服部神社[村屋坐弥富都比売神社境内末社]
はとりじんじゃ               . 所在地ボタン 社名ボタン

















   【延喜式神名帳】服部神社 二座 鍬靫 大和国 城下郡鎮座
          村屋坐弥富都比売神社 の境内社
          (旧地)服部神社【旧地】

   【現社名】服部神社
   【住所】奈良県磯城郡田原本町蔵堂426
       北緯34度32分53秒,東経135度49分3秒
   【祭神】天御鉾命・誉田別命
       神社明細帳に「祭神天之御中主命・天之御鉾命」
       『磯城郡誌』「天御鉾命・誉田別命」
       『大和名所旧跡案内』天御鉾命・誉田別命

       大安寺村の辺りに住んでいた服部氏が、その祖神・天御鉾命を祀ったのではないか

   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】
   【由緒】崇神天皇7年創立という
       天正の国乱のために社頭衰廃
       天正元年(1573)正月13日神主森屋通明 服部神社を背に負奉りて現地に遷社
       天正2年(1574)8月15日神殿一社相殿に鎮斎
       宝永2年(1705)社殿改造
       寛政9年(1797)3月社殿改造

   【関係氏族】服部氏
   【鎮座地】大安寺村の森市神社の北の道の字ハツリカミにあり
        天正2年(1574)8月15日兵火により現地へ遷座

   【祭祀対象】祖神
   【祭祀】
   【社殿】本殿春日造
       

   【境内社】

村屋坐弥富都比売神社本殿のすぐ西にあり。
大安寺村の森市神社の北の道のその北側に字ハツリカミがある。そこにもと服部神社があつたと考えられている。
天正2年(1574)8月15日兵火により現地へ遷。


服部神社

延喜式内社 旧城下郡 蔵堂  服部神社
祭神 天之御中主神  天之御鉾神
服飾関係を司る神である。
これより西2kmばかりの所に、大安寺村字神来森(かきのもり)という土地がある。そこに鎮座して波登里村(はとりむら)、阿刀村(あとむら)の氏神であった。祭礼には、氏子が盆に綿を盛り、その上に十二梼を載せてお参りした風習があった。今は、綿の栽培がなくなったので、この風習はなくなった。
元弘年間(南北朝)の兵火に遭い、社地を没収される。更に天正年間(織田信長)にも兵火に罹り、神主が御神体を背負い本社境内に遷したと言われている。
この頃、波登里、阿刀村も消滅して、神社の経営成り立たず、そのまま本社境内末社となる。と同時に、壬申の乱の紳功を称える。お渡りも中断する至り、未だ復興することが出来ない。
村屋坐弥富都比売神社 守屋宏尚 宮司

社頭掲示板



服部神社

田原本 歴史遺産神々を訪ねて
延喜式内社 旧城下郡 蔵堂 服部神社
祭神 天之御中主神 天之御鉾神
服飾関係を司る神である。
これより西2キロばかりの所に、大安寺村字神来森という土地がある。そこに鎮座して波登里村、阿刀村の氏神であった。
祭禮には、氏子が盆に綿を盛り、その上に十二祷を載せてお参した風習があった。
今は、綿の栽培がなくなったので、この風習はなくなった。
元弘年間(南北朝)の兵火に遭い、社地を没収される。更に天正年間(織田信長)にも兵火に罹り、神主が御神体を背負い本社境内に遷したと言われている。
この頃、波登里、阿刀村も消滅して、神社の経営成り立たず、そのまま本社境内末社となる。と同時に、壬申の乱の神功を称えるお渡りも中断する至り、未だ復興することが出来ない。
文 村屋座彌富都比売神社 守屋広尚 宮司
服部神社の建築について
切妻造妻入り見世棚造庇付カラー鉄板葺である。
柱間56cm位の社殿で、自然石の基壇上に土台を廻し、方柱を建てる。
柱天端は直接桁を受けている。中央板扉両開き、他面板壁、見世棚下部は正面のみ板壁他面解放である。身舎、庇部分共板軒で、屋根勾配の緩い小社である.
文 田原本町文化財保護審議委員会会長 林清三郎
平成21年度 No.5 田観55 田原本町観光協会

社頭掲示板



服部神社二座 鍬靫

服部は波止利と訓べし○祭神服部連租歟○大安寺村に在す、今波都里神と称す、(大和志、同名所図会)、
〇姓氏録、(大和國神別)服部連、天御中主命十一世孫天御鉾命之後也、
類社
加賀国江沼郡、因幡国法美郡服部神社、(各一座)摂津國島上郡神服神社、伊勢國奄芸郡、遠江國長上郡服織神社、(各一座)

神社覈録



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