熊野大社
くまのたいしゃ


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【由緒】

第二章 熊野神社
当社は意宇川の上流渓谷なる八束郡熊野村の字宮内に御鎮座の御社で、当社発行の熊野大社略誌によると、『当熊野の地は出雲風土記に見ゆる出雲神戸の里と思はれる。松江市をさること南三里半、今は島根県八束郡熊野村として三百余戸を有する農村であります。本社神域は、この村落の中央に位し、前に意宇川の清流をへだてて遙に熊野山(熊成峯俗に天狗山といふ)を仰ぎ、後方に須我の秀峯を控へた大神御鎮座以来の霊地であつて、素盞鳴山(御陵墓伝説地)を背後に負へる本宮を中心に熊野三社大権現、稻田姫社が並び奉斎せられて、延長十余町に及んでゐたといふことであります。当初、本社の神域のみにても五町四面でありましたが、天文11年兵災に罹つて荒廃し、ついで元禄11年意宇川氾濫し、本社の前半面を横断して神域の過半を流失し、参道は之がために中断せられました。明治6年境内地取調の際、一千二百三十坪と劃定せられ、爾來漸次復旧して現地域三千九十二坪にまで拡大されましたが、なほ旧域の半にも達せざる有様であります』と見えて居ります。
この元禄11年の意宇川の氾濫は、從来今の県道の東側の邊を流れてゐたこの川が、この時川筋をかへて現在のやうに、直ちに境内の東端前面を洗つて流るるやうになったもので、そのため賽路より境内に入るために、今の如く八雲橋を必要とするに至ったのであるが、往昔この賽路の幅は六間、延長は七十五間あつて、今よりも余程大規模であつたらしく、且つその一直線の正面に御本殿があつたのであります。然るに大正8年の御造営に際して、御境内拡張と御本殿の移転が行はれた結果、今日のやうに賽路の屈折によるその些かの延長と八雲橋の移転とを来すこととなつたのであります。
元来社は下ノ宮といひ、當社より川上にある天狗山の山口に当る所の対岸に上ノ宮と称する御社があつた。これ即ち前略誌に熊野三社大権現と見ゆるものに当るのであつてそれは今日では当社の境内神社となり、旧社地は当社の附属となつてゐるが、当社の御由緒上最も注意すべき神社であります。
乃ち此の神社を始め当社の境内神社については次に述べるとして、絃に今少しけ境内の現況を記せば、当社の御笠山は素戔嗚山と称し、蔚然たる桧の森であつて、頂上に石積があり、これを御祭神の神陵と申している。而して大正8年以來その神陵の真下の正位において当社の御本殿が御鎮座になつたわけであるが、この御本殿は永禄8年の建造にかかる正殿桁行梁間共に一丈四尺三寸、高さ一丈九尺九寸の建築であります。この本殿の左右に両摂社が坐し、その前に建坪二坪八合八勺の神門があり、その左右に連結せる透塀を以つて神殿を取巻いているのであります。又神門の前には入母屋造十一坪五合八勺の拝殿がある。これは妻入であつて、明治12年に中社社格規定に準して造られたものであり、この外神饌所・随神門・鎮火殿・社務所・雑舎等が千古幽邃の境、老松古樹の間に相並んで転々森厳の威を深うする次第であります。
一、摂社 稻田神社
  祭神 稲田姫命 脚摩乳命 手摩乳命 
  配祀三柱 合祀三柱
当社は、もとこの墳内をさる東北七町ばかり、稲田姫神陵傅説地の北傍にあつた。出雲風土記に前社、延喜式に前神社とあるのがこの御社であるといふ。今の如く本社域内に奉遷して稲田神社と称へ奉るに至りし年代は不詳。明治41年諸社を合祀した。
