住吉大社
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   【延喜式神名帳】住吉坐神社 四座(並名神大 月次/新嘗/相嘗)摂津国 住吉郡鎮座
          (摂社)大海神社
          (摂社)種貸社
          (摂社)船玉神社

   【現社名】住吉大社
   【住所】大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89
       北緯34度36分44秒,東経135度29分37秒
   【祭神】底筒男命 中筒男命 表筒男命 息長足姫命
   【例祭】住吉祭 7月31日
   【社格】摂津一の宮 二十二社 官幣大社
   【由緒】天平年間従三位
       延暦2年(783)6月勲三等
       同年12月には従二位
       大同元年(806)4月従一位
       嘉祥4年(851)正月27日正一位
       建久6年(1195)源頼朝神馬を奉納
       明治4年(1871)7月1日に官幣大社

   【関係氏族】津守氏
   【鎮座地】創建当初より不変

   【祭祀対象】「祓」のことを司る神
   【祭祀】連綿と継承されている
   【公式HP】 住吉大社
   【社殿】本殿住吉造
       

   【境内社】多数
   【境内図】 境内図

旧官幣大社(現、別表神社)。第一本宮に底筒男命、第二本宮に中筒男命、第三本宮に表筒男命、第四本宮に息長足姫命(神功皇后)を祀る。社殿は第一本宮から第四本宮まであり、第一本宮を一番奥に、手前に第二、第三と縦に並び、第四本宮は、第三本宮の右横に並んで建っている。四殿ともに、神社建築の最も古い形式の一つ「住吉造」であり、国宝に指定されている。また四殿とも西(大阪湾の方向)を向いて建っていることも見逃せない。『古事記』(712)に「其の底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱の神は、墨江の三前の大神なり」と見えているが、当社の創祀は古く、神功皇后新羅遠征の帰途に、筒男三神の神誨により、神功皇后が、三神の和魂を大津渟中倉長峡に鎮座されたに始まる。 延暦3年(784)正三位住吉神に勲三等を賜い、次いで従二位、大同元年(806)従一位、後に正一位になった。『延喜式』には「住吉坐神社四座」と記され、名神大社として、祈年・月次・相嘗・新嘗の案上の官幣及び祈雨、八十島祭に預った。また二二社の一つに数えられ、摂津国一の宮として、上下を問はず、篤い尊崇を受けた。特に天皇の行幸も、天武天皇以来数多く、鎌倉時代以降は、将軍をはじめ、武家の崇敬も特に篤かった。建久6年(1195)には、源頼朝、神馬を奉納、楠木正成・足利尊氏・豊臣秀吉等は篤い崇敬者で、文禄3年(1594)、秀吉は社領を定め、秀頼は慶長11年(1606)片桐且元をして社殿を修造させた。江戸時代に入ってからも、徳川将軍以下諸大名の尊崇篤く、参勤交代ごとに必ず当社に参拝する大名が沢山あったという。明治維新の際、社領、社地の多くが上地された。明治4年(1871)7月1日に官幣大社に列格した。昭和36年には第47回の式年遷座祭が行われた。住吉の神は、特に海上安全の守護神として、また禊祓の神・歌神・現人神信仰などの神徳で、篤い崇敬を受け今日に至っている。


由緒

底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神を総称して住吉大神と申上げ、伊弉諾尊があはぎはらに祓除せられたとき、海の中より生れた神樣です。
神功皇后は、新羅御出兵に当って、住吉大神の御加護を得ておおいに国威を輝かせられ、御凱旋の後、大神の御神託によって此の地に御鎮祭になりました。神功皇后摂政11年辛卯年のことで、今から約1780年前のことでありました。皇后の御孫、仁徳天皇が浪速に遷都せられて墨江の津を開港せられ、後に大阪、堺の発展をもたらしましたのは、実に此の時に起因しております。
後、皇后をも併せ御祀り申上げ、住吉四社大明神と崇められ、延喜の制では名神大社に列せられ、摂津国一の宮として聞え高く、昭和21年まで官幣大社でありまして、全国二千余に及ぶ住吉神社の総本宮です。
