多坐弥志理都比古神社
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   【延喜式神名帳】多坐彌志理都比古神社 二座(並名神大 月次/相嘗/新嘗)
                         大和国 十市郡鎮座

          (摂社)皇子神命神社
          (摂社)姫皇子命神社
          (摂社)小杜神社
          (摂社)屋就神命神社
          (論社)皇子神命神社 の論社とする
          (論社)姫皇子命神社 の論社とする

   【現社名】多坐弥志理都比古神社
   【住所】奈良県磯城郡田原本町多569
       北緯34度32分8秒,東経135度47分11秒
   【祭神】神八井耳命 神泥川耳命 神倭磐余彦尊 玉依姫命
       現在神社では本来の祭神を水知津彦・火知津姫神と見、それを神八井命の神格化されたものと考えている
       第一社 神倭磐余彦尊(神武天皇:神八井耳命の父)
       第二社 神八井耳命(神武天皇皇子)
       第三社 神沼河耳命(綏靖天皇:神八井耳命の弟)
       第四社 姫御神(玉依姫命:神八井耳命の祖母)

   【例祭】4月第3日曜日 春季例大祭
   【社格】天平10(738)年前後、全国相嘗社十五社の一つに数えられる
       新羅使節に対して給する神酒の料稻を出すという特別な十二社の一つ
       休県社

   【由緒】神八井耳命は皇位を弟に譲り、自らは神祇を祭る
       綏靖天皇2年、春日県(後の十市県)に大宅を造り、神籬磐境を立てる
       崇神天皇7年神祠を改作して天津日瓊玉命、天璽鏡劔神を祈賽
       天平2年(730)太神社『大倭国大税帳』
       天平10(738)年前後、全国相嘗社十五社の一つに数えられる
       大同元年(806)神封六十戸『新抄格勅符抄』
       貞観元年(859)正月27日正三位『三代実録』
       正暦5(994)年4月中臣氏人をして幣帛を奉られる『本朝世紀・日本紀略』
       永治元年(1141)正一位『多神宮注進状草案』
       天文21年(1552)十市遠勝より、神社周囲六町四方の土地を寄進
       明治官制では郷社に列した
       大正12年(1923)12月19日県社

   【関係氏族】多氏
   【鎮座地】この地に連綿として鎮座する

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】連綿と継承されている
   【社殿】本殿春日造(四棟)
       拝殿・神饌所・宝藏・手水舎・社務所

   【境内社】能野神社・住吉神社・春日神社・石上神社・竈神社・八幡神社

神武天皇の第二皇子神八井耳命(多族の祖神)が自ら祭祀者となって、弥生文化の発達とともに大和平野における大規模な稲作農法の開拓者である多族の祭祀(まつりごと)の中心地として創建した。
神社の西を飛鳥川が北流している平地の大社である。
本殿の後方地に現在神武塚といわれる小丘があり、祭祀遺跡または古墳と考えらている。
本殿は、東西に一間社の春日造が並ぶ四殿配祀の形式をとる。江戸時代中頃の建築様式をよく残すもので、奈良県の指定文化財になっている。
かっては神宮寺もあった。


由緒

当社は神武天皇の第二皇子神八井耳命(多族の祖神)この地に降って天神地祇を祀る・・とあり自ら祭祀者となって,弥生文化の発達とともに大和平野における大規模な稲作農法の開拓者である多族の祭祀(まつりごと)の中心地として,社名にも伺い知ることの出来る水知津彦火(日)知津姫の二柱の神を古くより祀り多族の祖神である神八井耳命また末孫の日本最古の史書古事記,日本書紀簒録者である太安萬侶卿を学業の守神とし,また小子部すがるの命を保育の守神として広く崇啓され,ことに受験期には受験合格祈願の人々でたいへん賑わいます。
また最近 太安萬侶卿の御魂がかつて例をみない1255年ぶりの御出現に依ってその霊威と御名にあやかって(やすらかに,まろやかに)と・・安産祈願,家内安全,交通安全無病息災等諸願成就に近郷近在はもとより遠く各地より参拝の人々が後を断ちません。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




