気比神宮
けひじんぐう 所在地 社名















   【延喜式神名帳】気比神社 七座(並名神大) 越前国 敦賀郡鎮座
          (摂社)角鹿神社
          (摂社)大神下前神社
          (摂社)天利劔神社
          (摂社)天伊弉奈姫神社
          (摂社)天伊弉奈彦神社
          (旧地)土公

   【現社名】気比神宮
   【住所】福井県敦賀市曙町11-68
       北緯35度39分18秒、東経136度4分29秒
   【祭神】伊奢沙別命 仲哀天皇 神功皇后 日本武尊 應神天皇 玉妃命 武内宿禰命
   【例祭】9月4日 例大祭
   【社格】旧官幣大社 名神大社 越前国一ノ宮
   【由緒】仲哀天皇2年2月天皇皇后と角鹿行幸三韓征伐祈請
       神功皇后13年2月8日神功皇后皇子誉田別尊と武内宿禰参拝
       持統天皇6年(692)9月封戸二〇戸
       天平2年(730)12月封戸二〇〇戸
       大宝2年(702)勅命により社殿が修営
       霊亀元年(715)藤原武智麻呂が霊夢により氣比神宮寺を建立
       天平3年(731)從三位(新抄格勅符抄)
       寛平5年(893)正一位勲一等
       延元元年(1336)大宮司氏治金ケ崎城で奮戦一門討死
       元亀元年(1570)信長の越前攻略により社殿を焼失
       慶長19年(1614)福井藩祖結城秀康によつて再興
       明治4年7月国幣中社
       同28年1月官幣大社
       明治28年3月26日神宮号宣下
       昭和20年7月12日空襲により社殿を焼失

   【関係氏族】
   【鎮座地】鎮座地の移転はない
       境内に「土公」とよばれる墳型の盛地があり旧本殿社殿地とも伝える

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 気比神宮
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】角鹿神社・兒ノ宮・大神下前神社・猿田彦神社
   【境内図】 境内図

上古より北陸道総鎮守と仰がれて尊崇されている。
本殿は南面、四周に東殿宮、総社宮、平殿宮、西殿宮があり、四社の宮とよばれる。
総参祭(もと旧6月中の卯の日)は、神体を船形の神輿に遷し、御幸浜より御座船「神宮丸」に乗せ、海上を対岸の常宮神社(北西約5Km、敦賀湾西部の常宮湾に面し、明治9年まで当社の第一摂社)へ渡御するもので、両社のかかわりを探る上で極めて重要な意味をもつ。