住吉大神は、禊祓の御神格をもって御出現になりましたので、禊祓の神であり、住吉祭は「おはらい」と呼ばれる程、神道で最も重要な「祓」のことを司る神です。また、住吉大神は、「吾が和魂をば宜しく大津の渟中倉の長峽に居さしむべし、便ち因りて往来ふ船を看護せむ」と神功皇后に御告げになった由が『日本書紀』住吉大社神代記に見え、海上安全の守護神であり、奈良時代、遣唐使の派遣には、必ず朝廷より奉幣があり、その海上無事を祈りました。そのほか歌神として、古来歌道の上達を志す人が当社に参篭献詠し、あるいは現実に姿を現される現人神としての信仰もあり、産業発展・文化・貿易の祖神と仰がれ住吉大神の広大な御神徳はあまねく世に知られています。
住吉大社の夏祭り(住吉祭)は、ただ単に「おはらい」とも呼ばれ、国中の大祓を行うお祭りです。7月31日、御例祭に続き、午後一時より夏越大祓神事(大阪府指定無形文化財)が行われ、翌8月1日には堺宿院の頓宮に渡御があり、荒和大祓が行われております。そのほか、踏歌神事(1月4日)、白馬神事(1月7日)、御結鎮神事(1月13日)、松苗神事(4月3日)、卯之葉神事(5月上卯日)、御田植神事(6月14日・重要無形民俗文化財)、宝之市神事(10月17日)等の神事があります。
住吉大社の祭祀は、1700年来連綿と続いていますが、中でも伊勢の神宮と同じく、20年に一度の式年造替遷宮の制が、はやくも奈良時代より確実に実施せられていました。近世以降よりは、破損に従って修理する例となりましたが、遷宮の根本の制は今日にひきつがれ、去る平成3年11月には、御鎮座1780年に当たり、第48回式年遷宮が執り行われました。
当社に対する御崇敬は頗る厚く、天武天皇の御奉幣をはじめ、御歴代天皇、皇族の行幸、御神宝の御奉納などあいつぎ、特に後村上天皇は、戦乱の世の前後九年間、当社に行在所をおかれました。また明治天皇は明治元年及び10年の両度御親拝され、昭和天皇も大正6年に御参拝になり、昭和45年には昭和天皇、皇后両陛下御揃いで御親拝されました。
初詣の参拝者は三が日で三百万人に及び、一年を通じても家内安全・商売繁昌・初宮詣・七五三詣・交通安全・厄除など諸願成就の人が絶えません。
御社殿は、第一本宮より第三本宮まで縦に、第四本宮は第三本宮の横に並ぶという他に例を見ぬ縦ならびの配置で、各本宮とも御本殿は、「住吉造」と称せられる神社建築史上最古の特殊の様式で、いずれも国宝に指定されています。「住吉造」というのは、丹塗・桧皮葺・直線型妻入式で切妻の力強い直線をなした御屋根に置千木と五本の四角堅魚木を備え、周囲に回廊なく、板玉垣をめぐらし、さらにその外に荒忌垣があり、正面で「住吉鳥居」と称せられる特有の四角鳥居に接続しています。
摂末社
大海神社
山幸海幸の神話で有名な海神の豊玉彦、豊玉姫を祀り、本社に次いで御神格の高い社です。御本殿は本社と同じ形式の「住吉造」で、重要文化財に指定され、社前の「玉の井」は海神より授かった潮満珠を沈めたと伝えられています。
船玉神社
天鳥船命・猿田彦命を祀ります。天鳥船命は天上との交通、すなわち大空の船の守護神であり、猿田彦命は天孫降臨の際先導を果たされた神様で、船の御霊であると同時に航空の安全を守る神として全国唯一の信仰をうけています。
若宮八幡宮
神功皇后の御子応神天皇すなわち八幡様をお祀りし、湯立神事は有名です。
志賀神社
大海神社境内にあり、伊弉諾尊の禊祓の時、住吉三柱大神と共に生れ出で給うた底津少童命・中津少童命・表津少童命をお祀りしております。
侍者社
神功皇后の命をうけて住吉大社最初の神主津守氏の祖田裳見宿祢、市姫を祀り、縁結の神として良縁を祈願し、おもと絵馬を奉納する参拝者が多い。
楠君社
第一本宮の裏にある樹齢約千年の楠を御神木として、お稲荷様[宇迦魂命]を祀り、商売繁昌に格別の御神徳あり、俗に“初辰さん”と称えられて毎月初の辰の日には多数の参詣者で賑わい、特に四十八回の月詣りは有名です。
種貸社
苗見社とも称し、五穀の種が授かる信仰がもととなって、商売の資本を得たり、種貸人形を受けると子宝を授かる信仰があります。 大歳神社
大歳神を祀り、収穫の神であるところから集金、商売繁昌、家内安全、願望成就の御神徳があり、毎月初の辰日に祈願する人々で賑わいます。
浅沢神社
市杵島姫神を祀り、福の神、婦人の作法、芸事の守護神として崇敬されています。昔は浅沢小野の「かきつばた」として世に知られた名所でした。
市戎大国社
