佐那神社
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   【延喜式神名帳】佐那神社二座 伊勢国 多気郡鎮座
          (合祀)須麻漏売神社
          (合祀)守山神社
          (合祀)火地神社
          (合祀)穴師神社

   【現社名】佐那神社
   【住所】三重県多気郡多気町大字仁田156
       北緯34度28分52秒,東経136度32分48秒
   【祭神】天手力男命 (配祀)曙立王命
       (合祀)天宇受売命 速玉男命 伊邪那美命 天照大御神 須佐之男命
       天忍穗耳命 天津日子根命 天穗日命 活津日子根命 熊野久須毘命
       田紀理毘売命 多岐都比売命 市寸島比売命 火産靈命 倉稻魂命 大山祇命
       木花咲耶姫命 事解男命 誉田別尊 猿田彦命 菅原道真
       手カ雄神を祭神とするのは、ほぼ一致する、他の1柱は
       『延喜式神名帳僻案集』・『伊勢式社案内記』『伊勢國誌』若沙那売神
       『勢陽里諺』・『神社覈録』若沙那売神
       『神名帳考証再考』『勢陽五鈴遺書』天石窓神
       『勢陽里諺』・『大日本史神祇志』・『日本地理志料』御代宿禰
       『神境紀談』御代宿禰

   【例祭】10月8日 例祭
   【社格】造宮使造替六社の中 県社
   【由緒】創立年代は不詳
       古事記に「手力男神有坐佐那県也」と
       応永9年(1402)8月8日造営
       享保9年(1724)和歌山藩により佐那神社の標石が建
       明治4年(1862)7月村社
       同39年12月25日神饌幣帛料供進社
       明治41年1月8日佐奈村内の諸社を合祀し、同時に旧称の「佐那神社」に社名を戻した。
       昭和18年県社
       平成20年6月6日社務所から出火、150uを全焼。

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「大森社」または「中の宮」と称していた
   【社殿】本殿本殿神明造
       拝殿・神饌所・手水舎・社務所・参籠所

   【境内社】和玉神社

仁田集落の西入口近くにあり、南側を国道42号線が走り、東側は佐奈小学校に接し、北側を旧熊野街道が通過している。境内地は、標高41m前後の丘陵緩斜面に造成されたもので、国道42号線との間に、佐奈川が流れている里中の大社である。
2座は天手力男命・曙立王命と考えるのが妥当であろう。佐那造の一族が、その祖曙立王を奉祀していたものと思われる。
当社の別当寺として、仁田村に小野寺と谷口寺があり、当社の東1.6kmに所在する佐奈山駿寺は、当社の神宮寺と言われている。
明治41年1月8日大字平谷の村社須麻留売神社、大字神坂の村社八柱神社(守山神社に比定)、油夫鎮座の村社八柱神社(火地神社の論社)、神坂鎮座の村社八柱神社(穴師神社の論社)他を合祀。


由緒

当神社には天手力男命を主神として、天宇受賣命など23柱祭神不詳2座をお祀りしています。当社の創立年代は不詳ですが古事記に「次手力男神有坐佐那県也」と記載されており、また、延喜式内社であり、当社のことを中宮と呼び高大な樹木が生い茂っていたことから大森社などとも呼ばれて、千有余年を経過した古社であることも明らかです。また、神宮、特に外宮とは徳川時代初期に至るまで深いかかわりがありました。即ち、神宮の宮造使によって、20年に一度の社殿造り替えに預かった12社中の1社であったこと、斎宮の祈年祭にも預かれる神社であったこと、外宮祢宜の勞社として祝の制を定め、神田を設け、毎年2月神事が行なわれていたこと、などから分かります。
明治41年ここ佐那神社に村内各字の神社を合祀、昭和18年県社に列せられ、戦後宗教法人となっております。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