気比神宮

北陸道総鎮守
氣比神宮略記
御祭神
伊奢沙別命  仲哀天皇  神功皇后  日本武尊  応神天皇  玉妃命  武内宿禰命
由緒沿革
伊著沙別命は、笥飯大神、御食津大神とも称し、二千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境の形態を留めている。上古より北陸道総鎮守と仰かれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は勅命により御妹玉姫命と武内宿禰命とを従えて筑紫より行啓せられ、親ら御参拝された。その時に笥飯大神か玉姫命に神憑りして「天皇外患を憂ひ給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずして自ら帰順すべし」と御神託かあったという。文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮に、応神天皇を総社宮に玉姫命を平殿宮に武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。明治28年3月26日に神宮号宣下の御沙汰に依って氣比神宮と改められた。延喜式神名帳に「越前國敦賀郡氣比神社七座並名神大社」とあり、中古より越前國一ノ宮と定められ、明治28年に官幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなった。当神宮の神領は持統天皇の御代より増封か始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当神宮の御厨となった。渤海使か相次いて日本海沿岸に来着したのて神領の氣比の松原(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の処として、天平神護2年(766)勅によって松原客館か建設され、これを、氣比神宮宮司か検校した。延元元年(1336)大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉し金ケ崎城を築いて奮戦したか利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は減せられたか、なお、二十四万石を所領できたという。元亀元年(1570)4月大神司憲直等一族は国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天筒山の城に立籠り大激戦を演じたか、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、四十八家の祠官三十六坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。慶長19年(1614)福井藩祖結城秀康公か社殿を造営されると共に社家八家を復興し、社領百石を寄進された。この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治39年国宝に指定されたか戦災(昭和20年7月12日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。その後、昭和25年御本殿の再建につつき同37年拝殿、杜務所の建設九社の宮の復興を見て、祭祀の巌修につとめたか、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和57年氣比神宮御造営奉賛会か結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、拝殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御世に至って御大典記念氣比の杜造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新して今日に至る。
御神徳
伊著沙別命は笥飯大神、又の名を御食津大神と称へ奉り食物を司り給う神て、夙に海上交通農漁業に神蹟を垂れ給ひ、神功皇后、応神天皇亦漁業に対する御神徳著しく、古来五穀豊穣、海上安全、大漁祈願か行はれ、現に農漁海運業者の崇信か極めて篤い。仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・武内宿禰命は無病息災延命長寿、また神功皇后・玉妃命は音楽舞踏の神てある。
例祭
9月2日宵宮祭、3日神幸祭、4日例大祭、5日より10日迄後祭、15日の月次祭を以て終るのて氣比の長祭として有名である。 境内外には露店興業か軒を列ね、練山引山が出され、期間中は市内各種団体の神賑奉納行事かあり北陸一帯はもとより、京都、大阪、滋賀、愛知等、各府県からの参拝者頗る多く、北陸の歴史的年中行事として著名てある。3日の神幸祭には御鳳輦をはじめ氏子各町の神輿か市中を巡幸渡御になり市内一円は各種行事て賑わい祭礼気分か瀰る。
特殊神事
御田植祭6月15日。旧神領地てある敦賀市津内の篤農家か奉仕。三百年以上の伝統に支えられ、田長以下早乙女か古伝の神楽歌を口ずさみ豊穣を祈願する特殊神事てある。現在は県農業協同組合が協賛する。
牛腸祭 6月16日。氏子各町か毎年輪番に牛腸番を受持ち奉仕。大前て祭典を執行し、行列を整へて斎館に入り、当年の例祭練山曳山等の次第を米くじて決定し一旦帰宮、再ひ斎館で当番区は山海珍味を饗応する。女子禁制て其他厳重な制度かあり類稀なる特殊神事として有名てある。
総参祭 7月22日。神儀を御船形の神輿に奉遷発御、御幸浜より御座船「神宮丸」に奉安、神功皇后御航行の盛儀を模し、氣比大神の御用漁師たる敦賀湾の漁業家か和船に分乗して神宮丸の曳行を奉仕し、対岸の摂社常宮神社に神幸し給ふ。供奉船も随ひ上下総て神事に加わるのて「ソウノマイリ」ともいう。曳行を一度奉仕すれは三年の豊漁に恵まれるといふ信仰をもち、この日敦賀湾は禁漁日とされる。船中で祭典を行ひ神饌を海中に撒き海神に供へ奉る。暫し常宮神社に奉遷し夕景還御。この日常宮神社は例祭を執行する。
境内神社