事代主神・大国主神を祀り、商売繁昌の守護神で、市の守り神とされています。一月十日の市戎大国祭[えべっさん]は、賑々しいお祭が行なわれます。
名所旧跡
五所御前
第一本宮と摂社若宮八幡宮との間にあり、杉樹が石の玉垣の内に立っています。昔神功皇后が当社を御鎮祭のため社地をお定めになる時、この杉の木に鷺が三羽来て止まりましたので、ここが大神の御思召のところとしてここに祀られたと伝え、「高天原」とも呼ばれています。
石舞台
日本三大舞台の一つで、舞樂を奏するところです。南門・東と西の樂所と共に慶長年間豊臣秀頼が奉納され、重要文化財に指定されています。
反橋
住吉の象徴として名高く太鼓橋とも呼ばれています。長さ20m、幅5.5m、高さ3.6m、現在の石の橋脚は、慶長年間、淀君が奉納したものが伝えられています。池の畔に川端康成「反橋」の文学碑が建っています。
誕生石
薩摩藩主島津氏の祖島津忠久誕生の処と伝えられ、島津家代々の信仰が厚く、丹後局の伝説よりしてここに安産を祈るものが絶えません。 石灯篭
境内の石灯篭はすべて六百余基に達し、その形も頗る壮大なもの、優雅なものなど多く、頼山陽、池大雅、貫名海屋、篠崎小竹、五井蘭州、羽倉可亭など名家による題字を刻んだものもあり、近世の住吉信仰を窺えます。
住吉御文庫
第一本宮の北に建つ二階建・土蔵造の御文庫で、享保8年(1723)に三都[大阪・京都・江戸]の書林が奉納、大阪最古の図書館として有名です。
高倉
第一本宮裏の森の中にある二棟の板校倉造で、井楼造ともいわれています。御神宝を納める庫にて、室町時代の建物と伝えられています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




住吉大社

御鎮座
いまの住吉は、むかしより『玉野の國』とよばれる名勝の地で、その地に御鎭座ましますのが、住吉の大神であります。神功皇后が新羅を平定せられての婦り途、急に船が進まなくなるという変事がおこりましたが、その時、大神が「わが和魂がよろしく大津の渟中倉の長峡に居らしむべし、すなわち因りて往き來ふ船を看む」とお告げになりました。そこで淳中倉の長峡、即ちいまの住吉の地に、大神をお祭りされたところ、忽ち船は進み、皇后は無事に御帰還なさることを得たのでありました。この大神の御鎭座は、神功皇后摂政の十一年、辛卯にあたる歳と、古くより伝へられてをります。やがて神功皇后も、「われは御大神と共に相住まむ」と仰せられて、この地に宮殿を定められ、その後、大神(三神)と合せて共に祭られたまふことになりました。それ故、住吉に坐す神社四座として世に知られてゐるのであります。
この御鎮座地は、大阪市の東寄りを南北に走るいはゆる上町台地の、一番南の端にあたつており、いまこそ海岸より遠く700メートルも離れていますが、むかしは、近くまで海濱が迫ってゐたのでして、古人は、「海濱の祠字、姻波を枕にす」などと詠んでをります。 なほ・境外末社の大歳社は、本杜境内より東南一町(約100m余)、細江川にそひ独梁橋を渡つたところにあり、神名帳に草津大歳神社と記され、五穀の神でありますが、商人の取引繁昌また契約の変らぬやうにと析るものが少くありませぬ。
同じく浅澤社は大歳社の北隣にあり、御祭神は市杵島姫命で、これは萬葉集をはじめ古歌で知られた燕子花の名所であります。
また同じく港住吉神社は、築港の公園にそつたところにあり、御祭神は本杜と同じく、築港の鎮守の神として厚く崇敬され、7月15日の例祭は盛大に行はれます。
堺市宿院町東一丁に鎭座の宿院頓宮は、その西にある飯匙堀と共に、大神との堺との古い縁故を物語るもので、戦災後やや南に移りましたが、七月31日の御旅所として堺全市の崇敬を受けてをります。
御祭神
本杜は、儀吉大神と神功皇后をお祭りしてをります。
往吉大神とは、底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱の御神を総称して申し上げるのであります。日本書紀や古事記といふわが国で最も古い史書の伝へるところによりますと、伊弉諾尊は崩くなられた女神の伊弉冉尊を遣つて黄泉國までゆかれますが、望を達せず、却つて黄泉園の汚穢をうけられたので、それを清めるため、筑紫の日向の橘の小戸の■原で、海に入つて祓除をせられます。その時、生れませる神か、底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱、すなはち佳吉大神であります。
