多坐弥志理都比古神社
おおにますやしりつひこじんじゃ


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【祭神】

現在神社では四座祭られており、第一社 神武天皇、第二社 神八井耳命、第三社 神沼河耳命(綏靖天皇)、第四社 姫御神(玉依姫)となつている。
明治24年「神社明細帳」では、第一社・第四社は境内神社とされており、本社の祭神は、神八井耳命・神沼川耳命二座とされている。
栗田寛『神祇志料』は、神八井耳命・神倭磐余毘古天皇としている。
『特選神名牒』は本来の祭神を神八井耳命と姫御神であるとしている。
『和州五郡神社神名帳大略注解』は左二座が水知津彦・火知津姫神、すなわち彌志理都比古神社二座にあたるとし、他の二座は式内皇子神命神社・姫皇子神社にあたると解している。
『多神宮注進状草案』は天忍穂耳尊・天照大神としている。


【由緒】

神武天皇崩御の後、手研耳命は弟二人(古事記では三人)を害して皇位に即かうとした。それを知つた神八井耳命と神淳名川耳尊は、手研耳命を討たれることになるが、神八井耳命は手足がふるヘ討つことができなかつたのに対して、弟の神淳名川耳尊は神八井耳命のもつ弓矢をとつて手研耳命を討たれた。そこで神八井耳命は自らを恥じて皇位を弟の神淳名川耳尊に譲り、自らは神祇を祭り、弟を輔けることになつた。(日本紀・古事記)神八井耳命は綏靖天皇二年春、春日縣(後の十市縣)に大宅を造り、神籬磐境を立て、自ら皇祖天神の「主神事之典」り、縣主の遠祖大日諸神を祝として奉仕せしめられたといふ。(『多神宮注進状草案』)「式内社調査報告」


多神社本殿

多神社本殿(おおじんじゃほんでん) 県指定文化財
名称 多坐弥志理都比古神社 本殿4棟
時代 江戸時代 18世紀前半
所在地 奈良県磯城郡田原本町大字多
交通 近鉄橿原線笠縫駅下車 西へ徒歩20分
 多坐弥志理都比古神社は、田原本町多に所在する延喜式内大社である。多は、太安万侶らをはじめとする古代氏族多氏の根拠地とみられる。神社の祭神は神武天皇・神八井耳命・神淳名川耳命(綏靖天皇)・姫御神(玉依姫)の四柱で、このうち神八井耳命は多氏の祖とされる。
 多神社本殿は、東西に1間社が並ぶ四殿配置の形式をとる。東の第一殿が神武天皇を、第二殿が神八井耳命を、第三殿が神淳名川耳命を、第四殿が姫御神をそれぞれ祀っている。四社とも南面した一間社春日造で、第一・二殿が1735年、第三・四殿が18世紀中頃の建造である。当本殿は、昭和52年に檜皮葺から銅板葺に改められた以外は当初形式をよく残す。また、春日造社殿としては類例の少ない手法もみられ、近世中頃の本殿建築としては注目される。

多神社遺跡

この神社を中心に南北約500m東西約100mにわたつて以前から土器片及石器等が出土していたが昭和47年に神社の西を流れる飛鳥川の改修工事にり多くの遺物が出土して弥生式時代初期(約2200年前)からここに人びとが生活をしていた村の跡と思われ、米を作つていた事を裏付ける農具や籾の痕跡の付いた土器が出土しました。これらの土器の中にば尾張や河内の土器も見られこれらの地方との交流が考えられます。」そして紡錘車の出土から糸つむざが行なわれていた事がわかります。その他この時代の石器・木製品、土製品、自然遺物(動物の骨、木の実)等が出土しました。この村は古墳蒔代(約1400年前)まで続いていた事を示す土師器、須恵器が出土しています。又出土の土器から祭祀遺跡の存在も考えられ、多神社社との関係も考えられます。
この様に私達祖先の人々が住んでいた場所がこの神社の周辺です。

