住吉大社
すみよしたいしゃ


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【社名】

奈良時代には「住吉」を「スミノエ」と訓んだ
平安時代の末には「スミヨシ」と訓むようになつた。
中世には「住吉大神宮」と記すものが多い。
明治以降「官幣大社住吉神社」と呼称した
昭和21年より『神代記』に記す社号に復し「住吉大社」を正式の社名としている。


【公式HP】

摂津国の一の宮、住吉神社の総本社
古くは摂津国 (せっつのくに=大阪府北西部と兵庫県南東部を占める旧国名) の中でも、由緒が深く、信仰が篤い神社として、「一の宮」という社格がつけられ、人々に親しまれてきました。昭和21年までは官幣大社であり、全国約2300社余の住吉神社の総本社でもあります。
ご祭神の由緒
「日本書紀」や「古事記」の神代の巻での言い伝え
伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) は、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、黄泉の国(死者の世界)に行きますが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、逆にケガレを受けてしまいます。そケガレを清めるために海に入って禊祓いしたとき、住吉大神である底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと) が生まれました。
御鎮座の由緒
第十四代仲哀天皇の妃である神功皇后 (じんぐうこうごう) の新羅遠征(三韓遠征)と深い関わりを持っております。神功皇后は、住吉大神のお力をいただき、たちまち強大な新羅を平定せられ、無事ご帰還を果たされます。この凱旋の途中、住吉大神のお告げによって、この住吉の地に祀られることになりました。
*御鎮座とは、神さまの土地を定めて、お祀りすることです。
伝統ある式年遷宮祭
住吉大社の遷宮
住吉大社は、昔から20年ごとに本殿を新しく建て替える遷宮を行っています。古く由緒のある神社、たとえば伊勢神宮や香取・鹿島・賀茂社などでも同様に、数十年単位で御本殿を新築していくことが伝統でした。近世に入ると、住吉大社では本殿の修繕・改修とともに、お祭を行うようになりました。本殿の改修では、特に丹塗りや桧皮葺が重要で、ヒノキの樹皮を加工した桧皮 (ひはだ) で屋根を葺きます。今回の第49回式年遷宮は平成20年〜21年にかけて斎行され、国宝社殿の塗替をはじめ、諸建造物の修理を行い、境内の整備をいたしました。
御鎮座1800年記念大祭
平成23年5月12日に、御鎮座1800年記念大祭を斎行し、様々な奉祝行事が行われました。



   【文化財】 文化財

【祭神】

第一本宮(東) 底筒男命
第二本宮(中) 中筒男命
第三本宮(西) 表筒男命
第四本宮    息長足姫命
ツツノオ三神についての諸説
@ツツは津路の意味で、海路を司る
A筒之男をツ+津之男と解し、“津之男”とは津(港)を司る神とする
B船の中央に立てる帆柱の基部(ご神体を納める部分を「筒・ツツ」といった)に納めた“船霊”(守護霊)とする
C対馬の豆酘(ツツ)を本拠とする阿墨系海人の“ツツの男”の意とする
Dツツを“ユウヅツ”(金星)のツツとして、“星の神”とする
E同じ星の神でも、方位(東西)の目印ともなるオリオン座の“三つ星”(カラスキ星)とする



【住吉神社と津守氏】

住吉神社の神主は、津守氏である。津守氏は、天火明命五世の孫・建筒草命を祖とし、摂津住吉神社の神主として歴代奉仕した。系譜的には、尾張の熱田神宮の尾張氏と同族の関係になる。
 日本書紀によれば、田裳見宿禰が神功皇后の軍船を誘導して功があったとされ、その子豊吾田が津守連を賜り、これが津守連の祖であるとされている。平安期になると、歴代の神主国基は箏の上手で歌人としても知られている。かれはまた、藤井神主を称し、高砂御厨の検校も務めた。その子宣基は阿波守・河内守に任じ、鳥羽上皇の北面に仕えた。神主職は弟の広基が務め島崎神主を称した。『平家物語』を見ると、住吉神社神主として、津守長盛の名がみえている。かれはまた、後白河上皇の北面にも仕えていた。
 鎌倉時代初期の神主、経国・国平父子はともに、歌人であり笛の上手として知られた。以後、津守氏は住吉神社の神主を務めながら、歴代の院の北面としても仕えていたことが系図に記されている。すなわち、津守氏は神職としての側面を持ちながら武士としての側面を有していたのである。そして、南北朝期に至ると、南朝方武将の一人として活躍している。津守氏は宗家はもとより、一族からも、歌人や楽器の名手などが多く出いる。
 その後も、津守氏は住吉神社の神主家として連綿と世系を継いで、明治になると男爵を授けられて華族に列した。


