「多米」の社名は多米連の祖神を祭ることより出た名という。 多米連は、住吉社の神饌に預っていて住吉大社の神事と深い関係を存していた。 もとは住吉区長居町中2丁目45にあったが天正ごろ(1573-92)兵火で焼失住吉大社に合祀される。 |
旧鎭座地 多米神社の跡地として、長居町中二丁目四五に五十坪余の土地があり、石の玉垣に囲まれ、中央奥に「多米社」の石碑が建立されてゐる。台石には菅廣房の銘があり、右側に寺岡村東と刻まれてゐる。玉垣内入口の右側に自然石の碑があり、表面には「延喜式内、多米神社之趾、陸軍大將男爵荒木貞夫書」とあり、裏面には多米社の由緒について平田盛胤の撰文を刻す。即ち、 多米神社は延喜式内の古社たるは申すも更なれど新撰姓氏録に多米連は神魂命の五世の孫天日鷲命の後裔にて多米神社は多米連の創建せられけるにこの地一帯は多米連の領地にして宇迦御魂神を祀りて世々大炊寮に仕へ奉りて供御等を献りたりけるに成務天皇の御世にありていとも良き御供米なるを賞でさせ給ひて多米連の姓を賜ひき。そも多米神社は一名苗見明神、苗見の社あるは種貸明神、種貸宮と称し、又その境域を苗見の森、種貸の森と構へ奉りて古しへより衣食の神とも子宝の神とも崇め奉りて貴き賤しきおしなベて衆庶の尊敬極めて厚かりしに天正慶長の頃兵焚にかかりて社殿神宝など有のことごと鳥有に帰したりしかばやがて官幣大社住吉神社に合祀せられたりしは神祇院明細帳に官幣大社住吉神社境内神社末社苗見社祭神倉稻魂神と見ゆればいと明かなることなるに明暦元年住吉神社の御造営に際りて住吉猪鼻の地に移し奉りて今日に及べりとぞ。是より先元文元年幕府は由緒ある社趾のすさび行くを畏み奉りて幕吏菅廣房を遣して多米社の三字を記せる碑を建設せしめられたりしに今猶存在せり。斯く多米一吐の碑を建てられたる所は多米神社のいとも初めの地になもありける。そも歳月の來経往くままに古しへよりの遺蹟の失はれゆくは世の慣にしあれば我等の遠つ御祖神の遺蹟の失せなむことを憂へしより往末かけて遠長く傳へしめむが爲にとこの碑を建てし故由を一書かくなむ。平田盛胤しるす 昭和十六年辛巳十二月吉日建多米連の氏子 |
多米神社 多米は假字也〇祭神多米連租神歟〇寺岡村西苗見社に在す、多禰加志宮と称す、今廃亡せり、(摂津志)○姓氏録、(摂津国神別)多女連、神魂命五也孫天比和志命之後也、」同、(右京神別上)多女宿禰、神御魂命五世孫天日鷲命之後也、成務天皇御世、仕奉大炊寮御飯香美特賜嘉名、」同、(左京神別中)多米連、多米宿禰同祖、神魂命五世孫天日和志命之後也、成務天皇御世、仕奉炊職賜多米連也、 考証に、姓氏録、(摂津國神別)多米連、神魂命児天石都倭居命之後也、とある方をのみ引用ひて、所祭石都倭居命としたるは杜撰なるべし、其証いまだ考へ得ず、 氏人 続日本紀、延暦七年六月辛丑、外正八位上多米連福雄授外從五位下、以貢献也、 神社覈録 |