角鹿神社 摂社、祭神都怒我阿羅斯等命、式内杜、崇神天皇の御代、任那の王子の都怒我阿羅斯等氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇氣比大神宮の司祭と当国の政治を委せらる。その政所の跡に此の命を祀ったのか当神社て現在の敦賀の地名はもと「角鹿」でこの命の御名に因る。殿内に宝物獅子頭を安置す。除災招福の信仰か篤い。天保10年松尾大神を合祀、酒造家の信仰か篤い。 大神下前神社 未杜、祭神大己貴命、式内社、氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。
児宮 末杜、祭神伊弉冊尊、徳川時代から子育ての神と称され小児の守神として信仰が篤い。
猿田彦神社 末社、祭神猿田彦大神、氣比大神の案内をされる神といふのて表参道北側にある。
一般に庚申様と唱へて信仰が篤い。
神明両宮 末社、祭神、天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)、外宮は慶長17年3月28日、内宮は元和元年9月28日それぞれ勧請奉祀されたものてある。
九社之宮
天利劔神社 御祭神は天利劔大神。式内社て、往昔仲哀天皇當宮に参拝宝劔を奉納あらせられ霊験いとも奇しと云う。後に祠を立て天利劔宮と称へ奉り御神徳をさずかる崇敬者はすこぶる多い。
天伊弊奈彦神社 御祭神は天伊弉奈彦大神。式内杜で続日本後記に、承和七年八月越前國従二位勲一等氣比大神御子無位天利劔神、天比女若御子神、天伊佐奈彦神、並従五位下を奉授せらるとある。
天伊弉奈姫神社 御祭神は、天比女若御子大神。式内社、社家傳記に、伊佐奈日女神社 伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神を祀りしものなりと云う。古来縁結びの御神徳が顕著である。
伊佐々別神社 御祭神は御食津大神荒魂神。当宮旧記によれば「古来漁捕の輩之を尊敬し率る」とある。この社殿が北面しているのは漁労を守る神であるから、北方の海を向いているのだと伝えられている。往昔応神天皇皇太子の時当宮に参拝され、夢に大神が現れ御名を易ふる事を約し亦仰せの通り翌朝供に出てみると笥飯の浦一面に余る程御食の魚を賜わった。天皇大いに嬉び給ふと共に御神威を辱なみ、武内大臣に命じて新たに荒魂を勧請崇祀せしめられたのがこの社である。
擬領神社 社記に武功狭日命と博え、一説に大美屋都古神又は玉佐々良彦命とも云う。旧事紀には「蓋し當國國造の祖なるへし」と載せてある。
鏡神社 神功皇后角鹿に行啓の際種々の神宝を當宮に捧け奉った。其の中の宝鏡か霊異を現はされたのて別殿に國常立尊と共に崇め奉り天鏡宮と構へ奉ったと云う。慈悲之大神として遠近からの参詣者か絶えない。
金神社 素盞鳴尊を祀り、家内安全の神とされている。恒武天皇延暦23年8月28日、繹空海當宮に詣て、大般若経一千巻を転読求法を祈り、嵯峨天皇弘仁7年に復ひ詣てて当神社の霊鏡を高野山に遷して、鎮守の社とした。即ち紀州高野山の氣比明神はこれてある。 林神社 林山姫神を祀る。福徳円満の大神として崇敬者が多い。延喜式所載の越中國礪波郡林神社は當社と御同体てある。垣武天皇延暦4年勅に依り繹最澄氣比の宮に詣て求法を祈り、同7年再び下向して御子林神社の霊鏡を請ひ此叡山日吉神社に遷し奉った、却ち当社が江州比叡山気比明神の本社てある。
剣神社 御祭神は姫大神尊、剛毅果断の大神として住古神明の奇瑞かあったのて・莇生野村からここに勧請し奉ったと傳えられている。
文化財指定
大鳥居 高さ三十六尺柱門二十四尺、木造両部型本朱漆、寛永年間旧神領地佐度国鳥居ヶ原から伐採奉納した榁樹て、正保2年建立した。明治34年国宝に指定され、現在は国の重要文化財てある。正面の扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆である。他に、敦賀市指定文化財として、能面尉、猿田彦面、氣比神宮古図、ユーカリ樹かある。
行幸啓奉幣及祈願
当宮は往古より皇室の御尊崇最も深厚にして歴朝の奉幣又行幸啓も極めて多し(以下主なるを記す)
宝亀元年(770)中臣葛野連飯麿を遣はして奉幣
承和6年(839)神祇少副大中臣朝臣磯守を遣はして奉幣
寛平5年(893)菅原道真朝臣を遣はして奉幣
延久元年(1069)橘朝臣季任を遣はして奉幣
弘安4年(1281)蒙古来襲により使を遣はして奉幣
正応年中(1288〜99)異族襲来の聞えあり宮司勅を奉し祈請
元禄14年(1701)合祀一千年祭執行に当り、青蓮院宮御社参、神馬一疋、太刀一振献せらる。
同年尊祐法親王より「正一位勲一等氣比大神宮」の扁額ご奉納
明治11年明治天里御親拝、幣串神饌料を奉らる
同22年憲法発布奉告祭のため勅使参向奉幣
同37年日露宣戦奉告祭に勅使参向奉幣
同年有栖川宮威仁親王御染筆の国宝大鳥居の扁額ご奉納
同42年東宮殿下(大正天皇)御参拝、松樹の御手植を遊はさる
昭和14年東久邇宮稔彦親王殿下御参拝
同41年常陸宮殿下同妃殿下御参拝
同43年昭和天皇皇后両陛下御親拝御幣帛を奉らる
同62年昭和天皇本殿遷座祭にあたり幣帛料を奉らる
平成3年天皇皇后両陛下北陸行幸の際幣饌料を奉らる
境内
当神宮境内地全域11,253坪。東北部にある「土公」は当神宮鎮座にかかる聖地である。社殿家屋建立の時、「この土砂を其の地に撒けばあしき神の崇りなし」と信ぜられる伝説と神秘に富む神代の述霊、古へ最澄、空海もここで大行を修した。又、菅原道真公献木の「菅公の梅」が近年迄あったが昭和の大造営により四季桜とともに氣比の杜に移植した。年中行事「御砂持行事」の起源をなす一遍上人が参道修理を物語る蓮池の不思議があり、「多宝梅」がある。又、延元元年当神宮宮司氣比氏治が御醍醐天皇を奉じ旗挙げした一名「旗掲の松」の旧根が朱塗中島居前に残っておりその二代目が既に成木として雄々しく育っている。
神水苑
氣比の社は創祀二千有余年の歴史に培われた日本有数の古社であり元の宮幣大社である。敦賀の地は往古より良質の水が豊富に湧き出ており中でも当神宮の神域はその水脈の中心である。故に江戸時代初期には日本庭園歴覧にも記された名池が誕生し、明治四十二年東宮殿下(大正天皇)御参拝の折お茶の水に用いられた一井がその由来を物語っている。昭和の大造営につづき同池に大規模の神水苑築造が成され、各方面より拝観と神水を求めて訪れる崇教者は後を絶たない。
歴代天皇肖像画
当神宮は古くより皇室と関係極めて顕著であり、近年の昭和大造営を契機に平成4年12月15日篤信者の奉納にかかる祖神天照大御神並第百二十五代今上天皇に至る歴代天皇肖像画が大前に整然と掲げられている。御希望に応じて拝観を受付けている。此の肖像画は斯界に権威ある全日本肖像美術協会総裁馬堀法眼喜孝氏謹製に依るものである。