佐那神社

当社の御祭神は、上古、天照大神、岩屋戸に隠れましし時、其の戸を開いて、大御神の大御光を六合に輝かし奉った天手力男神を主神とし、天宇受売神など、23柱、祭神不詳2座をお祀りしている。
当社の創立年代は不詳であるが、古事記(712)に「次手力男神有坐佐那県也」とあり、延喜式神名帳には「多気郡52座」とあるなど、千有余年移譲を経過している古社であることは明らかである。
当社の創設者について確証はないが、延喜式神名帳にいう「佐那神社二座」のうち、一神は主神の天手力男神、他の一神について諸説はあるが、当社においては、古事記に従い「曙立王神」を氏神さまと奉祀している。当社の創設と深い係わりのある神と考えられる。
当社の別名を「中宮」とか「大森社」などと古くから呼ばれていた。これは延喜式内社多気郡巻頭第二の神社であったことや、佐那谷に比類なき高大な鬱林が覆い茂っていたことなどからである。
当社は、古い文献により、吉野朝以降、室町時代、江戸時代初期に至まで神宮、特に外宮とは深い係わりを次のように保有していた。
・神宮の宮造使によって、20年に一度の社殿造り替えに預かった12社中の一社であったこと。
・斎宮の祈年祭に預かれる神社であったこと。
・外宮禰宜の労社として、祝の制を定め、神田を設け、毎年2月神事が行われていたこと。
明治43年ここ佐那神社に、延喜式内社多気郡巻頭第一の神社「須麻漏売神社」を始め村内の各神社を合祀、昭和18年県社に列せらる。同27年宗教法人佐那神社となった。
同年国事困難に殉じた本村出身212柱の祖霊を祀る境内社「和玉神社」を創設した。
以上のことから、当社の創立年代は極めて古く且つ尊い所以を知ることが出来る。
多気町助役 大西安雄

社頭石碑



佐那神社

当神社は「古事記」にも登場する古社で「中宮」「大森社」と呼ばれていました。位置的には当社の横を熊野街道(国道四十二号線)が通り、「大森社」と呼ばれたように高大な樹木が三千坪の境内には二百年ともなろう杉や檜が生い茂り、氏子は下より県内外から参拝者も多く参詣されております。また、本殿隣には郷土出身の西南の役以来の英霊を百世に弔う記念碑を建てお祀りしています。お祭は例祭、歳旦祭や佐奈まつり等には430余りの提灯を燈し賑わいをみせています。
由 緒
当神社には天手力男命を主神として天宇受売命など23柱、祭神不詳二座を祀り申し上げております。当社の創立年代は不詳ですが古事記に「次手力男神有坐佐那懸也」と記載されており、また延喜式内社多気郡卷頭第二の神社(延喜式神明帳卷九)であり当社の事を中宮と呼び高大な樹木が生い繁っていたことから大森社(古事記伝第十五巻・大日本史神祇史)などとも呼ばれて千有余年を経過した古社であることが明らかであります。また神宮特に外宮と徳川時代初期に至るまでは、深い係わりを保有しておりました。即ち、神宮の宮造使によって20年に一度の社殿造り替えに預かった12社中の一社(延喜式巻四・外宮頭工請屋次第同第二・外宮御竃木帳)であったこと。斎宮に祈念祭にも預れる神社であったこと(斉宮式)外宮禰宜の労社として祝の制を定め神田を設け毎年2月神事が行われていたこと(外宮殿舎寸法頭工引付)などからわかります。明治41年ここ佐那神社に村内各字の神社を合祀、昭和18年県社に列せられ戦後宗教法人佐那神社となつております。以上のことから当社の由来はきわめて古く且つ御神徳尊いことを知ることができます。

三重県神社庁



佐那神社 二座

佐那は假字也〇祭神手力雄命、若佐那女命、○佐那仁田村に在す、(考証)〇式四、(伊勢大神宮)凡大神宮年限満応修造者、遣使、孟冬始作之、神宮七院、社十二処、佐那社、云々、〇古事記、(神代段)次手力男神者、坐佐那縣也、」、同(開化段)曙立王者、伊勢之佐那懸之祖、」倭姫世記云、佐奈縣造祖彌志呂宿禰命、(儀式、御代宿禰に作る)、
連胤、按るに、儀式解頭書に、里老は手力男命、若佐那女命を祭る同社の傍に小社あり、これ御代宿禰を祭る也」、といへりと云り、」勢陽俚諺は、彌志呂宿禰命、若佐那女命也、此社に手力雄命を祭ると云は非也、手力雄(式外)栃原村にあり、といへど、今は里老の説に從ふ、

神社覈録



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