【五所御前】

住吉大神顕現の聖所とされている。
第一本宮と若宮八幡宮との間にある、杉樹が石の玉垣の内に立っている場所です。むかし、神功皇后が住吉大神をお祭りするための土地を求められたとき、この杉の木に白サギが3羽きて止まったので、ここへお祭りしたと伝わる聖地です。別名を「高天原 (たかまがはら) 」ともいい、神霊をおむかえするミアレ所でもあります。毎年5月の住吉大社創立記念の祭、卯之葉神事では、卯の葉の玉串がささげられます。



住吉大社

すみよしたいしや 大阪市住吉区住吉町。 旧官幣大社(現、別表神社)。第一本宮に底筒男命、第二本宮に中筒男命、第三本宮に表筒男命、第四本宮に息長足姫命(神功皇后)を祀る。社殿は、第一本宮から第四本宮まであり、弟一本宮を一番奥に、手前に第二、第三と縦に並び、第四本宮は、第三本宮の右横に並んで建っている。四殿ともに、神社建築の最も古い形式の一つ「住吉造」であり、国宝に指定されている。
また四殿とも西(大阪湾の方向)を向いて建っていることも見逃せない。『古事記』(712)に「其の底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命三柱の神は、墨江の三前の大神なりしと見えているが、当社の創祀は古く、神功皇后新羅遠征の帰途に、筒男三神の神誨により、神功皇后が、三神の和魂を大津渟中倉長峡に鎮祭されたに始まる。延暦3年(784)正一位住吉神に勲三等を賜い、次いで従二位、大同元年(806)従一位、後に正一位になった。「延喜式』には「住吉坐神社四座」と記され、名神大社として、祈年・月次・相嘗・新嘗の案上の宮幣及び祈雨、八十島祭に預かった。また二十二社の一つに数えられ、摂津国一の宮として、上下を問はず、篤い尊崇を受けた。特に天皇の行幸も、天武天皇以来数多く、鎌倉時代以降は、将軍をはじめ、武家の崇敬も特に驚かった。建久6年(1195)には、源頼朝、神馬を奉納、楠木正成・足利尊氏・豊臣秀吉等は篤い崇敬者で、文禄3年(1594)、秀吉は社領を定め、秀頼は慶長11年(1606)片桐且元をして社殿を修造させた。江戸時代に入ってからも、徳川将軍以下諸大名の尊崇篤く、参勤交代ごとに必ず当社に参拝する大名が沢山あったという。明治維新の際、社領、社地の多くが上地された。明治4年(1871)7月1日に官幣大社に列格した。昭和36年には第47回の式年遷座祭が行われた。住古の神は、特に海上安全の守護神として、また禊祓の神・歌神・現人神信仰などの神徳で、篤い崇敬を受け今日に至っている。
例祭に、7月31日で、一般に「荒和大祓」とか「おはらい」と言われ、堺宿院の頓宮までの御神幸が行われる。例祭の他に数多くの祭典が行われているが、その中でも、特殊神事として行われるものに、1月4日=踏歌神事、同7日=白馬神事、同13日=御結鎮神事、4月12日=松苗神事、5月初の卯の日=卯之葉神事、6月14日=御田植神事、7月31日の例祭ととも行われる夏越祓神事、10月17日=宝之市神事がある。毎月20日には、海上交通安全祭が行われる。当社には、30社近い摂末社があるが、その中でも、摂社大海神社は、延喜式内社で、本殿は、本社と同じ住吉造、重要文化財に指定されている。住古大社に関する資料としては、『古事記』『日本書紀』のほか、特に『住吉大社神代記』及び『住吉松葉大記』がある。その他、鎌倉時代以降の綸旨・院宣をはじめ、数多くの古文書や宝物がある。

