村屋坐弥富都比売神社
むらやにますみふつひめじんじゃ


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【由緒】

延喜式内大社で、旧県社、大神神社(オオミワジンジャ)の別宮。
日本書記によると、主神 三穂津姫命(ミホツヒメ)は、高皇産霊命(タカミムスビノミコト)の姫神で大物主命(オオモノヌシノミコト)が国譲りをされた時その功に報いるためと大物主命の二心のないようにという願いから、自分の娘を贈られたという神話に出てくる神です。またその時に高天原から3本の稲穂を持って降りられ、稲作を中津国に広め国を豊かにした『内助の功』にあたる神でもあります。
これらの故事等から縁結びの神、家内安全の神、商売繁盛の神として信仰され、大物主命は大神神社の祭神で、その妃神(キサキカミ)を祭っていることから、大神神社の別宮とも称せられています。
かつて、この地では正月の大とんどで大神神社と村屋神社の火種子をもらって帰り、めおと(夫婦)火とし、それで雑煮を炊いて1年の家内安全を家族で祈願していたという習慣が残っていました。また大神神社(夫神)と村屋神社(妻神)を両方お参りすることでいっそう利益が得られると謂われています。
「延喜式」神名帳 式下郡に村屋坐弥冨都比賣神社・村屋神社・久須須美神社・服部神社が記載されており、天武天皇元年(673)壬申の乱のときに「村屋神」が22代当主 室屋喜久麿にのりうつって「わが杜の中を敵が来る。社の中つ道を防げ」と大海人皇子方の大伴連吹負将軍に軍備に対する助言をし見事勝利に導いた。この功績によって神社として初めて位階を皇室(天武天皇)から賜ったと日本書紀に記されています。
その後も何度か位を賜り現在正一位森屋大明神の呼称が残っています。
壬申の乱の功を後世に伝えるためにこのとき功のあった三神を回る御渡が秋の例祭に行われていました。三神とは村屋神を祭る村屋神社(境内摂社)、事代主命を祀る久須須美神社(境内摂社)、生雷神を祀る森市神社(境外摂社)です。
天正の頃(1580年頃)松永久秀と十市氏の戦に巻き込まれ、戦火に遇い社地を奪われ財源がなくなり、一時神事祭祀は中絶していたが、慶長4年(1599年)52代神主大神 守屋政重によって、現在の規模に縮小して再興を果たしたとされています。

公式HP



【由緒】

郷社 村屋坐彌富都比売神社
祭神大物主命三穗津姫命
創立年代詳ならず、本社は三輪大神社の別宮にして、俗に森屋の神社と云ひ、又天王と称す(大三輪神社、鎮座次第大和志、国花万葉記)初大物生神天神の命に帰順し奉る時、事代主神と共に八十萬神等を天高市に集合し天に上り給ふ、高皇産霊尊勅給はく、汝若し國神を妻とせば吾猶汝を疏る心有りと思はむ、故に今吾女三穂津姫を配せて汝が妻とせむ、今より後八十萬神を領て永へに皇孫命を護り奉れと、詔りて還し降らしめ給へりとぞ、天武天皇壬申の乱将軍大伴吹負金綱井に軍する時、村屋神祝に託して陰に軍威を佑け給へり、依つて其品位を進めて之を祠らしむ(日本書紀)式二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、村屋社一座、日本紀、天武天皇元年7月庚寅朔壬子、先是、軍金綱井之時、村屋神著祝曰、今自吾社中道軍将至、故宜塞社中道故未経幾日盧井造鯨軍自中道至、時人曰、即神所教之辞是也、軍政既訖、将軍等挙是三神(三神は高市、身狭村屋をいふ也、)教言而奏之、即勅登進三神之品以祠焉(神社覈録)聖武天皇天平2年神戸稲祖五十四束を以て祭神及神嘗酒料に充てしめ(東大寺正倉院文書)清和天皇貞観元年正月甲申從五位下より從五位上を授けらる(三代実録)醍醐天皇廷喜の制大社に列り、祈年、月次、相嘗、新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)近郊十四ケ村の氏神たり(大和名所図絵)明治6年村社に列し、同14年6月郷社に列せらる、毎年正月10日、6月7日、9月9日10日、11月23日祭を行ふ。
社殿は本殿、拝殿等の建物を具へ、境内3124坪(官有地第一種)にして、初瀬川の上流に位し、甚だ景勝の地たり。

明治神社誌料



村屋坐彌富都比売神社 大月次相嘗新嘗

村屋は牟良夜と訓べし、彌富都比売は假字也、○祭神明か也○蔵堂村に在す、(大和志)今森屋大明神と称す、(考証、大和名所図会)〇武二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、村屋社一座、〇日本紀神代巻下、一書曰、時高皇産霊尊勅大物主神、汝若以国神爲妻、吾猶謂汝有疏心、故今以吾女三穗都姫配汝為妻云々、』同紀、天武天皇元年7月庚寅朔壬子、先是、軍金綱井之時、村屋神著祝曰、今自吾社中道軍衆将至、故宜塞社中道故未経幾日、盧井造鯨軍自中道至時人曰、即神所数之辞是也、軍政厩訖、将軍等挙是三神(三神は高市、身挟、村屋をいふ也、)教言而奏之、即勅登進三神之品以祠焉、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下村屋彌富都比売神從五位上、

神社覈録






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