一、摂社 伊邪那美神社
  祭神 伊邪那美命
  配祀六柱 合祀二十四柱
当社はもとこの境内をさる西南四待ち許りの所にありて、所謂熊野三社大権現と称へられ、一般衆庶の崇敬殊の外厚く、社頭殷賑を極めた御社で、出雲風土記にいふ久米社、延喜式に見ゆる久米神社は即ちこの御社であるといふ。明治42年本社境内に移転奉齋し、同時に他の摂末社をも合祀した。
右は略誌に拠る所であるが、熊野村は元来十部落に分れ、各部落毎に神社があり、延喜式所載の社だけでも八社に及んでゐたのを、逐次本社境内の右両摂社に移転合祀して一村一社としたものであります。
当社の御祭神は神祖熊野大神櫛御気野命であります。略誌にはこの神の御鎮座について『神祖熊野大神櫛御氣野命一座、擶御氣野は奇御木主の義で、殖林の祖神として、この熊野に鎮まります素盞鳴尊の御功績をたたへまつる御名であります。抑々大神は、天資豪邁、國土経営の大任を帯びさせられ、特に韓地に徒來して内地経綸の宏模に御心を注ぎ給ひし御事歴を始として、或は簸川上の地に叢雲の霊劒を得て皇位の隆昌を効し、或は御子神等を各地に派遣せられて、殖産の大業を奨めさせ給ひし等限りなき御神徳の程いとも畏き次第であります。素戔嗚尊高天原より天降りまして、國の内外を治め給ひし後、出雲国簸川上なる鳥髪の地にて八岐大蛇を平げ、稲田姫命と婚約遊ばされて宮造るべき地を求め給ふや、この熊野路に来り、山河の景勝を賞せられて「吾來此地、我御心須賀須賀斯」とのたまひ、
八雲たつ出雲八重垣つまこめに八重かきつくるその八重かきを
と神詠をものしたまひて、出雲風土記にも熊野山、郡家正南一十八里、有檜檀也、所謂熊野大神社坐とあるが如く、宮居をこの熊野の地に定めてお鎮まりなされたのが、實に当社の起源であります』と見えてゐるが、明細帳には「祭神 須佐之男尊 亦御名神祖熊野大神櫛気野命」と記されて居り、乃ち当社は須佐之男命の御本社と称せられ、日本紀に尊の居給うた熊成峯とあるのは、やがて熊野山に当るのだとも説かれてゐるのであります。`
鎮火祭(10月15日)
本社祭神に坐す神祖熊野大神櫛御氣野命(素盞鳴尊)が熊成峯の神木を以つて、燧臼燧杵といふ発火器を作り、忌火を切り出して神事に用ふる術を創めたまひ、この霊器を出雲國造の遠祖にして出雲大社の祭主たる天穂日命に授けたまへる故事に基く神事にして、社傳によれば、本社を一に日本火出初神社とも称し、神代の遺法として、毎年11月卯日出雲國造本社に参向して燧臼・燧杵授受の式を行ひ、忌火をもつて新穀を炊ぎ、熊野・杵築の両大神はじめ出雲國内の式社百八十七社の神々を祭祀せり。これ古傳の新嘗祭の因つて基づぐところにして、現今に於ても、古例により毎年10月15日の鎮火祭には、出雲國造の末裔たる出雲大社宮司本社に参向、神餅を奉献して燧臼・燧杵を受くる鎮火神事を行ふ。殊に古來国造交代の際には、直に本社に親参して、傳家の霊器を以つて神火を切り出し、飲食を調理し、これを以つて世継の神式を行へり。これを神火相続即ち火継の式と称し、國造家第一の重儀として、現に相傳へて今日に及ぺり。
燧臼の製作は檜材中堅の臼身と節とを去り、上削りをなし、長さ三尺一寸五分、幅四寸厚一寸に作る。燧杵は空木の正面なるを選び、上皮を取去り、その根空を檜にて充填し、長さ三尺一寸五分、中径四分以上に作る。発火の作法はまづ奉仕の神職鑽火殿に参籠して、齋戒潔清の後、拍手神拝して、燧杵を燧臼に衝立て、間断なく揉み下して忌火を鑽り出すものとす。又この祭は中祭式にて執行す。定刻出雲大社宮司(先導一、随員二、担夫三、その他)参進、まづ亀太夫神事執行、畢りて鑽火殿に於て鑽火神楽を行ひ、新穀を炊ぎて神饌所に供す。次で本社宮司以下神職、出雲大社宮司以下神職着座、捲簾献饌、本社宮司祀詞奏上、出雲大社宮司黙祷、畢りて百番の舞を行ふ、この間伶人須賀歌を齊唱す。
