榎本明神の神格は古來、春日の「地主神」とされてきた。 春日大社廻廊内西南隅に、南向きに鎭座 この社が「榎本社」と呼ばれるのは、今のところ11世紀を遡れない 明治維新まで「榎本社」であつた。 明治9年8月、「式内春日神社」と改称 中世末まで、榎本社の祭神は「巨勢姫明神」とされてきた。 土地交換説話は、「つんぼ春日に土地三尺借りる」民間伝承に接がつて、今も語りつがれている |
説話 都が飛鳥の藤原にあった頃、武甕槌命は、都の守り神として藤原京の東方阿倍山に鎮座しておられた。その頃、奈良の春日野一帯の土地を所有する大地主神である榎本の神が阿倍山に訪ねてこられて、武甕槌命に、「私の住んでいる春日野と、あなたの阿倍山を交換してくださいませんか。」と相談をもちかけられた。 もともと春日野の風景が大好きだった武甕槌命は、二つ返事で承知された。ところが間もなく都が奈良に遷ることになって、守り神である命も奈良へ引越された。一方、阿倍山へ移られた榎本の神は、参詣人が少なくなって貧乏暮らしとなり、とうとう武甕槌命に助けを求めてこられた。武甕槌命は、やさしく「それなら、私の社の側に社を建てて、お住みなさい。」というので出来たのが、現在、春日大社の廻廊の西南の角にある「榎本神社」だということだ。 この話には、もう一つの説もある。武甕槌命は、御蓋山の西麓に広大な神地を構えようと、その土地の地主の榎本の神に、「この土地を地下三尺(約一米)だけ譲って貰えないか。」と頼みに行かれた。榎本の神は耳が遠くて「地下」という言葉がよく聞えなかったので、「三尺位なら、お安いご用」と簡単に承知してしまわれた。ところが、工事が始まると、何十ヘクタールにもわたる広い土地の周囲に大きな囲いが建ちはじめた。榎本の神はびっくりして「話が違うではありませんか。」と申し入れたが、武甕槌命は、「私は、地下三尺と言ったのですが、あなたにはよく聞えなかったのでしょう。その代わり境内の樹木は地下三尺より下へは延ばさないし、あなたも住む所がなくては困るだろうから、私の近くで一緒に住んでください。」というので、現在の摂社春日神社(通称榎本神社)が出来たという。 明治頃までは、春日大社にお参りに来た人は、必ず榎本神社に詣でて、その柱をこぶしで何度もトントンたたきながら、「春日さんお参りしましたぜ。」と言って、ほこらのまわりを回ってから本社へお参りしたそうだ。 |
榎本神社(春日大社 摂社) 春日大社創建前の地主神を祀る神社 榎本神社は、春日大社が創建する前からこの場所に存在していたと伝えられています。 創建年は不明ですが、榎本神社に関する最も古い記録は、927年(延長5年)に編纂された『延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)』で、ここには榎本神社の元々の祭神が猿田彦神ではなく、春日神(かすがのかみ)、つまり春日野に元々棲み着いていた土地神であると記されています。 その後の文献では、祭神について巨勢姫明神(こせひめみょうじん)であるとされていましたが、巨勢姫という神については日本民俗学でも詳しいことがわかっていません。 時代の変遷に伴い、神が統合されるに従って、猿田彦神と同一視されるようになった神ではありますが、元々は春日氏の氏神として猿田彦とは別の神であった、とする説が濃厚です。 いずれにしても、春日の地に春日大社より前から鎮座していた土地神として、榎本神社そのものはひっそりとしていながらも、春日大社本殿にほど近い、南門のすぐそばに祀られています。 春日大社HP |
春日神社 春日は加須加と訓べし、和名鈔、(郷名部)春日、(假字上の如し)○祭神春日地主神、(考証)○在所詳ならず〇姓氏録、(左京皇別下)大春日朝臣、出自孝昭天皇皇子天足彦國押人命也、仲臣令家重千金、委糟為堵、于時大鷦鷯天皇、(諡仁徳)臨幸其家、詔號糟垣臣、後改為春日臣、桓武天皇延暦20年、賜大春日朝臣姓、 考証云、今榎本社、春日記、依託宜景雲元年11月9日御鎮坐云々、○大和志云、春日村、今属山辺郡、 神社覈録 |