古道の中津道(ナ力ツミチ)、今の橘街道に沿っている。近くに唐古の弥生式遺蹟もある。 壬申の乱のとき軍の備えに対する助言があった(書紀)とされ、品位を授けらた。神祇に品位階を奉授するのが史に見える最初である。 境内に式内社を三社、摂社として祀つているのは珍らしい。 宮司守屋氏は、物部守屋の後裔なりと称している。 |
略記 主神三穂津姫命は高皇産霊命の姫神で大物主命が国譲りをされたときその功に報いるためと大物主命の二心のないようにという願いから自分の娘を贈られたという神話に出てくる神である。 この故事から縁結びの神,家内安全の神として信仰される。大物主命は大神神社の祭神であることからその妃神である当社にも大物主命を合祀し三輪の別宮とも称せられる。天武天皇元年(673)壬申の乱のとき村屋神が神主にのりうつって軍の備えに対する助言があったという。この功績によって神社として初めて位を天皇から賜ったと日本書紀に記されている。 壬申の乱の功を後世に伝えるためにこのとき功のあった三神を回る渡御が例祭に行われていた。三神とは事代主命を祀る久須須美神社,生雷神を祀る森市神社である天正の頃(1580年頃)戦火に遇い社地を奪われ財源がなくなり中絶し社地も縮小されて現在に至っている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
村屋神社 村屋神社(村屋坐弥富都比売神社) 式内大社で、大物主の妃神である。だから桜井市三輪の大神神社の別宮といわれる。 天武天皇の頃、大伴の祖先をまつる村屋神社、物部の先祖をまつる物部神社を境内にまつった。又、服部氏の氏神、服部神社、伊予氏の氏神、久須々美神社もまつられている。 大和の豪族筒井氏は、姓は大神、森屋党の出身。この神社の前の道は中ツ道である。 文化財を大切にしましょう 田原本町 社頭掲示板 |
天然記念物 村屋坐弥富都比売神社の社そう 昭和58年12月15日指定 村屋坐弥冨都比売神社(村屋神社〕には奈良盆地の沖積地に極盛相として発達するイチイガシ林が残存している。参道周辺は古くからスギの補植が行われ、森林の高さはおよそ29mに達している。高木層はイチイガシが優占して、アラカシ、クロカネモチなどを交えている。亜高木層は約12mの高さがあり、サカキ、マダケ、ヤブツハキ、シロダモなどが、低木層は約2mで、ヤブツバキ、ヒサカキ、ヤブニッケイ、アオキ、マンリョウ、サネカズラ、及びイチイガシの幼木などが生育している。草本層はべニシダ、テイカカズラ、フユイチゴ、ヤブラン、ジャノヒゲ、イチイガシの稚苗などが生育し、この地域では稀に見る良好な林相を示している。 村屋神社社そうば奈良盆地にある照葉樹林の極盛相として、植物生態学上重要であり、環境保全上からも貴重な存在である。 昭和61年3月 奈良県教育委員会 社頭掲示板 |
村屋坐弥富都比売神社 村屋坐弥冨都比売神社(別名森屋の宮) 祭神 三穂津姫命(弥冨都比売命) 大物王命 由緒 主神三穂津姫命は、高皇産霊神の姫神で大物主命が国譲りをされたとき、その功に報いるためと、大物主命に二心がないようにという願いから自分の娘を贈られたという神話に出てくる神である。 この故事から、縁結びの神、家内安全の神として信仰される。大物主命は大神神社の主神であることから、その妃神である当社にも大物主命を合祀して三輪の別宮とも称せられた。 天武天皇元年(673)壬申の乱のとき、村屋神が神主にのりうつり軍の備えに対する助言があったという。この功績によって、神社として初めて天皇から位を賜ったと日本書紀に記されている程の名神である。現在正一位森屋大明神の呼称が残っている。 境内には、「町の木」であるイチイガンの巨樹が林立し、この樹そうは奈良県指定天然記念物となっている。 田原本町 社頭掲示板 |