社頭掲示板



多氏族概観

○ 神武天皇皇子、神八井耳命後裔氏族……「多氏族」という諸氏のすべてが神武天皇の後裔とすることには疑問があり、また、同一氏族とされる諸氏が出自等で相当複雑な構成をもっていたのではないかとみられる。海神族系の和邇氏族とのなんらかの関係があったことも推される。
○ 多氏族は、神武天皇の皇子神八井耳命から出たと称しており、大和国十市郡多村(『和名抄』の飯富郷。現磯城郡田原本町多)の多坐弥志理都比古神社(式内社、旧県社。俗に多大明神ともいう)を氏神として奉斎している。
  神八井耳命については、綏靖天皇(神渟名川耳命)の同母兄と記紀に記されるが、『皇胤志』では手研耳命の同母弟と記され、これは傾聴すべきと考えられる。綏靖天皇は『書紀』などに神武の第三子と記すが、手研耳命が長子、神八井耳命が次子と考えられ、一方、手研耳命の弟に岐須美美命(「皇孫本紀」では研耳命)があげられており、この者が神八井耳命と人物的に重なり合うとみられる。
○ 多(オホ)は太、大、意富、飯富、於保とも記される。皇別としての分岐では最古に位置づけらる氏族でもあり、分出したと称する氏も多く、その分布は全国的のようにみえる。その流れは大きく五つほどに分けられ、大和など畿内、尾張・伊勢地方、常陸・磐城地方、信濃、九州・四国の西海方面に分かれているが、実際の系譜としてはおそらく二流があって、@九州系統とA畿内から東海方面の系統とに分類されそうである。前者は宇佐国造と同族の流れではないかとみられ、本宗とされる多臣氏を含む後者は、その勢力もあまり大きくはなかった事情もあって、記紀等に氏人が現れる頻度が少ない。
  大和の多臣は、その実質的な祖として崇神前代の敷桁彦命があげられる。多臣の奉斎する多神社の祭神・弥志理都比古神とは水知津彦の意とみられ(偽書とされる『多神宮注進状』の記事にあるが、これ自体は妥当か)、水神であろう。多臣の初期分岐が大和国山辺郡の都祁国造であり、水神たる都祁水分神社を奉斎した。
 多氏族から船木氏が出るなど、海神族の色彩がみられる。信濃国小県郡には虚空蔵信仰がみられ、同郡の吉田・赤坂(水神たる滝ノ宮や将軍塚古墳の所在地)、佐久郡の志賀・春日・葦田などの地名と併せ、科野国造領域には海神族なかでも和邇氏族の色彩が見られるものの、皇祖神たる生島足島神(生国魂神)を奉斎する事情などから、皇族から出たという系譜は信拠できそうである。
○ 多氏族から出たと称する地方の国造としては、科野国造、仲国造(常陸国那珂郡)、印波国造(下総国印幡郡。系譜には疑問もあり、留保)、長狭国造(上総国長狭郡)、石城国造(陸奥国磐城郡。実際には疑問が大)、闘鶏国造(後廃止)、及び九州四国の阿蘇国造、火国造、大分国造、伊余国造、と数多い。
  これらの後裔は後世まで繁衍したものがあり、特に信濃の諏訪一族、肥後の阿蘇一族の族人が多い。信濃の諏訪一族は、洲羽君の跡に科野国造一族の金刺舎人直から嗣が入り、のち神人部直(のち宿祢)姓に改めたもので、詳細は三輪氏族の項に記載する。また、その系譜を具体的に伝えないが、火国造肥公一族の後裔ではないかとみられる氏族が肥前・肥後・筑前・薩隅に広く繁衍していた。
  肥後の阿蘇氏については、その出自に疑問が出されており、本来多氏族とは無関係の氏族が系譜を接合させて、多氏族とした可能性があるとされる。阿蘇氏の祖神、健磐竜命は科野国造の祖武五百建命と同人とされるが、名前の類似はあっても同一人とすることに疑問があるからである。しかし、科野国造と別族であっても、阿蘇一族の奉斎神・行動などを仔細に検討してみると、同様な傾向を示す火国造と系譜的に近い関係にあったことがわかり、火国造ともども宇佐国造の支流とみられる。

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/oho1g.htm



多坐弥志理都比古神社

おおにますみしりつひこじんじや
奈良県磯城郡田原本町多。旧県社。祭神は神武天皇・神八井耳命・神淳名川別命・姫神。
俗に多大明神ともいう。綏靖天皇のときに創祀と伝える。多氏の祖神。延喜の制に名神大祈年・月次・相嘗・新嘗・祈雨の幣をうく。天平2年(730)神戸租稲一万六九〇束を神祭酒料に、また大同元年(806)大和・播磨遠江六〇戸封。貞観元年(859)正三位に叙せらる。例祭4月20日。宮座の祭りあり。

神社辞典



郷社 多坐彌志理都比古神社

祭神 神八井耳命 神泥川耳命
創建年代詳ならず、多臣の祖神八井耳命を主として神沼河耳命を祀る、初め神八井耳命弟神沼河耳命の武勇を賞し、吾は兄なれ共汝命を扶けて忌人となり、天神地祇の神事を知りて仕奉らむ、汝命上として天下を治しめせと詔ひて、御身を退き給ひき、故に彌志理都比古命と称へ奉りぬ(古事紀、書紀)聖武天皇天平2年神戸租稲一萬六百九十束を祭神及神嘗酒料に充て奉り(東大寺正倉院文書)平城天皇大同元年、大和播磨遠江六十戸を寄せ(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申從三位動八等多座彌志理都比古神に正三位を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制並に名神大社に列し、祈年、月次、相嘗、新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預り、十市郡大十一座の一なり、延喜式廿一(玄蕃)に「凡新羅客入朝者、給神酒、其醸酒料稻大和國意富社三十束云々とあるは当社のことなり一條天皇正暦5年4月戊申疾疫放火の変あるを以て、中臣氏人をして幣帛を奉り之を祈らしめ(本朝世記日本紀略)今俗に多大明神と称し、多村二十八村及高市郡小槻村の氏神たり(大和志、大和名所図会)明治の初年郷社に列す、
社殿は本殿、拝殿、納家等あり、境内3097坪(官有地第一種)、社地は寺川の西岸大和平野の中央に位し、甚だ風致に富めり。

明治神社誌料



多坐彌志理都比古神社二座 並名神大月次相嘗新嘗

多は飫富と訓べし、和名鈔、(郷名部)飫富、」彌志理都比古は假字也、○祭神明か也○多村に在す、(大和志、同名所図会)○式二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、多社二座、』同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、大和國多坐神社二座、」同廿一、(玄蕃)凡新羅客人朝者、給神酒、其醸酒料稻、大和国意富社、三十束、送住道社(全文当國葛上郡鴨神社の條見合すべし)○日本紀、綏靖天皇巻、神八井耳命墳燃自服、吾当爲汝輔之奉典神祇者、是即多臣之始祖也、』古事記(神武段)神八井耳命者、意富臣等之祖也、」姓氏録、(左京皇別上)多朝臣、出自諡神武皇子、神八井耳命之後也、
神位
三代實録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和国從三位勲八等多坐彌志理都比古神正三位、

神社覈録






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