村屋坐弥富都比売神社本殿のすぐ西にあり。 大安寺村の森市神社の北の道のその北側に字ハツリカミがある。そこにもと服部神社があつたと考えられている。 天正2年(1574)8月15日兵火により現地へ遷。 |
服部神社 延喜式内社 旧城下郡 蔵堂 服部神社 祭神 天之御中主神 天之御鉾神 服飾関係を司る神である。 これより西2kmばかりの所に、大安寺村字神来森(かきのもり)という土地がある。そこに鎮座して波登里村(はとりむら)、阿刀村(あとむら)の氏神であった。祭礼には、氏子が盆に綿を盛り、その上に十二梼を載せてお参りした風習があった。今は、綿の栽培がなくなったので、この風習はなくなった。 元弘年間(南北朝)の兵火に遭い、社地を没収される。更に天正年間(織田信長)にも兵火に罹り、神主が御神体を背負い本社境内に遷したと言われている。 この頃、波登里、阿刀村も消滅して、神社の経営成り立たず、そのまま本社境内末社となる。と同時に、壬申の乱の紳功を称える。お渡りも中断する至り、未だ復興することが出来ない。 村屋坐弥富都比売神社 守屋宏尚 宮司 社頭掲示板 |
服部神社 田原本 歴史遺産神々を訪ねて 延喜式内社 旧城下郡 蔵堂 服部神社 祭神 天之御中主神 天之御鉾神 服飾関係を司る神である。 これより西2キロばかりの所に、大安寺村字神来森という土地がある。そこに鎮座して波登里村、阿刀村の氏神であった。 祭禮には、氏子が盆に綿を盛り、その上に十二祷を載せてお参した風習があった。 今は、綿の栽培がなくなったので、この風習はなくなった。 元弘年間(南北朝)の兵火に遭い、社地を没収される。更に天正年間(織田信長)にも兵火に罹り、神主が御神体を背負い本社境内に遷したと言われている。 この頃、波登里、阿刀村も消滅して、神社の経営成り立たず、そのまま本社境内末社となる。と同時に、壬申の乱の神功を称えるお渡りも中断する至り、未だ復興することが出来ない。 文 村屋座彌富都比売神社 守屋広尚 宮司 服部神社の建築について 切妻造妻入り見世棚造庇付カラー鉄板葺である。 柱間56cm位の社殿で、自然石の基壇上に土台を廻し、方柱を建てる。 柱天端は直接桁を受けている。中央板扉両開き、他面板壁、見世棚下部は正面のみ板壁他面解放である。身舎、庇部分共板軒で、屋根勾配の緩い小社である. 文 田原本町文化財保護審議委員会会長 林清三郎 平成21年度 No.5 田観55 田原本町観光協会 社頭掲示板 |
服部神社二座 鍬靫 服部は波止利と訓べし○祭神服部連租歟○大安寺村に在す、今波都里神と称す、(大和志、同名所図会)、 〇姓氏録、(大和國神別)服部連、天御中主命十一世孫天御鉾命之後也、 類社 加賀国江沼郡、因幡国法美郡服部神社、(各一座)摂津國島上郡神服神社、伊勢國奄芸郡、遠江國長上郡服織神社、(各一座) 神社覈録 |