村屋坐弥富都比売神社でその摂社として、本社の下、右側(東方)に南面して別境内に社殿がある。二社東西にならんでいる。その鎭座は明治元年まで本社の拝殿前にあつた。 元は東方川辺、字宮山にあったが天正12年8月10日兵火で遷。 春日神社ともいう。 |
村屋神社 延喜式内社 旧城下郡 蔵堂 村屋神社 祭神 経津主神・武甕槌神・室屋大連神・大伴健持大連神経津主・武甕槌二神は春日四神の内の二神であることから、春日神社とも言う。 大連二神は壬申の乱に、吉野軍の将として活躍し功績が高かったため、天武5年(677)に合祀される。 この森屋郷は、古くは室屋郷とも室原郷とも言い、室屋大連の神は、この地の出身ではないかと考えられる。 この神社は、元は大宮(村屋坐弥富都比売神社)から200mほど東、初瀬川の川縁に鎮座されていたが、南北朝時代に兵火に会い、~領を没収せられ、社地を縮小せざるをえなくなり、本殿を守るような形で、前に向かい合わせの型で遷された。 明治の初めには、廃仏毀釈があり、仏教的なものは取り払われた。今二座が鎮座するところは鐘楼跡といわれている。 壬申の乱に功績があった三神の日本書紀の記述では、高市の事代主神、身狭の生霊神と二神は神名まで表記されているが、村屋神は地名だけで神名はない。あるいは村屋神社の二神ではないかとも思われる。 本社弥富都比売神は女神であり、戦いにはしっくりこない。経津主神・武甕槌神の方がふさわしく思うが、決定する資料がない。 文 村屋坐弥富都比売神社 守屋広尚 宮司 社頭掲示板 |
村屋神社 田原本 歴史遺産 延喜式内社 旧城下郡 蔵堂 村屋神社 祭神 経津主神・武甕槌神・室屋大連神・大伴健持大連神 経津主、武甕槌二神は春日四神の内の二神であることから、春日神社とも言う。 大連二神は壬申の乱(672)に、吉野軍の将として活躍し、功績が高かったため、天武5年に合祀される。 この森屋郷は、古くは、室屋郷とも室原郷とも言い、室屋大連の神は、この地の出身ではないかと考えられる。 この神社は、元は大宮から200mほど東、初瀬川の川べりに鎮座されていたが、南北朝時代に兵火に会い、神領を没収せられ、社地を縮小せざるをえなくなり、本殿を守るような形で、前に向い合せの型で遷された。 明治の初めには、廃仏毀釈があり、仏教的なものは取り払われた。今二座が鎮座するところは、鐘楼跡と言われている。 壬申の乱に功績のあった三神の日本書紀の記述では、高市の事代主神、身狭の生霊神と二神は神名まで表記されているが、村屋神は地名だけ、神名がない。あるいは、村屋神社の二神ではないかとも思はれる。本社彌冨都比売神は女神であり、戦にはしっくり来ない。経津主神・武甕槌神の方がふさわしく思うが、決定する資料がない。 文村屋座彌富都比売神社守屋広尚宮司 村屋神社の建築について 切妻造妻入り見世棚造庇付銅板葺千木・勝男木付である。柱間55cm位の小社で、基壇上に土台を廻し、方柱を建てる。柱天端は簡略の大斗、舟肘木を組み、繁垂木を打つ、正三面板扉両開戸、見世棚上部三方板壁、同下部四面解放、見世棚上部片流れ庇付である。 近代に建築された社で、木肌も新しいが、屋根勾配きつく、神明造風の2社殿である。 文田原木町文化財保護審議委員会長 林清三郎 平成21年度 No.7 田観57 田原本町観光協会 社頭掲示板 |
村屋神社二座 村屋は前に同じ〇祭神詳ならず〇蔵堂村に在す(大和志、同名所図会) 神社覈録 |