伊邪那美神社は本殿向かって左の脇宮。本殿瑞垣内に鎮座。 もと現在地の南南東約4Kmにある天狗山(610m)の頂上にあつたが、それを遅くも建久年間(1190〜99)以前に現在地に遷したものと言われている。 現在その山頂部には元宮平と呼ぶ平坦地があり、そこには自然の大岩の積み重なつた、たしかに祭祀遺跡らしいものもある。 古くは熊野坐神と杵築大神との序列は、終始熊野をもつて首位とし、杵築をもつて次位としていた。中世から近世へとなるに従って杵築大社の方は神威いよいよ輝きをました。その最も大なる因は、この熊野・杵築両大神をともに祖神として齋き祭る出雲国造家が、意宇郡から出雲郡に移住したためと思われる。 |
由緒 出雲国一の宮 熊野大社 「出雲」は、我が国の歴史に最も古い時代から見られ、しかも尊厳な由緒豊かな神社が多く存在するために、「神の国」と云われている。「八雲立つ出雲」と称するのも、多くの神々が坐す出雲との意味があるが、出雲の神のなかの神として「厳神の神宮」と崇敬されるのは、この熊野大社のスサノヲノミコトである。 熊野 『出雲国風土記』(733)は、クマクマシクして神が鎮まるのに適しい処を「熊」と名づけて聖地とみなしている。神稲・神代はクマシロと訓み、神=クマ=カミであり、更にクマが転じてクモともなる。 熊野に坐す神は、人々の幸福と繁栄と平和を保障されて人々の期待に応えられたので、此処に人々は心楽しく生活を営んできた。山陰最古の石器が発見されたのによっても悠久の昔からクマノは住み良い処であった。人々はカミマツリの広場を取り囲み、これを共同生活の精神的支柱としてクニヅクリを始めたにちがいない。熊野に坐すスサノヲノミコトは人々に楽しく生きる力を与えられて鎮座された。 出雲国一の宮 『出雲国風土記』に「熊野大社」と記載され、『延喜式神明帳』(927)に「熊野坐神社」とあるのは、この熊野大社を云う。出雲国造は、熊野大社を出雲の象徴の一の宮として祭祀することにより、政事を治めた。出雲国造の末裔である出雲大社宮司家の千家家では、その世継の神器として熊野大社からヒキリウス・ヒキリキネを拝受するが、昔を今に言い継ぎ語り伝える重儀にほかならない。これによっても熊野大神の貴い霊威を知ることが出来る。 御祭神(おまつりするカミ) 伊射那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命 「伊射那伎の日真名子」とは、国生みを始めて生きとし生けるものを生かし、その主宰神をも生み給うたイザナギノミコト・イザナミノミコトの可愛がられる御子との意である。「加夫呂伎」とは神聖なる祖なる神である。「熊野大神櫛御気野命」とは、この熊野に坐す尊い神の櫛御気野命という意である。 名は神格の本質をあらわす。故に御祭神の本質は、人々の食して生くべき食物に霊威をみちびき、農耕生産の豊穣を約束して、人々の営む万般の生業の発展を保障され、人の世の繁栄と平和、人々の幸福をみちびかれる深厚高大な霊威を発顕具現されるところにある。 素戔嗚尊 スサノヲノミコト 天照大御神の御弟神である。「伊射那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」とは、スサノヲノミコトの別神名である。 スサノヲノミコトは、出雲の簸の河上で八岐大蛇を退治された神話に見られるように、人間社会を洪水の災害から救われて稲田の豊穣をもたらされ、人の世を和楽にみちびかれた。スサノヲノミコトは、不思議な霊威をあらわして成り出づるものが豊富であるようにと世の人々を導かれたのである。 これは、人間社会につきまとう人間であるがために逃れられない不安と苦悩を取除いて人間の営む社会生活の繁栄と平和をもたらされた、ということを意味している。 