多坐彌志理都比古神社

日本最古の神社
多坐彌志理都比古神社(多神社)
参拝の栞
奈良県磯城郡田原本町多569番地
鎮座地 奈良県磯城郡田原本町多569番地
神社名 多坐彌志理都比古神社(略称 多神社)
社格  延喜式内明神大社(元県社)
祭神(向かって右より)
第一殿 神倭磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと) 初代神武天皇
第二殿 神八井耳尊(かむやいみみのみこと) 神武天皇第二皇子 多神社主神
第三殿 神沼河耳尊(かむぬまかわみみのみこと) 神武天皇第三皇子 二代目綏靖天皇
第四殿 姫御神玉依姫(たまよりひめ) 神武天皇の母君とも云われている
若宮神社
小社神社 多神社南方東150mに鎮座
皇子神命神社 〃南方200mに鎮座
姫皇子命神社 〃東方250mに鎮座
屋就命神神社 〃西方300m鎮座
子部神社 〃西方南1500mに鎮座
子部神社 〃西方南1600mに鎮座
境内末社
熊野神社 住吉神社 春日神社 石上神社 竈(かまど)神社 八幡神社 祓戸神社
当神社は磯城郡田原本町多の里飛鳥川東岸(和名抄十市郡飫富郷)に鎮座、祭神は神八井耳ノ尊、神沼河耳ノ尊、神倭磐余彦ノ尊、姫御神四柱とともに、太安万侶を祀る。呼称多神社と呼ばれている。延喜式内明神大社(正一位勲一等多大明神)の額が鳥居に掲げられている、本殿は大型の一間社春日造り同等の四殿配祀の形式をとり、向かって右二殿は享保20年(1735)柱立の墨書が棟木に記されている。左二殿には墨書は見受けられないが建築様式はほぼ同様、さほどの年を空けず、建てられたと推測される。第三、四殿においては海老虹梁(こうりょう)肘木など以前の建築部材を再利用しています。その部材は室町期のもので以前の本殿は室町時代に建てられたのだろうとうかがい知れます。多神社の若宮として東に姫皇子命神社、南正面には小杜、皇子神命神社、西、西南には屋就、子部神社と六社の若宮が点在します、当神社は奈良盆地の中央に鎮座し東に三輪山、西に二上山、南には畝傍山そして盆地の北の端には、平城京跡、この四点が交わる処なのです。
さらに神社の東西南北には鳥居と名する小字(こあざ)が神社より800m〜900mの距離にある。さらに天平2年(720)大倭国主税帳に多、太、神戸(かんべ)の租稲10690東と「正倉院文書」にあり大同元年(806)神戸(神社に属して租、庸、調や雑役を神社に納めた民戸、神封戸(しんふこ)が大和の国に10戸播磨国に35戸遠江に15戸を有す。此の事から当社の境内の広さや格式が偉大だったか、うかがい知れる。
現在においても盆地平坦な処でこれほどの最大な境内を有する神社は他にないのである。
