昭和52年、現社頭を取り囲むと推定される築地塀跡の発見により、神護景雲以前からの古い信仰遺跡の存在が実証されつつある。 当社の造替は創立以來、ほゞ二十年を目途に行なわれている。 藤氏の氏神氏寺の故をもつて、興福寺との関係深く、弘仁4年(813)、藤原冬嗣の興福寺南円堂建立についで、その本尊不空絹索観音が、当社の主神武甕槌命の本地仏となる。 10世紀の終り頃から、興福寺衆徒らによる強訴が芽生え、11世紀末からは強訴手段としての神木動座が始つて、室町中頃まで続くが、その最盛期は平安中期から鎌倉末期に及んだ。神木動座は裏を返せば、春日の神威がいかに強大であつたかを物語る宗教現象といえよう。 明治4年5月「官幣大社春日神社」に列格、更に昭和21年12月「春日大社」と改称された。 |
公式ホームページより 春日大社は、本殿向って右(東)から、第一殿 茨城県の鹿島神宮から迎えられた武甕槌命(タケミカヅチのミコト)、第二殿 千葉県の香取神宮から迎えられた経津主命(フツヌシのミコト)、第三殿 天児屋根命(アメノコヤネのミコト)と第四殿 比売神(ヒメガミ)は大阪府枚岡(ひらおか)神社から、それぞれ春日の地に迎えて祀られている。奈良時代の神護景雲二年(768)、現在地に四所の神殿が創設されたのが始り。藤原氏の氏神として有名。境内に含まれる主なものは、標高295mの御蓋山全域の山林部と、社頭から西方、飛火野、雪消の沢一帯の芝原、若宮おん祭の御旅所(おたびしょ)から一の鳥居に至る参道の地帯を含む平野部で、これら全域は昭和六十年国指定の史跡である。 春日大社の歴史 春日大社は、第一殿は茨城県の鹿島神宮から、第二殿は千葉県の香取神宮、第三、四殿は大阪府枚岡(ひらおか)神社から、それぞれ春日の地に迎えられた神々が祀られているが、中でもタケミカヅチの命は一足早く東の御蓋山(みかさやま)の頂上に降臨され、やがて奈良時代の神護景雲二年(768)、藤原氏の血を引く女帝、称徳天皇の勅命により、左大臣藤原永手らが現在地に四所の神殿を創設したのが始り。以来、藤原氏の氏神として有名。古くは「春日大神社」、「春日神社」、中近世は専ら「春日社」と呼ばれてきたが、明治四年、「官幣大社春日神社」に列格、更に昭和20年、神社と国家の分離により、昭和21年、宗教法人法に基き「春日大社」と改称された。 春日大社の信仰 春日大社は、本殿向って右(東)から、第一殿 武甕槌命(タケミカヅチのミコト)、第二殿 経津主命(フツヌシのミコト)、第三殿 天児屋根命(アメノコヤネのミコト)、第四殿 比売神(ヒメガミ)の四柱が祀られているが、タケミカヅチの命とフツヌシの命は水神(自然神・観念神的)、アメノコヤネの命とヒメガミは、祭儀にかかわる司祭者を神格化した神(人格神的)として、神格は、きわめて対照的である。また、タケミカヅチのシンボルは「杉」であり、芸能神の依代(よりしろ:神が依りつく物)である「松」がアメノコヤネの命の御子神を祀る若宮のシンボルであることから、樹神信仰が見られ、御蓋山(みかさやま)の木を伐ることは堅くタブーとされた。平安朝に入ってからは、明らかに藤原氏の氏神信仰が中心となる。 |
春日大社 当大社は今から千二百余年前平城(ナラ)に都が出来た頃、神代に功績のあらせられた、鹿嶋の武甕槌命を都の東方春日御蓋山(三笠山)の項上浮雲峯にお祀りし、国土安穏、国民繁栄をお祈りしたのか始まりで称徳天皇神護景雲二年(768)11月9日今の地に社殿を造営し、香取の経津主命(又は斎主命とも申す)河内枚岡の天児屋根命、比売神の三柱の大神を共にお祀りし四社明神と崇め奉ったものである。 創立以来上下の崇敬厚く、一条天皇永祚元年(989)2月22日の御幸を始め行幸など三十余度、藤原氏一門又衆庶の参拝夥しくその折々の祈願、慶祝、報賽には種々の神宝調度の奉納、燈籠の寄進があリ又御神徳は春日講の結成、春日曼荼羅、三社託宣、御物春日権現霊験記となって現われ、且つ全国至る処に春日の分社か創立された。 境内は御蓋山及び春日野一帯約三十万坪が旧来より境内地と定められている。 境内に異彩を放つ可受い神鹿は、現在約千余頭でこれは御祭神武甕槌命が、鹿島から春日三笠山に御遷座の折お乗りになつた白鹿の繁殖したものと伝えられ、以来神使として愛撫育成されている。 社頭掲示板 |