神功皇后は第十四代仲哀天皇の皇后にましまし、父は開化天皇の曾孫にあたられ気長宿祢王、母は葛城高額媛と申し、天日槍の後蕎にあたられる御方であります、仲哀天皇と御一緒に九州の熊襲征伐に向はれ、天皇の崩御せられた後も、女性の御身ながら、更に進んで朝鮮牛島にまで出兵せられて、大いに國威を輝かされた御活躍ぶりは、ひとり我が國のみならず、世界史上の一偉観とせられてをります。 本社及び摂社・末社の社號と御祭神は次の通りであります。
本社
第一本宮 底筒男命
翁二本宮 中筒男命
第三本宮 表筒男命
第四本宮 神功皇后(息長足姫命)
摂社
大海神社 豊玉彦命・豊玉姫命
若宮八幡宮 応神天皇・武内宿彌
志賀神社 底津少童命・中津少童命・表津少童命
船玉神社 天鳥船命・猿田彦神
境内末社
楯社 武甕槌命
鉾社 経津主命
侍者社 田裳見宿祢・市姫命
后土社 土御胆神
楠■社 宇迦魂命
市戎社 事代主命
大國社 大國主命
種貸社(苗見) 倉稻魂命
子安社 興台産霊神
海士子社 鵜茅葺不合尊
龍社(御井) 水波野女神
八所植 素盞鳴尊
新宮社 伊邪那美命・事解男命・速玉男命
立聞社(長岡) 天児屋根命
貴船社 高寵神
星宮 國常立命
五社 大領、板屋、狛、津、高木、大宅、神奴祖神
薄墨社 國基霊神
斯主社 國盛霊神
今主社 國助霊神
招魂社 諸霊神
境外末社
犬歳社 大年神
淺澤神社 市杵島姫命
港住吉神社 底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后
宿院頓宮 住吉大神
御神徳
住吉大神がはじめて御神威をあらはされましたのは、神功皇后の熊襲征伐の際のことであります。當時、熊襲は朝鮮の新羅と手をむすび、しきりにわが國に反抗して勢も強く、そのため仲哀天皇は熊襲征伐の途上で崩くなられるといふ困難な情勢にありました。しかし皇后が、御神託によつて、住吉大神をお祭りになりましたところ、忽ち強大な熊襲を平定せしめることができました。そこで次に反抗の本拠である新羅に兵を進められるのですが、この時、再び住吉大神が「和は王身に服ひて寿命を守り、荒魂は先鋒として師船を導かむ」と仰せられ、その御神威によつて新羅を降伏せしめることができました。その結果、彼の地に、日本の内官家を設けられると共に、佳吉荒魂神社を定めて磯鹿の海人名草といふ人を祝として祭らしめられました。これは、わが國の海外発展史上て最も古くまた頗るめざましい事実でありませう。これより、住吉大神の異賊退治、国体護持の御神徳はいよく高く仰がれまして、天智天皇の御代に新羅の僧道行が草薙劔を盗んで迷げようとした時、或は平将門の謀叛の際、また蒙古の大軍攻め寄せた時、或は幕末の國家危急の際など、いづれも國難に臨んで大神の御紳威は一段と輝きて天下崇敬の的となられたのであります。
もとよりそれらは、大神の荒魂としての御神威を示されたのでありまして、一方て和魂としましての御神徳は、また更に高く仰がれてをります。
元來、大神は、御出現の際より海に御関係があり、当社御鎭座の由來も「往き来ふ船を看む」との御託宣にもとづくのでありますから、古來、海路の平安を守りたまふ神として深く信仰されてまいりました。遺唐使の出発に先立ち、朝廷よりは必ず當社に奉幣あらせられて「皇後孫尊の後命以ちて、住吉に称辞寛へ奉る」云々と祝詞の奏上せられてをりますこと、或は天平五年、入唐使の妻が夫に贈る歌どして、「かけまくの、ゆゆしかしこき、墨吉のわが大御神、船のへに、うしはきいまし」と神明の加護を祈つてをります点、或は大同元年、遺唐使の平安を祈るため特に神階従一位を授けられてをられます事実などに照して、大神の海路平安の神としての御神徳の一端は明らかでありませう。その御神徳は、源氏物語の一節にも特筆されてをりますやうに、廣く國民の間にゆきわたり、特に漁業および航海業者は深い信仰を捧げて今日にいたつてをります。
しかし平安時代以後になりますと、大神を和歌の神として仰ぐ信仰もいよいよ盛んとなりました。それは伊勢物語に、住吉大神の御歌が記されてをります点より喧伝されたやうですが、しかしその大神の御歌は、
  宜まさに 君は知らませ かみろぎの
   久しき世より 齋ひ初めてき
として、早く奈良時代以前より當社に伝へられてをりますことは住吉大社神代記に明らかであり、大神が和歌の神にましますことの御由緒は頗る古いと申さねぱなりませぬ。それ故、歌道に志して当社に参籠される人々少からず、献詠また数知れぬ有様ですが、就中、建仁元年の熊野御幸の途次、當社に参詣あらせられての後鳥羽上皇の御製、