御櫛祭(4月13日)
本社祭神素盞嗚尊が、出雲国簸川上なる鳥上の地において八俣遠呂智を屠り、櫛稲姫田命の危難を救ひたまひし時に、姫の両親足名槌手名槌二神の許諾を得、御婚約の標として親ら御櫛を姫に与へたまひ、次いで熊野の地に宮居を定めて、夫婦の道を啓きたまひし故事に起因する神事にして、古来御櫛祭と称へ、その祭儀は中祭式とす。即ち定刻宮司以下昇殿献饌に引続き、まづ素盞嗚大神を祀る本宮に御櫛を献りて祝詞を奏し、畢りて、御櫛をば宮司これを捧持し(神職一名先導、その他は随従)摂社稲田神社にこれを供進して大神より嫡后稻田姫命に結納の神櫛を授け奉る神事を行ひ、ついで舞女四名拝殿に昇りて御結婚を祝する一社相傳の神樂舞を奏す。なほ当日奉献の御櫛を賽者に抽籤にて授与するを例とす。(以上二項熊野神社古傅祭解説による)
乍併当社の最も仰ぎ尚び奉るべぎは、神祖熊野大神櫛御氣野命の御名にあらはれた御神徳ではありますまいか。蓋し當社の社傅にはクシミケヌノ命とは素盞嗚尊の熊野に於ける特殊の御名と伝へられて居るが、風土記によれば、出雲神戸はこの大神を第一として国内百八十四神に寄せられた神戸であるやうに考へられるし、神賀詞によると出雲國造が國内百八十六社の神々を祀る中にて、この大神を最上位に数へてゐるのは、固よりその所とすべく、令義解には特に出雲臣の齋きまつる神として記されて居ります。記紀に出雲大神宮といひ、厳神之宮といつてゐるのも、或は當社を指して云つたものかも保しがたいのであります。しからば、それは何故かと云ふに、この御神が恐らく御食神たる故でありませう。即ちこれは御食神に坐すのが故に貴いのであつて、これを出雲族の祖神と仰ぐのも、かるが故かと拝察され、かの御食神たる豊受大神が皇大神宮に御鎮座になってゐるが如く、出雲においては、櫛御氣野命が当社に奉齋されて來たわけであらうかと存せられるのであります。ただここに考へねばならぬことは、この大神は風土記にも神賀詞にも伊弊奈枳乃麻奈子に坐すとある点であります。初天地本紀にもさう見えて居るが、而も他の神典にあらはれてゐる所では、ここの伊弊奈枳尊乃至高皇産霊神は高天原系統の諸神の關係に多く見え給ひ、それに対して、出雲族の祖神は伊弊再尊であり、神皇産霊神である筈であります。勿論神代のことは、凡慮にて窺ひがたいわけなれど、特にここに当社大神を伊弊諾尊の愛子に坐すといつて、且つこれを杵築大社の上に置き、敢へて國造の奉斎神とまで記されてゐるのは、実に深遠な意昧が存するやうに思はるるのであります。
当社は風土記に熊野大社と見えて居ります。これ今日当社を俗に熊野大社と呼ぶ根拠であるが、抑々風土記にて大社の号あるは当社と杵築大社との二社に限るのであります。それが延喜式に至つては熊野坐神社と変つてゐるけれど、しかも名神大の御待遇は依然として當壮と杵築大社との両社だげであります。而して九條家本延喜式の裏書に出雲國天徳元年勘出穀頴を記した内には、造熊野大神宮新稲二千漆百拾壷束漆分一毛玖りなどとも見えて居るのだから、熊野大神宮乃至熊野神宮と称したこともあつたに相達なく、又永禄以後当社の旧記には出雲一宮態野大神宮とも、日本火出初神社とも或は又熊野伊勢宮とも見えて居るが、現在の社號は熊野神社であります。