次に神社の歴史をご紹介しましょう。この場所は先にも述べたとおり盆地の中心に位置し人々は国中(くんなか)と言います。神社の周りでは近年発掘調査が盛んに行はれ出土する同時代の弥生土器類が他の所より浅く出土するとこらから当時この場所が隆起していたことが分かる。出土する土器は弥生初期の祭祀土器が非常に多くこの場所で祭祀を執り行う理想郷であったと思われます。やがて年数を重ねて、神武天皇が大和にこられ朝廷が出来国が体制なされ、今からさかのぼること、2500余年も昔のこと神武天皇の第二皇子、神八井耳の尊(われこの地に降りて天神地祇を祀る)と申され祭事を大々的に執り行われた事が伺い知れる。おそらく盆地に居住している人々がこの地に集い祭事を執りおこなったのだろう。古い時代より営なわれた、はるびまつり(春日祭)春の五穀豊穣の祭祀として受け継がれ現在のおおれんぞ(おお連座)になったのだとうかがい知れる。当時は暦など無く東の三輪山の山頂近くより出る太陽(天照大神)を仰ぎ祭り米の苗床を作り植え付けの祭り(春の例祭)を執り行いそして秋には西の二上山の雄岳と雌岳の間にしずむ太陽を見送り収穫祭祀、刈入れの祭り(秋の例祭)を執り行っていたのでしょう。現在も4月第三日曜日おおれんぞ、9月20日秋の例祭が執り行れています。
多神社の若宮(摂社)
(一)小社神社
元、木下(このした)樹森(こもり〉春日戸坐神社と同体異名、中臣氏、祖神天児屋根命と有り、多大明神社記、本居宣長の説によれば、太朝臣安萬侶を祀るとあり、現在は太安萬侶命、天児屋根命を祀っています、昭和18年現在の境内に拡張されたが昭和26年第二室戸台風で拝殿等が倒壊して現在に至っています。
(二)皇子神命神社
式内小社大社の皇子神と有り多神社若宮で彦皇子神社、地元では三ノ宮とも呼ばれている、九百坪弱の境内を有し多神宮注進状によれば瓊々杵ノ命-を祀るとあるが定かでなし、神八井耳の尊の皇子神と見るのが妥当ではご祭神名は分からない。
(三)姫皇子命神社
式内小社大社の皇子神と有り、多の集落の氏神なり、多神宮注進状によれば天媛火霊神者天疎向津少女命と有り、又天照大御の若魂との説も有りがわかりかねる、要するに神八井耳命の姫皇子と捉える方が妥当と思える。
(四)屋就神命神社
延喜式には多神社皇子神と有り、多神宮注進状では日月神社豊御気津命、天明豊玉命すなわち、玉祖御座豊玉神社同体異名なり、大和志巻十五には今称八劔神これ大神の皇子神なりとある、正しい祭神は不詳
(五)子部神社,
別宮子部神社二座 元磯城郡平野村飯高の里に二つの子部神社が存在する天穂日命、天津彦根命祀る(和州五郡神名帳注解〉と有るが、姓氏録には火明命の孫「建刀米命」ともある多神宮注進状に寄れば祖神、神八井耳尊六世の孫「すがる」とある、要するに多神社祖神の末裔小子部連を主神と考えるのが妥当だと伺い知れる。