由緒書



気比神宮

伊奢沙別命は、笥飯大神、御食津大神とも称し、二千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境の形態を留めている。上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は勅命により御妹玉姫命と武内宿禰命とを従えて筑紫より行啓せられ、親ら御参拝された。その時に笥飯大神が玉姫命に神憑りして「天皇外患を憂ひ給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずして自ら帰順すべし」と御神託があったという。文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀となし、後に、日本武尊を東殿宮に、応神天皇を総社宮に玉姫命を平殿宮に武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。明治28年3月26日に神宮号宣下の御沙汰に依って氣比神宮と改められた。延喜式神名帳に「越前國敦賀郡氣比神宮七座並名神大社」とあり、中古より越前國一ノ宮と定められ、明治28年に宮幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなった。当神宮の神領は持統天皇の御代より贈封が始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当神宮の御厨となった。渤海使が相次いで日本海沿岸に来着したので神領の氣比の松原(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の処として、天平神護2年(766)勅によって松原客館が建設され、これを、氣比神宮宮司が検校した。延元元年(1336)大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉じ金ヶ崎城を築いて奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は滅ぜられたが、なお、二十四万石を所領できたという。元亀元年(1570)4月大神司憲直等一族は国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天筒山の城に立籠り大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、四十八家の祠官三十六坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。慶長19年(1614)福井藩祖結城秀康公が社殿を造営されると共に社家八家を復興し、社領百石を寄進された。この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治39年国宝に指定されたが戦災(昭和20年7月12日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。その後、昭和25年御本殿の再建につづき同37年拝殿、社務所の建設九社の宮の復興を見て、祭祀の巌修につとめたが、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和57年氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御世に至って御大典記念氣比の社造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新して今日に至る。