 かくてなほ かはらずまもれ よよをへて
  此みちてらす 住吉の神
及び供奉の藤原定家の和歌
 あひおひの ひさしき色も 常磐にて
  君が代まもる 住吉の松
などは、最も有名でありませう。しかも一段と注意せられますことは、和歌の道が敷島の道に通じ、それが更に目本精神の道に通じて解せられましたことで、たとえば、後醍醐天皇の皇子宗良親王の御歌には、
 すみよしの 神のしるべに まかせつつ
  音にかへる みちはこの遣
とも見えてをります。
かやうな大神の御神徳を拝しますと、かつて歌人宗砥が、いみじくも喝破いたしましたやうに、「住吉明神は文武を守り給へり、此の道は両輸の如し、國家を治めむ人は、此の御神の心を観ずべき事とぞ覚え侍る」ではありませぬか。
しかも、なほ大切なことは、大神が農業・産業の神として御神徳のあらたかなことであります。それは仁徳天皇の御代、往吉大神の御教によりまして、河内國の紺口の溝を掘つて石河の水を引き、附近の土地を潅漑して廣大な田地を耕作することができたとでへられてをり、かやうに大神が盛んに用水を通はしめて耕地を開発せられた所伝は住吉大社神代記に詳しく見えてをります。それのみならず、大神が苗代田に草を敷かずに苗代を作る方法を教へられたといふことが播磨國風土記にも記されてをりますから、大神が農耕の神として、奈良時代以前から崇敬せられてゐた事実は明らかでありませう。いまに行はれる当社の御田植の神事は、かやうな古來の信仰を伝へたものに他なりませぬ。しかも古い時代の農耕は、とりもなほさず當時の産業を代表するものでしたから、いまの世にあてはめれば、大神は即ち産業の神と申し上げてよろしいわけで、それ故にこそ、當社は農業関係者のみならず、商業・工業にたづさはる人々の深い信仰の的となつてをります。
このやうに、住吉大神には敷々の御神徳が拝されますが、しかも最も注意すべきことは、その御神徳の霊験が極めて灼な事実であります。それを物語りますものは、大神が屡々「現人神」としてこの世に現形したまふという信仰でありまして、この信仰は古く奈良時代より盛んであり、後世まで「住吉のあら人神」として数多くの歌文がつくられてをります。
この現世に御姿をあらはされるといふ特異な信仰は、よく大神の御神徳の偉大さを立証するものと思はれます。
それ故、當社に対する朝野の崇敬は頗る厚いものがありました。公家・武家および一般の人々の参詣にいたつては絶えることなしと申す外はありませぬが、殊に皇室におかれては、歴代深く當社を御崇敬になり、天武天皇の御代の奉幣をはじめ、行幸或は神宝の御奉納などあひつぎ、特に後村上天皇が戦乱の世の前後九年間、當社に行在所をおかれましたことは、かしこき極みと申さねばなりませぬ。近來も、明治天皇は明治元年四月二十目、同十年二月十四日の両度まで御親拝あらせられ、また、昭憲皇太后、貞明皇太后をはじめ奉り、東宮裕仁親王殿下、秩父宮同妃殿下、.高松宮同妃殴下、三笠官殴下その他の各宮殴下が御参拝あそばされ、殊に、今上陛下が東宮におはしました大正十年、御渡欧に際し、御旅行の御平安をお祈りあらせられ、御帰朝の後、皇太后陛下には親しく御参拝あり、金燈籠一対を御寄進あそばされました。今次大戦の後も皇太子殿下御渡欧の際、御名代として義宮殿下が昭和28年5月16目御平安を御所願のため御参拝あらせられましだ。また御鎭座1750年に當る昭和36年11月第47回式年遷宮には勅使が御参向になりました。尚、天皇、皇后両陛下には日本萬國博に御來臨の砌、昭和45年7月15目お揃ひにて當社に御参拝遊ばされましたことは、史上未曾有のことでございます。
御神階・御杜号
當杜に封しましては、早く天平年間に從三位が授げられてをりましたが、次いで正三位、やがて延暦3年6月には勲三等に叙せられ、同年12月には從二位、大同元年4月には從一位が授けられ、その後間もなく、年月を詳かにしませぬが、正一位を賜はり、極位に列せられました。
延喜の制では、名神大社とせられ、のち摂津國の一の宮として聞え、明治四年、。官幣大社に列せられましたが、戦後、官社の制はやめられました。そして今日は、住吉大社神代記に見えます通りの天平時代の御社號に復し、『住吉大社』と申し上げます。
後社殿