スサノヲノミコトは人間の幸福を約束される愛の神 スサノヲノミコトは人間の願望期待に応えられる救いの神 スサノヲノミコトは人の世の幸栄のムスビの神 スサノヲノミコトに見守られている限り、人の世は立ち栄えるのである。熊野大神の御神縁に結ばれる人々は、その御手振りに神習って、御神光があまねく世に輝きわたるように神意奉公を尽くさせていただきたいものである。 八雲立つ出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を との御神詠は稲田姫命との御結婚の寿歌であり、和歌の初源である。 御由緒 『古事記』(712)、『日本書紀』(720)は、スサノヲノミコトが八岐大蛇退治された後に、「吾が心すがすがし」と申されて宮殿を営まれた処を「須賀」と記し、また「熊成峯に居し」とも書いている。更に『出雲国風土記』は、「熊野山謂わゆる熊野大神の社坐す」と記している。 この熊野山は現に“元宮ケ成”と称しており、古代祭祀の巨大な磐座がある。すなわち、「熊成峯」・「元宮ケ成」とは聖地の尊称であり、共にカミが顕現された処を表現していると云えよう。熊野大社の元々の宮地は、清浄な山であって意宇川の源流もここにある。 この「熊成峯」・「元宮ケ成」に熊野大神の創祀がある。古い世から信仰は広まり、常に杵築大社(出雲大社)より神階が上位にあったことからしても、如何にその御神威が尊貴であり、御神徳が広厚であったかを知ることが出来る。 『延喜式神名帳』のなかで特に「大社」の称号を負う神社は稀れであることによっても、出雲という僻陬の地に坐しながら「熊野大社」と敬仰される程に由緒は深遠である。 然りながら、社運の衰微によって中世に至ると、上宮を熊野権現と拝し、下宮を伊勢宮と敬して二社祭祀の形態に造営された。このため、かえって祭祀と尊崇に複雑な変化と混乱をみた。更に、戦国時代には兵火によって社殿及び記録のすべてが烏有に帰し、その後は仮殿を営んで明治に至ったことは残念なことであった。 明治4年(1872)の神社制度の改正によって「国弊中社」に列せられたのを機に、現今の社地に神域を整備して上宮と下宮とを合祀して造営が進められ、同14年に造営は成った。大正5年(1916)に「国弊大社」に仰出され、同8年には修理、神域拡張を行い、昭和23年(1948)及び53年に修理造営して社頭は面目一新した。しかし、往古の結構には再興されていない。常に御神威を歴史の上に顕現された熊野大神の御神縁に結ばれている氏子崇敬社は、神意を恭畏して復興を念じつづけている。 日本火出初社 ヒノモトヒデゾメノヤシロとは別称である。 火は人間生活に欠くことが出来ない。火を継ぐことは霊を継ぐことでもある。人間は霊(ヒ)を頂いてこの世に生をうけている。霊は人間生命の根源であり、火もまた人間生命を支えるものである。スサノヲノミコトが火をキリ出すことを教えられて、人間生活を和楽にみちびかれた御神威によって、この宮を斯様に尊称した。 いずものくにのみやっこひつぎ 出雲国造の霊継 出雲国造は、熊野大社の神火を頂くことにより、初めて神性国造としてその職を襲うことが出来る。熊野大神の御神意に叶うことが最高の条件である。神器のヒキリウス・ヒキリキネを拝戴する儀式を今も伝え仕えている。 出雲国造の末裔の千家宮司が仕える出雲大社では、年間に72度の祭儀があるが別して重儀とされるのは11月23日の夜に奉仕される「古伝新嘗祭」である。この時神器によて「神火」がキリ出されて、神々との相嘗の“食事”が調整される。これによって出雲大社宮司は神性国造としてよみがえるのである。 