子になってからも兄と協力して多くの建築に当っています。安永6年に下社建替が決まり、秋宮を立川和四郎富棟が金八拾両と扶持米八拾俵で請負うと、長左衛門は代々の宮大工として、また大隅流のためにと、特に願い出て、三十五両扶侍米なしで春宮を引き受けて不足額は自分で集め、秋宮より一足先に落成させました。そして兄の仕事の邪魔になると、自分から信州を離れ、上州方面へ出て仕事をしています。
諏訪の七不思議
古くから格別に篤い信仰を捧げてきた諏訪の人々はお諏訪さまの御神威を仰ぎ、七不思議を今に伝えています。
@氷湖の神幸(おみわたり)
厳寒、諏訪湖が全面に結氷して数日後の夜更けに、雷鳴のとどろきのような音と共に上社の浜から下社の湖岸にかけて大きな亀裂が生じ、更に高さ一米余にも盛り上って、あたかも大蛇がくねくねと這ったようになります。
これが御神渡(オミワタリ)で、上社の男神が下社の女神の許に通われた道筋だと伝えられこの現象ができると、一般の人々も湖上に出ることが許されます。この道筋の方向や形からその年の吉凶が占われていますが、ほぼ同じ方向に、しかも毎年この現象の起ることが不思議となり、御祭神の渡御と信じられて、七不思議の第一に挙げられています。
A元朝の蛙狩り
 本宮玉水舎の項参照
B五穀の筒粥
 春宮筒粥殿の項参照
C高野の耳裂鹿
 前宮十間廊の項参照
D葛井の清池
 茅野市上原に鎮座する旧摂社葛井神社御本殿下の神池に、10月31日夜幣束納神事の際、本宮御幣殿にお配りしてあった御幣束を沈めると、翌元旦には遠州さなぎの池に浮び上ると言われます。またこの池には片目の魚がいると伝えられています。
E宝殿の天滴
 本宮御宝殿の項参照
F御作田の早稲
 下社御作田社の項参照
上社下社七不思議
尚文献に依って少し相違がありますが、上社下社それぐにも七不思議があります。ほとんどが前述の七不思議と重複しますが、一般に伝えられている項目を記します。
上社七不思議 御神渡、蛙狩、宝殿の天滴、高野の耳裂鹿、御作田の早稲(藤島社附属の神事田)、葛井の清池穂屋野の三光「御射山社祭の折、太陽と月、星の三つを同時に拝むことができた)
下社七不思議 御神渡、筒粥、湯口の清濁〔綿の湯〕、根入杉、御作田の早稲、浮島、穂屋野の三光(御射山社は上下両社にあります。)

由緒書






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