御本伝は、第一殿より第四殿まで四棟よりなつておりますが、その何れもいはゆる「住吉造」と称せられる古い神社建築史上の特殊な様式であります。各本殿の形式構造は殆んど同じですが、第一殿の拝殿のみが他よりやや大きく造られてをります。御本殿は間口より奥行深く、いはゆる妻入り式で、内部は内陣と外陣とに分れ、御屋根は切妻で力強い直線形をなし、置千木と五本の断面四角の堅魚木をそなへてゐます。御殿には廻廊なく、正面より直ちに階段に依り床下に降りることになつてをります。周囲は板玉垣を廻らし、更にその外に荒忌垣がありますが、板玉垣は正面で『住吉鳥居』と称せられる特有な角柱の鳥居に接続してをります。
なほ、現在の御本殴は文化7年の御造営にかかり、四殿とも、昭和28年11月13日に新國宝として指定せられました。
社領・境内
奈良時代より当社の神田は百五十七町余、神戸は三百四十四戸の多きにのぼり、境内の四至も東は駅路、南は朴淳の水門、西は海棹の及ぶ限、北は住道郷とされる廣大な地域でありました。その後、平安時代の頃にも、本國の摂津をはじめ丹波・播磨・安芸・長門・筑前などの諸國に神封があり、これによつて當社の祭祀および造営が行はれてきました。やがて豊臣秀吉は文禄三年に住吉郷の内二千六十石を當社の神領と定め、徳川氏によつてそれが當社の朱印高として代々認められてきました。しかし明治維新の際、神領・社地の多くは上地となり、その一部は住吉公園に編入されました。
御祭礼
當社の祭日は衣の通りであります。
元旦祭 一月一日
元始祭 一月三日
踏歌神事 一月四日
白馬神事 一月七日
若宮八幡宮 例祭一月十二日
御結鎭祭 一月十三日
卯目祭 毎月初の卯の日
初辰祭 毎月初の辰の日
朔日祭 毎月一日
十五日祭 毎月十五日
海上安全祈願祭 毎月二十日
交通安全祈願祭 毎月二十日
節分祭 二月節分の日
紀元祭 二月十一日
祈年祭 二月十七日
楠■社例祭 五月初の辰の日
招魂社 春季例祭三月春分の日
松苗神事 四月三日
天長祭 四月二十九日
卯之葉神事 五月初の卯の日
御田植神事 六月十四日
大祓 六月三十日
港末杜例祭 七月十五日
神輿洗神事 7月20ー21日
宵宮祭 七月三十日
例大祭 七月三十一日
夏越大祓 七月三十一日
渡御祭 七月三十一日
荒和大祓 七月三十一日
宿院屯宮例祭 八月一日
招魂社秋季例祭 九月秋分の日
観月祭 仲秋名月
宝之市神事 十月十七日
明治祭 十一月三日
新嘗祭 十一月二十三日
煤払式 十二月二十六日
大祓 十二月三十一日
除夜祭 十二月三十一日
踏歌神事
踏歌神事は一月四日に行はれます。祝詞奏上の後、直垂着用の所役のうち、小餅を入れた袋を持つた所役が庭に出て、神前に向つて立ち、梅の■を持つた所役が拝殿より庭に降りて袋持の所役に向ひ、「ふくろもちー」と呼びかげます。袋持の所役は「を−ともよ−」と答へながら進み出ます。かくすること三度、両所役は行違つてその位置を換へ、袋持はそのま上神前に進み、袋の中の小餅を取りだし、「一、二、三、四、五、十」と算へながら案上に献げ、「萬歳」と三度唱へ、拝礼して退きます。つづいて神樂女の一人が伶人の歌笛によつて白拍子の舞を奏し、更に八乙女の熊野舞が奏でられて神前の式が終ります。次いで各御本殿で福の餅が撤かれ、この餅を得ると幸福が授かるといはれてをります。
なほ、踏歌は、古くより宮中において行はれましたが、各地の大社でも同じく祭礼として行はれたやうであります。當社も、明治以前は夜間の賑々しい神事でありましたが、今は昼間に行はれてをります。
白馬神事
白馬神事は一月七日に行はれます。奉行の神人二人、神馬につきそつて第一本宮の庭に出で、神職の祝詞奏上の後、神馬舎人は神馬の口を取つて拝礼し、次に第二、第三、第四の各本宮を拝礼し、第一本宮の周囲を北から駆け廻ること二回、最後に各本宮の外部を一周し、第一本宮前に至り拝礼して退出します。白馬節會はアヲウマノセチエとよみ、春のはじめに白馬を見る時は年中風邪を遠ざけわづらひが無いといはれ、古くより朝廷で行はせられた御式であります。古來當杜は皇室の御尊崇が厚く、また大宮人の崇敬も深かつたものですから、宮中で行はれてゐた御式が、社頭でも行はせられる様になつたものと思はれます。
松苗神事
住吉の松は古來有名ですが、天明の頃枯死しかけたので、俳人加部仲ぬりの妻吉女は大件大江丸とはかり、風流人に松苗の献木を斡旋し、また植主に請うて一首一旬の献詠を集め、「松苗集」(全十四冊)と題して神社に奉納いたしました。この松苗奉納の神事は、現今も四月三日に、緑化推進委員會並に今里新地の奉仕によつて行はれてをります。