神社辞典



住吉坐神社四座 並名神大月次相嘗新嘗

住吉は郡名に同じ○祭神底筒男命、中筒男命、表筒男命、氣長足姫命、(頭注)○住吉村に在す〇式二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、住吉社四座、(坐摂津國)」同三、(臨時祭)各神祭二百八十五座、摂津國住吉神社四座、」祈雨祭神八十五座、(並大)云々、住吉社四座、○江家次第云、祈年穀奉幣、住吉、(五位)』廿二社注式云、中七社、(幣数四本)○拾芥抄云、三十番神、住吉、(廿三日)○当國一宮也、(一宮記頭注)〇永萬記云、住吉社、〇日本紀神代巻上、一書曰、底笥男命、中筒男命、表筒男命、是即住吉大神矣、』古事記、(神代段)底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也、」旧事紀、(陰陽本紀)此三神者、津守連等齋祠住吉三前神、』釈日本紀曰、先師説云、称四座者、神功皇后座別殿歟、』頭注曰、住吉底筒男、表筒男、中筒男、神功皇后也、皇后11年辛卯、住吉垂迹、云々、」諸神記曰、住吉三神、而摂州曰四座、則配祀神功皇后之霊矣、住吉之名者、神功皇后時、此神託后躰而循行四方、遠到摂州之地、宣言曰、真住吉真住吉之國也、因鎮坐、其地名曰住吉矣、那珂之住吉、豊浦之住吉、由摂州ノ地名而通呼之也、
類社
長門國豊蒲郡佳吉坐荒御魂神社三座、(並名神大)筑前國那珂郡住吉神社三座、(並名神大)壹岐島壹岐郡、対馬島下縣郡佳吉神社、(名神大、名一座、)陸奥國磐城郡、播磨國賀茂郡住吉神社、(各一座)
鎮坐
日本紀神功皇后巻云、三神誨之曰、吾和魂宜居大津淳中倉之長峡、便因看往来船、於是随神教以鎮坐焉、
神位
続日本紀、延暦3年6月辛丑、叙正三位住吉神勲三等、同年12月丙申、叙住吉神從二位、」日本紀略、延暦25年4月丁巳、摂津國住吉大神奉授從一位、以遣唐使祈也、
官幣 神宝
日本紀、天武天皇朱鳥元年7月癸卯、奉幣於住吉大神、」持統天皇6年5月庚寅、遺使渚奉幣于住吉神、同年12月甲申、遣大夫等奉新羅調於住吉、」続日本紀、慶雲元宰7月甲辰、奉幣帛于住吉社、神亀3年7月乙未、遣使奉幣帛於住吉神社、」続日本後紀、承和3年6月癸卯、奉住吉社幣、祈雨也、同5年8月癸丑、降雨殊切、奉幣住吉等名神以祈■焉、同6年4月戊辰、勅頒幣於住吉社、令祈■雨、同年8月己巳、遺神舐少副從五位下大中臣朝臣議守、少祐正七位上大中臣棘守、奉幣帛於摂津国住吉神、並祈船舶帰着、同8年4月己巳、勅、宜奉幣住吉神令祈甘雨兼防風災、同9年3月庚戌、是日、遣使頒幣住吉社、同祈甘雨、文徳實録、嘉祥3年9月乙未、遣神祇少副正七位上大中臣朝臣久世主、向摂津國住吉大神社、奉宝幣、賽宿疇之、」三代実録、貞観元年7月14日丁卯、遺使諸社、奉神賽幣帛、中務少輔從五位下源朝臣包為住吉社使、同年9月8日庚申、摂津國住吉神、遣使奉幣、為風雨祈焉、同3年2月7日辛亥、遣唐使者向摂津國住吉神社奉神宝、同9年11月12日丁未、遣使於住吉奉幣、先月祈五穀、今以賽焉、元慶2年3月9日乙巳、是日、分遣使者奉幣馬於住吉神、賽旧祷也、仁和元年9月22日癸卯、分副遣使者於住吉社奉幣、』百練抄、文暦元年12月28日壬辰、住吉社遷宮神宝使発遣、明後日可有遷宮者、
封戸 神財 社領
三代實録、貞観8年4月11日乙酉、遣使摂津国住吉神社、奉神財、』同13年5月2日丁未、制、筑前国所輸摂津国住吉神封戸調庸綿、便付太宰貢綿使、送彼神社、永以爲例、(三代格にも見ゆ)」元慶3年6月14日癸酉、遣使於摂津國住吉神社、奉神財、』類聚三代格云、元慶3年7月22日、太政官符、応勘造住吉社神財帳三通事、右検案内、彼社神財触類有敷、而前來神主等不勤守掌、雖有遷替終無勘発、前神主津守公□在任之時多失神財、非只親自犯取兼亦為他所盗、仍加勘責解却巳畢、今被右大臣宣称、宜仰國宰國司神主和其勤検子細勘録、毎有遷潜必造三通一通進官、一通付國、一通留社、立爲恒例、不得遺漏、」臨時祭式云、凡住吉社長門國封租穀者、令封戸徭夫運送、云々、但豊浦郡封戸徭夫者、便留充御陰社、○当代社領高二干六拾石、御朱印地、
連胤按るに、御陰社とは、長門國豊浦郡住吉坐荒御魂神社をいふなるべし、
造営 修理
日本紀略、弘仁3年6月辛卯、神祇官言、住吉香取鹿島三神神社、隔二十箇年皆改作、積習為常、其弊不少、今須除正殿外随破修理、永為恒例許之、』臨時祭式云、摂津國住吉、下総國香取、常陸國鹿島等神社正殿、廿年一度改造、
御幸
新古今集、(神祇)天安元年の比、文徳天皇此所に御宰ありしに、宮中大破に及ぶ、御宝殿より明神の御歌「夜や寒き衣やうすき片そぎの行合の間より霜や置らむ」玉葉集、(神祇)亀山院住の江に御幸侍て、人らに歌よませ給けるに、入道前太政大臣、「めづらしき御幸にゆつれ住吉の神のままなる松のちとせを」
氏人
日本紀神功皇后巻曰、於是、從軍神表筒男、中筒男、底筒男、三神誨皇后、曰、時穴門直之祖践立、津守連之祖国裳見宿禰、啓于皇后曰、云々、(全文長門國豊蒲郡住吉荒御魂神社の條見合すべし)』続日本紀、和銅7年正月甲子、授正七位上津守連通從五位下、天平神護元年2月辛巳、授從六位下津守宿禰真前外從五位下、ざて姓氏録、(摂津国神別)津守宿根、尾張宿禰同祖、火明命八世孫大御日足尼之後也、また津守、火明命之後也、
連胤云、当社を津守氏の奉仕は、田裳見宿禰の由縁に拠て也、社職の事の見えたるは、津守國基、康平中補住吉神司、叙從五位下云々、と摂津志に記せり、
社職 把笏
日本紀略、延暦20年2月丙申、始令住吉社神主把笏、
雑事
続日本紀、宝亀元年8月辛卯、使雅樂頭從五位下伊刀王受神教於住吉神、」三代実録、貞観8年2月16日壬戌、勅遣十一僧、向於摂津國住吉神社、転読金剛般若経三千巻、般若心経三萬巻、以奉謝神心消伏兵疫、○盛衰記四十三曰、元暦2年2月16日夜子刻、住吉殿第三神殿ヨリ鏑矢ノ聲出テ、西ヲ指テ出行ヌト、云々、(百練抄亦同)神主長盛、権祝有遠奏状ヲ進ラスル、」百練抄曰、同年同月19日、(中略前に同じ)即付使被献御劔巳下宝物了、諸社又如此、」帝王編年記云、正嘉2年5月4日、住吉社第一神殿鳴動、狛犬形落地、
〇因に云、八十島の祭といふ事あり、こは大嘗曾の次年に、御巫、生島御巫等を遣され、難波湖にて当杜及大依羅神社、大海神社、住道神社、豊島郡垂水神社を祭らせ給ふ也、其式文をもここに挙て知らしむ、【以下略】