公式HP



気比神宮

越前國一之宮 氣比神宮
祭神七座
伊奢沙別命(氣比大神)・帶仲津彦命(仲哀天皇)
息長帶姫命(神功皇后)・日本武命・譽田別命(應神天皇)
玉姫命・武内宿禰命
沿革
主祭神氣比大神は神代から此の地に鎮り給うた
大宝2年(702)勅に依り社殿の修営を行ない仲哀天皇神功皇后を合祀した。また日本武命をはじめ四柱神を別殿(四社の宮)に奉斎した。延喜式に「祭神七座並名神大社」とあり類聚三代格には「神階正一位勲一等」と記されており此の七座の神は一座ごとに官幣(大社)の奉幣にあずかっている。歴代天皇をはじめ衆庶の尊崇きわめて篤き所以である。明治28年官幣大社に昇格し神宮号宣下の御沙汰を賜わって氣比神宮と称した。之単に北門の鎮護たるのみでなく日本有数の古名大社として通称「氣比さん」の名で親しまれ全国に幅広い信仰を集め9月2日より15日に及ぶ例祭は「氣比の長まつり」としてその名を留めている。
上古より歴朝の奉幣は実に枚挙に遑なく行幸啓も極めて多く戦後では昭和43年畏くも天皇皇后両陛下の御親拝を仰ぎ、又昭和62年5月7日昭和の大造営に依る本殿遷座祭にあたり、再度幣帛料の御奉納を賜わり厳粛なる奉幣祭が営まれた。
戦後の都市計画で境内は大幅に削減されたが、由緒ある摂末社十五の中、当地敦賀の地名の発祥である式内摂社角鹿神社がある。

社頭掲示板



気比神宮

氣比の大鳥居(旧国宝)
当神宮は古く仲哀天皇の行幸・奉拝祈願があり悠久二千年の歴史を有する元の官幣大社で北陸道総鎮守・越前国一之宮である。大鳥居の歴史は通称赤鳥居として嵯峨天皇弘仁元年(810)の造営時に東参道口に創建されたが度重なる災害に依り倒壊した為正保2年(1645)境域の西門に配し同礎石を移し寛永年間旧神領地佐渡国鳥居ヶ原から伐採奉納の榁樹一本で両柱を建て再建されたのが現在の朱塗の大鳥居である。明治34年国宝に指定(現在は国の重要文化財)木造では天下無双の大華表と古くから呼称され各時代それぞれに権威ある伝統技術によって保存修理が行なわれ今日にその偉容を伝えている。尚正面の扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆である。

社頭掲示板



気比神宮

氣比宮古殿地の事 氣比神宮境内東北部に位置し当神宮鎮座にかかる聖地として古来より「触るべからず 畏み尊ぶべし」と社家文書に云い伝えられているが 嘗て天筒山の嶺に霊跡を垂れ更に神籬磐境の形態を留める現「土公」は氣比之大神降臨の地であり 傳教大師・弘法大師がここに祭壇を設け七日七夜の大業を修した所とも伝えられる
土公は陰陽道の土公神の異称で 春は竃に夏は門に秋は井戸に冬は庭にありとされ 其の期間は其所の普請等を忌む習慣があったが此の土砂を其の地に撒けば悪しき神の祟りなしと深く信仰されていた 戦後境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の已む無きに至ったが土公と参道はかろうじてそのままの形で残された 大宝2年(702)造営以前の氣比宮は此の土公の地に鎮座され祭祀が営まれていた 此の聖域を通して氣比之大神の宏大無辺の御神徳を戴くことが出来るよう此のたび篤信者の奉賛により遥拝設備が立派に完成されるに至った次第である

社頭掲示板



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