村屋坐弥富都比売神社 村屋座 彌冨都比売神社 田原本町 大字蔵堂字大宮 TELO7443-2-3308 旧県社 祭神 三穂津姫命・大物主命・村屋神社 彌冨都比売 延喜式神名帳城下郡の項に「村屋座彌冨都比売神社 大、月次相嘗新嘗」 文献初出 日本書紀天武天皇元年の条「村屋神、祝に着りて曰く、、、」壬申乱 以下 天平2年(720) 大倭国主税帳(正倉院文書)神戸の租稲五十四束 大同元年(806) 大和国で三戸、美作国で三戸神戸「新抄格勅符抄」 貞観元年(859) 従五位下より従五位上に昇位「三代実録」 平安時代 伊保戸庄に三反の社田が有り「興福寺雑役免帳」 文禄4年(1594) 大彌宜田六畝、神子田三畝六歩「蔵堂村文禄検地帳、 慶長4年(1599) 「天正頃神領八十反没収断絶衰退するも、神主森屋重政が神社修復、祭祀復興」この頃に現存の慶長12年(1607) 森講の「村屋大明神守講中箱」を製作、 寛永15年(1638) 「森屋大明神」社蔵の梵鐘銘。天王とも「大和史料」 祭礼行事 1月1日 元旦祭「三宝飾り」「ぞうがい」 2月3日 節分祭 2月11日 祈年祭 牛使いによる御田植祭御供撒(午後3時) 6月30日 大祓(夏越祓)芽の輪くぐり(午後4時) 7月7日 夏祭 10月9日 宵宮祭 神子祓い 午後6時より8時 10月10日 例祭 代々神楽 午後2時より3時 11月中 七五三詣り(予約制〕 12月23日 新嘗祭 平成14年12月15日 田原本町観光協会 社頭掲示板 |
村屋坐弥富都比売神社 初瀬川西岸、奈良県田原本町蔵堂に鎮座。祭神は三穂津姫命・大物主命。弥富都比売は大物主神の妃神で大神神社(現奈良県桜井市)の別宮ともいう(大三輪神三社鎮座次第)。社蔵の寛永15年(1638)の梵鐘には「森屋大明神」とあり、天王ともいう(大和志)。旧郷社。『日本書紀』天武天皇元年7月23日条に壬申の乱に関して、「又村屋神、祝に着りて曰く、「今吾が社の中道より、軍聚至らむ。故、未だ幾日を経ずして、庵井造鯨が軍、中道より至る』と記す村屋神にあたる。書紀の記載どおり中ッ道が境内を南北に走っていたと推察される。村屋神は前記信託の功により位階を進められ(日本書紀)、天平2年(730)の大倭国正税帳(正倉院文書)によると、神戸の租稲五四束二把のうち、実に五四束が祭祀料(四束)・神嘗酒料(五〇束)に充てられていた。大同元年(806)の牒(新抄格勅符抄)によると、大和国で三戸、美作国で三戸の紳封を有し、天安3年(859)1月23日、従五位下より従五位上に昇叙した(三代実録)。「延喜式」神名帳の城下郡には「村屋坐弥富都比売神社(大、月次相嘗新嘗)」とみえ、相嘗祭には絹一疋、調布三端四尺、鮑十両などのほか酒稲五十束が奉られた(同書四時祭)。平安時代には伊保戸荘(いおどそう)のうちに三反の社田を有していた(興福寺雑役免帳)。中世豪族の筒井氏は当社氏人森屋党の出身とする説もある。 慶長4年(1599)の御社記(当社宮司森屋家文書)に「天正之度国乱之後紳領八十反皆被没収無禄と成故、(中略)社家社人社務等追々及絶断、漸々神主壱軒・禰宜二軒・神子二軒ニ羅成、(中略)社頭追追衰廃して旧例之失社格、神主禰宜神子等其職を勤る事難成、紳祭懈怠におよふ事二十有余年』とみえ、これを嘆いた当時の神主森屋重政が慶長4年に神社修復、祭祀の復興をはかった。近世には近隣十四カ村で宮郷が形成され、現田原本町伊与戸・笠形・大木・大安寺、天理市遠田町からなる宮座を守講と称し、慶長12年の「村屋大明神守講中箱」と墨書した箱や、宝剣・神名帳・和歌集などが残る。文禄4年(1595)の蔵堂村検地帳(田原本町史)によると、大禰宜田六畝、神子田三畝六歩があった。境内社叢は県指定天然記念物。 【境内摂社】 城下郡の式内社に比定される次の三社がある。服部神社は「延喜式」神名帳に「服部神社二座(鍬靫)」とみえ、天御鉾命・誉田別命を祀ると伝える。「大和志」に「在大安寺村今称波都里神」とみえ、社伝も現田原本町大安寺字初り神から遷祠したという。村屋神社は「延喜式」神名帳に「村屋神社二座」とみえ、明治24年(1891)の『神社明細帳』には祭神は「経津主神・武甕槌神・室屋大連神・大伴健持大連神」とあり、旧社地は本社東方の宮山と伝える。「大和志」には「在蔵堂村村屋邑十三村民共預祭祀」と記す。久須須美神社も「延喜式」神名帳に「久須須美神社」とみえ、天之久之比命(あめのくしひのみこと)・事代主命を祭神とし村屋神社旧社地北に鎮座していたと伝える。 寺院神社大辞典 |