村屋坐弥富都比売神社拝殿の手前西にあり。 若宮恵比須神社と称されている。 天正12年(1584)洪水で宮の山より森垣内に遷し、さらに慶応2寅年秋9月森屋垣内より本社の未申の方に遷社した。 |
久須々美神社 延喜式内社 旧城下郡 蔵堂 久須々美神社 祭神 天之久之比神 事代主神 経津主、大国主神の子、事代主神であることから、若宮とも呼ぶ。元は、今、蔵堂橋の南のたもとに鎮座、伊豫氏(伊与戸)の氏神であった。この神社の南を南市場垣内(現森屋垣内)北を北市場垣内という。更に南へ行くと、幸市、市町等の小字が残る。古道、中ッ道と筋違道の初瀬街道と交わる位置にある事から、品社祭禮に近郷から参拝者が多く、地の産物を供え、残りを交換し合って市場が出来たと云われている。天正(1573-91)の頃、織田信長と遠(十)市氏の戦いで兵火に合い、市場衰退し、田原本藩ができる事によって、商人が移住、ますます寂れることになった。明治の初めに、現在の位置に移される。 祭礼は12月23日、夕刻 青竹の先に鯛を二匹と大根、人参を吊るして神饌とする。いわゆる三夜祭が行われていた。本社祭礼には、壬申の乱の功があった三紳を巡る渡御が行われていた。事代主神と云われるこの久須須美神社と、大安寺の森市神社(生霊紳)を巡り、本社へ戻っていた元弘年間(1331-3)の兵火で社地没収され、渡御は廃絶し、現在に至っている。 建築について 切妻造妻入り見世棚造庇付カラー鉄板葺である。柱間48.5cm位の社殿で、自然石の基壇上に土台を廻し、方柱を建てる。柱天端は直接桁を受けている,中央板扉両開き、他面板壁、見世棚下部は正面のみ板壁、他面解放である。身舎、庇部分共板軒で、屋根勾配の緩い小社である。 村屋坐弥富都比売神社 守屋宏尚 宮司 社頭掲示板 |
久須須美神社 田原本町 歴史遺産神々を訪ねて 延喜式内社 旧城下郡蔵堂 久須々美神社 祭神 天之久之比神 事代主神 経津主、大国主神の子、事代主神であることから、若宮とも呼ぶ。 元は、今、蔵堂橋の南のたもとに鎮座、伊豫氏(伊与戸)の氏神であった。 この神社の南を南市場垣内(現森屋垣内)北を北市場垣内と言う。更に南へ行くと、幸市、市町等の小字が残る。古道、中ッ道と筋違道の初瀬街道と交わる位置にある事から、本社祭禮に近郷から参拝者が多く、地の産物を供え、残りを交換し合って市場が出来たと云われている。天正〔1573-91)の頃、織田信長と遠(十)市氏の戦いで兵火に会い、市場衰退し、田原本藩ができる事によって、商人が移住、ますます寂れることになった。明治の初めに、現在の位置に移される。 祭禮は12月23日、夕刻青竹の先に鯛を二匹と大根、人参を吊して神饌とする。いわゆる三夜祭が行われていた。 本社祭禮には、壬申の乱の功があった三神を巡る渡御が行われていた。事代主神と云われるこの久須々美神社と、大安寺の森市神社(生霊神)を巡り、本社へもどっていた。元弘年間(1331-3)の兵火で社地没収され、渡御は廃絶し、現在にいたっている。 久須々美神社の建築について 切妻造妻入り見世棚造庇付カラー鉄板葺である。柱間48.5p位の社殿で、自然石の基壇上に土台を廻し、方柱を建てる。柱天端は直接桁を受けている,中央板扉両開き、他面板壁、見世棚下部は正面のみ板壁、他面解放である。身舎、庇部分共板軒で、屋根勾配の緩い小社である。 文田原本町文化財保護審議委員会会長林清郷平 成21年度 No.6 田観56 田原本町観光協会 社頭掲示板 |