由緒書



多坐弥志理都比古神社

多坐弥志理都比古神社
(多神社)
祭神 神武天皇・神八井耳命・神沼河耳命・姫御神・太安万侶
由緒  社伝によると、神武天皇の皇子神八井耳命がこの里に来られ、…我、天神地祇を祀る…という由緒をもつ。平安時代の『延喜式』にも名がみえる大和でも屈指の大社である。神八井耳命を始祖とする多氏によって祀られ、中世には国民である十市氏によって支えられた。また、本神社の南には、古事記の撰録にあたった太安万侶を祀る小杜神社や皇子神命神社、姫皇子命神社、子部神社、屋就命神社の若宮がある。
 本殿は、東西に一間社の春日造が並ぶ四殿配祀の形式をとる。江戸時代中頃の建築様式をよく残すもので、奈良県の指定文化財になっている。
 なお、本地は弥生時代の集落遺跡として著名である。

社頭掲示板



多坐弥志理都比古神社

多座彌志理都比古神社
田原本町多字宮ノ内 TEL 07443-3-2155
旧郷社 祭神 神武天呈・神八井耳命・神淳名川耳命・姫御神
延喜式神名帳に大社 太社・意冨社 十市郡の項に「多座彌志理都比古神社 二座並明神 大月次、相嘗、新嘗」二坐ともに祈雨神祭・名神祭
 呈子神に姫皇子命神社・小杜神命神社・皇子神命神社・屋就神命神社
文献初出 天平2年(720) 大楼国主税帳に太〔多〕神戸の租稲10.590束(正倉院文書)
以下   大同元年(806) 神戸大和国に十戸、播磨国に三十五戸.遠江国に十五戸を有す「新抄格勅符」
     貞観元年(859) 従三位勲八等により正三位に昇叙「三代実録」
     平安時代      東大垣庄に三町二四〇歩の神田が有「興福寺雑役免帳」
     正暦5年(994) 疫疫放火の変を治めるため幣帛を奉る
     久安5年(1149)旧名 春日宮、多氏の奉祭する神で(多臣将敷の孫が太安万侶である)と記す「多神社注進状」
     天文21年(1552)十市遠勝の社殿造立の下地状「大和志料」
                辻領古くは方六町を占める。現在も条里小字名に現境内地より
北8町(約864m)の田原本町大宇新木に小字「大鳥居」
南7町(約756m)の橿原市大宇新堂に小字「トリイ」
東7町(約756m)の田原本町大字多に小字「北鳥井」
西7町(約756m)の橿原市大宇飯高に小字「下鳥井」がありこの範囲は南北17町、東西15町に及び面積255町歩
祭礼行事
1月1日  元旦祭 新年祈願・祈祷、神酒拝受
2月3日  節分祭 厄除祈祷
4月(第三日曜日〕 大例祭 午前11時より例祭執行午後3時半より餅撒執行
このお祭りは「おおれんぞ」と云われ古い時代より春日祭〔はるびまつり)として執行され五穀豊穣の祭祀として受け継がれてきました。
7月6日  安万侶祭 古事記編纂の太安万侶を讃える祭祀
9月1日  八朔祭(宮迎え)
9月19日 宵宮祭
九月20日 例祭(宮送り)
11月士・日、祝日 七五三詣り(予約制)
12月29日 新嘗祭、大祓い、古札焼納祭(正午頃)

社頭掲示板



多坐弥志理都比古神社

近鉄橿原線笠縫駅南西1.3km、新ノ口駅北西1.5kmの飛鳥川東岸に鎮座する。祭神神倭磐余彦命・神八井耳命・神沼河耳命・玉依姫命。俗に多神社という。創祀の古かったことは、天平2年(730)『大倭国正税帳』(正倉院文書)に、太神戸の稲壱萬伍百拾弐束伍把、租壱伯参拾捌束肆把合壱萬陸伯玖拾束玖把のうち伍伯八拾束が祭神・紳嘗酒料とあることからでもわかる。大同元年(806)の『新抄格勅符抄』には神戸が大和で10戸、播磨で35戸、遠江で15戸充てられている。「延喜式」神名帳では式内大社として登載され、四時祭の項の相嘗神七十一座の中に「多社二座」とあり、臨時祭では二座とも祈雨神祭・名神祭に預り、玄蕃寮式に新羅客入朝時に当って酒醸酒料稲30束を充てられている。「三代実録」の貞観元年(859)正月27日の条に従三位勲八等から正三位に賞状と記され、「本朝世紀』『日本書紀』には正暦5年(994)4月27日疫病放火の災変に際して中臣氏人に奉幣せしめたとある。平安時代には神田三町二四〇歩あったと『興福寺雑役帳』にみえる。中世には十市氏に尊信されたことは天文21年(1552)十市遠勝が社殿を造立に際しての下知状と十市遠忠雨乞奉納歌が所蔵されていることでもわかる。
鎮座地は「和名抄」十市郡の飫富郷で、神八井耳命を祖とする古代豪族多氏の根拠地であったといわれる。久安5年(1149)の『多神社注進状』には当社の旧名を春日宮と号して多氏の奉斎する神で、多臣将敷の孫が大安万侶だと記している(「五郡神社記」)。
『社記』によると古くは方六町歩が神社地で鳥居があったと伝え、現在東の鳥居は橿原市十市町の境の寺川河畔にある。神主は代々多氏を名乗る。
本殿の後方に神武塚と称する小丘があり、祭祀遺跡または古墳と考えられている。神社周辺からは多量の弥生式土器が出土する。弥生前期から中期にかけ待の集落の跡とみられる。「大和志」に「境内ニ有(ニ)神宮寺(一)」とあるが、明治の廃仏棄釈で廃寺となった。現在本殿の向って左30mの地をその寺跡と伝えるが、近年この位置から五輪塔の一部が出土したという。例祭は4月の第二日曜日。

奈良県史



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