卯之葉神事
卯之葉神事は古へは毎年卯月(陰暦四月)の上の卯の日に行はれましたが、今は五月の上の卯の日に行はれます。卯之葉女は堺の龍神の奉仕によつて行はれましたが、現在は祭典のみ執り行はれ、石舞台に於て舞樂が奏せられます。この神事は當杜の創立が、神功皇后の摂政十一年辛卯年の卯月の上の卯目であると伝へられますところから、古くより御創立記念の祝祭として執行せられてゐるものであります。
御田植神事
御田植神事は六月十四日で、神功皇后が當杜を御鎭祭の時、住吉大神の御神徳により神饌田を設け、長門國から植女を召されて御田を作らしめたまふたのがはじめであると伝へられます。祭に先立ち神館で植女の戴盃式、粉黛式、競肩式があり、第一本宮において五穀豊饒の祭典が行はれます。
古へ、長門國から年々綿を献上した故事に因んで、綿の花に蝶々などを配した花笠を被つた植女に、神前で早苗を授け、風流武者は供揃へをし、八乙女や植女等も列を整へて御田に行き、植女は早苗を替植女に渡し、替植女は植付を始めます。中央に設けられた舞台では八乙女の田舞、風流武者の行事があり、また陣鉦陣太鼓の音勇しく響く中に、紅白の両軍の武者等は御田の畔を左右から突進して、三韓征伐の昔を偲ぶという棒打合戦をなし、住吉踊、田植踊等があつて式を終ります。この植女は、古くは長門の國から召され、堺の乳守にゐたので、その縁故により代々乳守から奉仕してゐましたが、明治の初年に新町組合が御田を奉納してより、新町組合が奉仕する事になつてをります。
御輿洗神事
御輿洗神事は七月二十日の夕刻住之江の浦に至り、舟で海水を汲んで神輿を洗ひ清める式であります。その夜、神輿は住吉公園内の御旅所に奉安し、二十一日の夜に至つて當社に還御し祭儀を終りますが、この神事は古へは「住吉のおゆ」と呼び、當日長峡浦の潮水に浴すると百病が治るといふので、遠方から人が澤山集りました。現在は、南港の濱に至り祓を修します。
南祭・夏越祓
南祭(住吉祭)は「おはらひ」ともいひます。七月三十日宵宮祭にはじまり、三十一日例大祭を行ひ同日夕刻、夏越大祓が住吉新地の奉仕で行はれ、引績いて、堺市宿院開口の頓宮へ神幸します。かつては宮司は輿に乗り、その他の神職は騎馬で、神宝捧持者及び先駆供奉のものは或は騎馬、或は徒歩で宿院に向ひましたが、現在は車輌を以て列次を整へます。宿院に神輿が著き、其処で祭典が行はれ、次いで飯匙堀に於て荒和の大祓式が行はれます。この御祭は音から摂河泉の大祭として有名なものであります。
宝之市神事
宝之市神事は十月十七日で、神功皇后が三韓からの貢物をはじめ百貨を庶民に頒たれたといふ故事によるもので、わが國の市の濫觴であるといはれてゐます。現在は祭典のみ執り行はれますか、以前は大阪南地五花街より奉仕する市女は五穀を桝に入れて供進し、齋女は紅白の糸環を奉り、稚児は絹布を献じて商業繁昌、五穀豊穰を祈願する華やかな祭で、昔は此の市で桝を多く売つたために升の市とも云ひました。芭蕉翁の句に
 升買うて分別かはる月見かな
といふのがあつて、其のの句碑が住吉公園の東入口の参道沿ひに建つてをります。我が國の一大商都たる大阪にはまことにふさはしい祭だつたと申せませう。
埴使
埴使といふのは、祈年祭と新嘗祭に附随した主要な行事であつて、神功皇后が當社御鎭祭に当つて、神武天皇の古例に倣はせたまひ、香臭山の埴土を取つて天平瓦を作り、大神お祭りあそばしたのに始ります。現今では祭典の十敷日前に、正使一人、副使一人が使丁を従へ大和國高市郡雲名梯神杜に至り、齋戒の後祝詞を奏し、次いで畝傍山麓の畝火山口神社に至り、同社で祭典を行ひ、山上に登り、口に榊葉を含み、往古より定められた所で土を取ること三握半、之を埴箱に収めて帰参し、埴司に命じ、諸種の土器を作らしめて、祈年、新嘗両祭の祭器にするのであります。
宝物
當杜の宝物中主なるものは次の如くであります
住吉大杜神代記。(天平三年解文)(重文)
古銅住吉神印。
後醍醐天皇綸旨並添状。
後村上天皇御所願状。
後小松天皇綸旨。
構光天皇綸旨。
後奈良天皇綸旨。
後陽成天皇綸旨。
霊元天皇御宸筆御短冊。
櫻町天皇御宸筆御短冊。
桃園天皇御宸筆御短冊。
後櫻町天皇御宸筆御短冊。
光格天皇宣命並御宸筆御短冊。
仁孝天皇御宸筆御短冊。
御法樂御短冊並御巻物。
明治天皇御告文。
同御騎朝奉賛御詞。
豊臣秀吉社領朱印状。
同大政所延命析願状。