鑽火祭・10月15日 出雲大社宮司が参向して奉仕する鑽火祭・キリビマツリには、“亀太夫神事”という特殊な儀式もあり、特に出雲大社宮司は“すめかみをよきひにまつりしあすよりはあけのころもをけころもにせむ”との神歌と琴板に合わせ百番の榊舞を納める。 境内の摂末社 御本殿は神社建築を代表する大社造である。向って右に稲田社があり、嫡后櫛稲田比売命と比売命の御親の脚摩乳命と手摩命とをお祀りしている。左は伊邪那美社であり、伊邪那美命と旧熊野11地区の神社(式内社8社)合祀している。式内社とは『延喜式神名帳』に記載されている全国的に由緒ある神社である。明治39年に「一村一社」の制が施かれたので奉還合祀されたが、村内にあったその他の小祠は荒神社と稲荷社として御垣外に奉斎している。 御祭日 ☆1月1日 歳旦祭 15日 祝年祭 成人祭 ☆2月節分の日 節分祭 厄除祈儒祷祭 11日 建国記念日 17日 祈年祭 ☆3月25日 奨学祭 巫子交替祭 春分の日祭 ☆4月13日 御櫛祭(春大祭) 29日 長寿祭 ☆5月第四日曜 本宮祭(本宮ケ成の山開祭) ☆6月30日 夏越祭(大祓) ☆8月1日 古伝桃祭 ☆9月15日 敬老祭 秋分の日祭 ☆10月14日 秋大祭 15日 鑽火祭 亀太夫神事 合祀記念祭 ☆11月15日 紐落祭 第四日曜 御狩祭 ☆12月2日 新穀感謝祭 御煤払祭 31日 大祓祭 除夜祭 ☆ 毎月1日 月次祭 毎月15日 奉賽祭 八月中旬 熊野ふるさと祭 ◎御祈念は随時に奉仕いたしますので受付に御申込下さい。 宝物 ☆銅鐸 日本最古の銅鐸と云われている。現在、八雲立つ風土記の丘の資料館に保管されて陳列してある。 ☆銅鏡・土器 熊野生活伝習館に展示してある。 ☆島根県有形文化財 武将手簡 社領坪付帳 社山禁制書 寄進証文 近衛家 久和歌懐紙 無題答文書 栄螺形胄 甲二枚胴黒小札紫縅鎧 歴史と由緒に富む神社であるから相当な古文書・什器を始めて諸武将奉寄進物もあったと思われるが、中世の毛利氏と尼子氏との合戦場となったために、その兵火をうけて、それらのすべてが社殿と共に焼失したことは、かえすがえすも惜しみても余りあることである。 ☆八雲琴 伊予国中山琴主は御神示によって“八雲琴”を開眼した。今も出雲では八雲琴が神事に用いられるが、当社では行われていない。 ☆文化財は確実に保存するために県立博物館に保管を依頼している。 環翠亭 昭和61年は今上陛下御在位60年という慶賀に堪えぬ年である。それを奉祝して、御神縁に結ばれて寿楽の日日を与えられている氏子及び崇敬者は、参集所であり休憩所である“環翠亭”を新築すると共に梅林造成・造園・神地整備の事業を成した。環翠とは緑にかこまれて清々しく心地がよい、という意味で、御神徳にちなみ名づけられた。 スサノヲノミコトは国造りを竟えて、ご使命を尽くされたので「わが心すがすがし」と仰せられた。人間は常にスガスガシイ心でスガスガシク生きることが、誰とも和楽に人生をすごせることだ、と教えられている。為さんとする仕事を為し得た時のあの心こそがスガスガシイ心である。この心で精一杯に尽くさせて頂きたいものである。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
熊野大社 『出雲國風土記』(733)に熊野大社、『延喜式神名帳』(927)に熊野坐神社と見え、日本火出初神社とも称され、古来杵築大社(出雲大社)と並びて出雲の國の大社と遇された。 上古朝廷の御尊崇極めて篤く、仁壽元年(851)特に従三位を、貞観9年(867)正二位の神階を奉らせ給い、且つ殖産興業・招福縁結・厄除の大神として衆庶の信仰が深い。 明治4年國幣中社、大正5年國幣大社に進列された。 特に出雲大社宮司の襲職は当社から燧臼燧杵の神器を拝戴する事によって初まるのが古来からの慣で今も奉仕されている。 公式HP |