処で大化改新以降は、同族三等以上の親は、郡領に連任することを禁せられて居たけれど、文武天皇の2年3月の詔によつて、筑前国宗像郡と出雲國意宇郡とは、神郡たる故にこの禁をば除外され、慶雲3年以来は、国造の郡領兼帯といふ特例をもこの出雲の意宇郡には許容されたのであります。出雲臣廣島が、天平年中に国造と意宇郡大領とを兼帯してゐたのはこの結果であつて、その理由とする所は、實に意宇郡が当社の所在郡として、所謂神郡に列してゐたからでありませう。これは式に定められてゐる所であるし、小右記の長元4年3月8日の條には、神郡司之職、社司之任、名雖異、其職是同と見えてゐるので明かであります。また大同元年に至つて、當社從来の封平二十五戸に、新に十戸を加へらるることとなりました。(新抄絡勅符)次で仁寿元年9月乙酉には特に出雲国熊野杵築両大神を擢でて並に從三位を奉授され(天徳実録)又貞観元年正月27日には、出雲國從三位熊野大神杵築大神に正三位、同5月28日には出雲國正三位動七等熊野坐神・杵築神に從二位、同9年4月8日には出雲国從二位勲七等熊野神・勲八等杵築神に正二位を奉授され(三代実録)、醍醐天皇延長4年10月2日、畿内七道の諸神に御一代御一度の奉幣が行はせられた時、常社は杵築神と共に山陰道諸社の代表として、御供進を受けた御社であるが、次で後一條天皇の寛仁元年10月2日畿内七道の神社に、御一代御一度の幣帛神宝の供進が行はせられた時にも、出雲熊野杵築の両所を山陰道の代表神社として紫綾笠一蓋(四角在金銅鈴)平文野劒一腰(入赤漆細鞘)赤漆御弓一張箭四筋平文鉾一本(在鉄身尻)五十鏡一面(在平文錦折立)平文麻桶一口平文線柱一本御幣一棒各錦絹各五疋糸五両を奉納せられ(左経記)のであります。然るに延喜式に至って大社の号が単なる神社号に変つた当杜は、さらに平安朝の末に至つて從来の熊野杵築といふ順位も逆になつて來た。乃ち承暦4年6月10日、神事を穢すことの祟の御トにあらはれたことに依つて、藷国の神社の社司に祓いを科せられた際には、出雲國の神社として杵築神・熊野神・佐久佐神と挙げられてゐるのであります。(朝野群載)これは、古く当社を当國の一宮と記されてゐるのに、何時しか出雲大社を一宮と称するに至つたのと、その軌を一にするわけであります。
かくの如くにして、鎌倉時代に入るや、当社の地位は急に衰退して行き、清瀧宮勧請神名帳に至つては当国にて杵築・佐久佐・佐陀・揖屋を拳げて当社は見えぬのであります。これは一方に八束郡大庭村大宇大庭なる神魂神社の新なる台頭による結果であらうと称せられます。一体神魂神社は、式にも風土記にも見えぬ神社であるが、その鎮座地は卿ち出雲國造の意宇郡領時代に居住したところであり、後世もそこに別館を建ててゐた。而してこの神魂神社に対する國造の崇敬は、宛としてかの令義解に所謂出雲国造斎神の観があるものであつた。して見ると國造秘記に、熊野と神魂とは同体也とあるのも故あることであります。神魂神社については、なほ同社の項に譲るとして、翻つて当社の沿革はこの後毛利氏の当國領有の頃まで殆ど紀載を断つに至つたが、社傅によれば、天文11年大内氏の兵災にかかつて本殿以下惹く鳥有に帰し、同15年8月18日当熊野庄の地頭熊野備前守久家漸く草葺の假殿を造つて遷宮し奉つた。かくて永禄8年3月18日に至って毛利元就より上下両宮を造営し奉り、次いで天正10年7月朔日当地の領主天野隆重が修造し奉つて以来國主領主の修造十一回で、その十二回目に至つて明治14年宮営の修造があり、更に十三回目には大正2年より神域の復旧拡張を行って同8年9月竣工したのが現在の御社頭であります。(この度国費三十万円を以つて、改めて御本殿十八尺四方、天文以前の規模に復古すべき御造営が行はるることに決定した拠であります。)