徳川家康禁制。
舞樂面九面(重文)
古面並豊臣秀頼奉納の装束。
初代守家の太刀(重文)
繁慶の刀(重文)
共の他刀剣。
繁慶の鐵砲等。
貞明皇太后御寄進の金燈寵一錯。
裕仁親王御渡欧海陸平安御祈願文。
名所旧
五所御前
五所御前は第一本宮と摂社若宮八幡宮との間にあり、一株の老樹が石の玉垣の内に立つてをります。音、神功皇后が當社を御鎭祭のため御鎭座の地を定めたまはんと其処此処と見廻りたまふた時、此処の松の樹に鷺が三羽來て止りましたので、此処が大神の御心に合ふ処であらうと思召して社地と定められた、と云ふことが社記に見え、俗に高天が原とも申してをります。
神館
神館は石舞台の西、脇の池の向ふに見える建物で、手前を齋館といひ、その奥の建物を神館といひます。現在の神館は大正天皇御即位大礼を記念して新に造営せられたもので、皇族御休憩所、供進使参籠所、又は神事の式場に充てられてをります。旧神館は明治十年かしこくも明治天皇御親拝の際、御小休所となつた聖蹟でありました。齋館は神職の参籠所であります。
連歌所
連歌所は社務所と続いて北東にあり、昔、連歌の會を催した処で、後鳥羽天皇の行幸あらせられたことなどが古記に見えてをります。當社の御祭神は和歌の神として歌人の崇敬が厚く、かの藤原敦頼の如きは齢八十に及ぶまで毎月當社に詣でて、秀歌を得んことを祈り、源頼實は己が命を縮めても、世を驚かすばかりの名歌を詠みたいと祈願をこめたといはれてをります。
石舞台
石舞台は第一本宮と南門との問の脇の池に架けた石橋の上にあり、舞台を奏する所ですが、住吉の石舞台と称せられて有名であります。
楽所
楽所は石舞台の南側の南門の東西に続いてゐる建物を申します。舞樂演奏の時に用ひられ、この東西樂所は、その門と共に豊臣秀頼の奉納した建物であります。
反橋
反橘は神社の正面の前の池に架けられた半円形の橋で、長さ11間(20m)、高さ2間(3.16m)、幅3間余(5.5m)、慶長年間淀君の奉納架替したものであるといはれます。昭和30年の架替工事の際橋板以外の欄干その他は鐵管鐵板に改造されました。
神馬舎
神馬舎ば、北枚橋の西、表参道の北に東面してあります。住吉の神馬は昔から、さめ馬といふ白馬に定まつてをり、その厩舎は田邊町にあつて、古くは毎朝此の神馬舎に舎人が神馬を引いて出勤したのであります。その舎人を明衆といひます。
誕生石
誕生石は前の池畔北枚橋の東南にあつて、薩摩の國主島津忠久誕生の処と伝へられ、島津家代々の信仰が厚く、丹後局の伝説よりしてこ安産を祈るものが絶えませぬ。
高灯籠
高燈寵は住吉公園の西に聳えてゐました。反橋と共に、昔から住吉の表象としてその名高く、皇族方御参拝の際も屡々お登りあらせられ、わが國最古の燈台であるともいはれてをりますが、戦後上部木造都は解体し、基礎の石垣部も道路拡張のためすべて撤去されましたが、昭和49年12月住吉名勝保存会により住吉公園西公園の地に外形は元のままにて鐵筋コソクリート造にて復元再建されました。
石灯籠
境内に散在する石の燈籠は、すべて六百除基に達し、その形も頗る宏大なもの、優雅なものなど多く、頼山陽、貫名海屋、池大雅、呉吉敬、篠崎小竹、五井蘭洲、羽倉可亭など名家の筆になる題字を刻んだものもあります。
宿院
宿院は堺鑑に「此の地は住吉明神毎年六月晦日の御祓御旅所也」とあるやうに、住吉大社の御旅所であります。末社宿院預宮が鎮座せられ、御祭神は本社と同じで、住吉祭に此処において盛大な祭典が行はれ、由緒の深い飯匙堀で大祓の行事があつて、参拝者が群集します。元は此の日、海岸では堺の夜市とて生魚の売買が行はれ、その光景は眼を驚かせました。
飯匙堀
飯匙堀は彦火火出見尊の御所持の汐干珠を埋めたまふた処であると云ひ伝へ、其の堀の形が飯匙に似てゐたところから、名づげたのであるといひます。宿院預宮の西にあつて、南祭の時大祓が此の処で行はれ、摂河泉の大祓式として有名であります。
正印殿
昔、住吉大社の神印を納め置いた処から名づげたものといはれ、神主の邸内にありました。後村上天皇は前後九年この処を行在所とせられたまひ、遂にこの御殿で崩御あらせられ、また長慶天皇は此処で御践祚あらせられた由緒の深い所で、住吉大杜の南約三町(330m)の所にあり、住吉行宮跡として國の史跡に指定され保存してをります。

由緒書

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