久須須美神社[村屋坐弥富都比売神社境内摂社]
くすすみじんじゃ                    . 所在地ボタン 社名ボタン

















   【延喜式神名帳】久須須美神社 大和国 城下郡鎮座
          村屋坐弥富都比売神社 の境内社
          (旧地)久須須美神社【旧地】

   【現社名】久須須美神社
   【住所】奈良県磯城郡田原本町蔵堂426
       北緯34度32分53秒,東経135度49分3秒
   【祭神】天之久之比命 事代主命
       神社明細帳「事代主神、相殿ニ天之久之比命」
       『磯城郡誌』天久志比命・言代主命
       『大和名所旧蹟案内』天久志比命・言代主命

       天久之比乃命(アメノクシヒノミコト)は天津彦根命の御子にして
       アメノマヒトツノミコト(天目一箇命)の別名である。(『古史傳』・姓氏録)
       太玉命に属隷して天孫降臨の時、金工として從った倭鍛冶等の祖である。

   【例祭】11月23日例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天武天皇の御宇白鳳6年8月御造営再建
       貞観元年(859)正月27日正六位上から從五位下に進階『三代実録』
       貞観8年8月14日正六位上から從五位下
       貞観18年閏4月7日從五位上に進階
       天正12年(1584)洪水で宮の山より森垣内に遷

   【関係氏族】
   【鎮座地】往古は字宮の山にあり
        天正12年(1584)洪水で宮の山より森垣内に遷(蔵堂橋の南のたもと)
        慶応2寅年秋9月森屋垣内より本社へ遷

   【祭祀対象】南北の市場の守護神
   【祭祀】江戸時代は「若宮恵比須神社」と称す
   【社殿】本殿春日造
       

   【境内社】

村屋坐弥富都比売神社拝殿の手前西にあり。
若宮恵比須神社と称されている。
天正12年(1584)洪水で宮の山より森垣内に遷し、さらに慶応2寅年秋9月森屋垣内より本社の未申の方に遷社した。


久須々美神社

延喜式内社 旧城下郡 蔵堂 久須々美神社
 祭神 天之久之比神 事代主神
経津主、大国主神の子、事代主神であることから、若宮とも呼ぶ。元は、今、蔵堂橋の南のたもとに鎮座、伊豫氏(伊与戸)の氏神であった。この神社の南を南市場垣内(現森屋垣内)北を北市場垣内という。更に南へ行くと、幸市、市町等の小字が残る。古道、中ッ道と筋違道の初瀬街道と交わる位置にある事から、品社祭禮に近郷から参拝者が多く、地の産物を供え、残りを交換し合って市場が出来たと云われている。天正(1573-91)の頃、織田信長と遠(十)市氏の戦いで兵火に合い、市場衰退し、田原本藩ができる事によって、商人が移住、ますます寂れることになった。明治の初めに、現在の位置に移される。
祭礼は12月23日、夕刻 青竹の先に鯛を二匹と大根、人参を吊るして神饌とする。いわゆる三夜祭が行われていた。本社祭礼には、壬申の乱の功があった三紳を巡る渡御が行われていた。事代主神と云われるこの久須須美神社と、大安寺の森市神社(生霊紳)を巡り、本社へ戻っていた元弘年間(1331-3)の兵火で社地没収され、渡御は廃絶し、現在に至っている。
建築について
切妻造妻入り見世棚造庇付カラー鉄板葺である。柱間48.5cm位の社殿で、自然石の基壇上に土台を廻し、方柱を建てる。柱天端は直接桁を受けている,中央板扉両開き、他面板壁、見世棚下部は正面のみ板壁、他面解放である。身舎、庇部分共板軒で、屋根勾配の緩い小社である。
村屋坐弥富都比売神社 守屋宏尚 宮司

社頭掲示板



久須須美神社

田原本町 歴史遺産神々を訪ねて
延喜式内社 旧城下郡蔵堂 久須々美神社
祭神 天之久之比神 事代主神
経津主、大国主神の子、事代主神であることから、若宮とも呼ぶ。
元は、今、蔵堂橋の南のたもとに鎮座、伊豫氏(伊与戸)の氏神であった。
この神社の南を南市場垣内(現森屋垣内)北を北市場垣内と言う。更に南へ行くと、幸市、市町等の小字が残る。古道、中ッ道と筋違道の初瀬街道と交わる位置にある事から、本社祭禮に近郷から参拝者が多く、地の産物を供え、残りを交換し合って市場が出来たと云われている。天正〔1573-91)の頃、織田信長と遠(十)市氏の戦いで兵火に会い、市場衰退し、田原本藩ができる事によって、商人が移住、ますます寂れることになった。明治の初めに、現在の位置に移される。
祭禮は12月23日、夕刻青竹の先に鯛を二匹と大根、人参を吊して神饌とする。いわゆる三夜祭が行われていた。
本社祭禮には、壬申の乱の功があった三神を巡る渡御が行われていた。事代主神と云われるこの久須々美神社と、大安寺の森市神社(生霊神)を巡り、本社へもどっていた。元弘年間(1331-3)の兵火で社地没収され、渡御は廃絶し、現在にいたっている。
久須々美神社の建築について
切妻造妻入り見世棚造庇付カラー鉄板葺である。柱間48.5p位の社殿で、自然石の基壇上に土台を廻し、方柱を建てる。柱天端は直接桁を受けている,中央板扉両開き、他面板壁、見世棚下部は正面のみ板壁、他面解放である。身舎、庇部分共板軒で、屋根勾配の緩い小社である。
文田原本町文化財保護審議委員会会長林清郷平
成21年度 No.6 田観56 田原本町観光協会

社頭掲示板



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