次に社領に於ては、永禄8年7月領主熊野兵庫助元親より六俵尻の田地を寄進したことが見えるが、元亀2年5月23日には吉川元春等より社領の安堵状が与へられ、翌3年3月21日には毛利輝元より三十八貫尻の社領の安堵が行はれてゐる。これは慶長6年堀尾吉晴の時寄進されだ高四十一石に当ると考へられます。堀尾氏はその内二十四石を修理免として残る十七石を祭田として奉納したが、別に伊勢山・権現山・王子山の三所の宮山を禁伐林と定め、次いで寛永11年9月26日京極忠高が又この例を襲つて以来永く松平氏の先従ともなつたのであります。尤も明治元年11月24日松平定安は、新社領三十石を藏米で加増したのは、当社御復興の兆が現れたからであり、同4年5月14日明治の新政による社格制定に方つては、遂に國幣中杜に列せられ、同10年3月21日には両摂社が定められ、大正5年2月17日には國幣大社に昇列されて、同3月6日これが奉告祭を執行し、勅使の参向があり、仍つて同10月3日には旧藩主松平直亮伯爵より長曾禰利光の甲冑一領の寄進も行はれたのであります。
なほ当社には後陽成天皇の御宸筆以下古来の武家領主等の手蹟を始め、三條宗近・郷則重・長船忠光等の刀、三面の古鏡、青玉等の宝物七十余点に及び、又村内出土の古土器を数多所蔵してゐるが、この古土器は特に上代祭祀の遺物であつて、以つて当社の御鎮座地の尋常ならぬ由緒を思はしむるのであります。
終わりに当社々家について記せば、寛文11年2月の社領坪付帳に、当時の社人は別火・宮太夫・韓取・一ノ神子・二ノ神子・三ノ神子・竈・宮守の八軒あつだことが見えて居り、就中別火は一社の長職で慶長7年の文書には出雲五別火の一人と見え、その初見は上記元亀2年及び3年の毛利氏社領安堵状に熊野別火殿とあるものであるが、天正4年12月18日天野隆重は別火の知行少ければ領地なる加賀村にて二斗八舛俵十荷を年々遣はすべしといひ、同11年10月1日隆重の子の元環もこれを安堵して居ります。この時の別火は天正7年9月5日從五位上に叙せられた源倶家に当ると思はれるが、これは江戸時代に入つて鈴木氏を名乗り、次いで熊野氏を称し、明治以後は全く熊野を苗字として来た元の宮司家である。処が鈴木氏は元来紀州熊野に起り、熊野三杜権現の御神徳を宣揚せんとして、諸国に弘布した氏族であるから、当社の上ノ宮たる熊野三社権現を祀つた神主としての鈴木氏の意義は多弁を要しないわけでありませう。ただこの鈴木氏奉仕の時代如何といふに、熊野信仰普及の時代を併考へれば鎌倉時代まで遡りうるかも知れぬ。さうするとそれ以前は出雲国造が自ら奉仕し、その自ら奉仕しえぬやうになつて別火職を置いだと見るべきか。これは独り熊野だけでのことではないが、熊野でも別火を置いた時に鈴木氏がこれに任じたのであらう。旧記には鈴木氏は源氏と称してゐるが、鈴木氏は穂積氏の筈なれば、これは佐々木の一族で熊野庄の地頭たる熊野氏の系統と混じたのかとも考へられるのであります。

神国島根






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