神社覈録



住吉大社の由緒

御祭神
第一本宮 底筒男命
第二本宮 中筒男命
第三本宮 表筒男命
住吉大神
第四本宮 息長足姫命(神功皇后)
底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神を総称して住吉大神と申し上げ、伊弊諾尊があはぎ原に祓除せられたとき、海の中より生れた神様です。
鎮座
神功皇后は、新羅御出兵に当って、住吉大神の御加護を得て大いに国威を輝かせられ、御凱旋の後、大神の御神託によって此の地に御鎮祭になりました。 皇后摂政11辛卯年のことで、今から約千八百年前、のことでありました。皇后の御孫、仁徳天皇が浪速に遷都せられて墨江の津を開港せられ、後に大阪、堺の発展をもたらしましたのは、実に此の時に起因しています、
後、皇后をも併せお祀り申上げ、住吉四社大明神と崇められ、延喜の制では名神大社に列せられ、摂津国一の宮として聞え高く、昭和21年まて官幣大社でありまして、全国二千余に及ぶ住吉神社の総本宮です。
御神徳
住吉大神は、禊祓の御神格をもって御出現になりましたので、禊祓の神てあり、住吉祭は「おはらい」と呼ばれる程、神道でもっとも重要な「祓」のことを司る神です。また、住吉大神は、「吾が和魂をば宜しく大津の淳中倉の長峡に居さしむべし、便ち因りて往来ふ船を看護さむ」と神功皇后にお告げになった由が日本書紀、住吉大社神代記に見え、海上安全の守護神であり、奈良時代、遣唐使の発遣には、必ず朝廷より当社に奉幣があり、その海上無事を祈りました。そのほか歌神として、古来歌道の上達に志す人が当社に参籠献詠し、あるいは現実に姿を現わされる現人神としての信仰もあり、産業商業・文化・貿易の祖神と仰がれ住吉大神の広大な御神徳はあまねく世に知られています。

由緒書



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