下社春宮と秋宮は対等の地位に置かれ、二宮を以つて一社を構成している。 下社の祭神は、2月から7月まで春宮に鎮座し、8月1日の御舟祭で秋宮に遷座し、翌2月1日に帰座される。 |
由緒 下社春宮 中央線下諏訪駅から北西へ1キロ、秋宮から西へ1キロの位置で旧中仙道添に鎮座します。上社へは諏訪湖を隔て約10キロです。 社頭から真直ぐ八百米程伸びる道路はかっては春宮の専用道路で、下社の大祝金刺一族を始め多くの武士達が流鏑馬を競った馬場でした。途中の御手洗川に懸かる下馬橋は室町時代の建立ですが、建築様式は鎌倉時代のもので1730年代の元文年間に修築されましたが、下社では最も古い建物で遷座祭の折りに神輿はこの橋を渡ります。 入口の御影石の大鳥居は万治2年(1659)建立と推定され、境外にある万治の石仏と同じ作者と言われます。 神楽殿と拝殿、左右片拝殿及び御宝殿と続く建物の配置は秋宮と同じです。神楽殿は修改築が幾度となくなされています。春宮と秋宮の社殿の建替が諏訪藩に依って計画された時に同じ絵図面が与えられたと見え、大きさこそ違いますがその構造は全く同じで、春秋両社の建築は彫刻において技が競われております。春宮の社殿は地元の宮大工柴宮(伊藤)長左衛門が請負い、秋宮より後から着工して一年早く安永9年(1780)に竣工しました。 御宝殿は上下社共に三間四方で、方三間の神明造りと言います。下社では寅年と申年の左右の御遷座祭の他に半年毎に春宮と秋宮の遷座祭が執行されます。御宝殿奥の御神木は杉の木で、秋宮は一位の木が祀られています。 神楽殿の西の建物が筒粥殿、その西の清流は砥川です。川の中の島は浮き島と言い、どんな大水にも流されず下社七不思議の一つです。お社は浮き島社と言い、清め祓いの神を祀り6月30日の大祓式、夏越しの祓いはこゝで行ないます。鎌倉武士が御射山の祭典に参列する時まずこの川で身を清め八島高原へ登山したと伝えられます。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
幣拝殿 (国重要文化財) この建物は御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったもので幣拝殿と呼ばれております。建築様式は二重楼門造りで全体に見事な彫刻が施されています。棟梁は地元の宮大工柴宮(伊藤)長左衛門で秋宮と同じ絵図面で秋宮幣拝殿より一年早い安永9年(1780)に落成しました。春秋両宮は社殿構造は同じで当時は双方で技術が競われました。 社頭掲示板 |
左右片拝殿(国重要文化財 片拝殿と呼ばれるこの建物は幣拝殿と同じく安永9年(1780)地元の大工柴宮(伊藤)長左衛門により造営されました。 秋宮に比べて幅が短く屋根は片切りになっています。 社頭掲示板 |
諏訪大社下社春宮 幣拝殿・左右片拝殿 重要文化財 昭和58年12月26日指定 諏訪大社は建御名方富命と八坂刀売命を祀り、上社は建御名方富命(彦神)を、下社は刀売命(女神)を主祭神としている。 下社の祭神は、二月から七月まで春宮に鎮座し、八月一日の御舟祭で秋宮に遷座し、翌二月一日に帰座される。 下社の中心となる建築は、正面中央にあり拝殿と門を兼ねたような型式の幣拝殿、その左右にある回廊型式の片拝殿、それらの背後にある、東西宝殿からなる。東西の宝殿は茅葺切妻造・平入の簡素で古風な形式をもち、甲寅の七年ごとに新築する式年造替え制度がとられている。 右のような荘厳形式は諏訪大社に特有のものであり、またその幣拝殿と左右片拝殿に似た形式は長野県内の諏訪が身を祀るいくつかの神社でも用いられている。 現在の春宮の幣拝殿は安永8年(1771)に完成したと考えられる。大工棟梁は高島藩に仕えた大工棟梁伊藤儀左衛門の弟である柴宮(当時は村田姓)長左衛門矩重(1747−1800)であった。 幣拝殿は間口の柱間が一間、奥行が二間で背後の壁面に扉口を設ける。二階は四方がふきはなちで、屋根は切妻造・平入の銅板葺(元は桧皮葺)で、正面は軒唐破風をつける。 左右の片拝殿は、梁行の柱間が一間・桁行が五間で、屋根は、片流れの銅板葺である。 幣拝殿の建築様式の特徴は各所につけられた建築彫刻の数の多さと、その躍動感にあふれた表現である。正面の腰羽板の波、紅梁の上の牡丹、唐獅子・破風内部の飛龍・一階内部の小壁の牡丹・唐獅子・扉脇の竹・鶏で名作が多く建築彫刻の名手である柴宮長左衛門の腕前がよくうかがえる。 諏訪大社 下諏訪町教育委員会 社頭掲示板 |