平谷の須麻留売神社は、明治41年1月8日許可を得て、多気町大字仁田156番地(佐奈村大字仁田字神田156番地)鎮座の佐那神社に合祀されている。旧社地は、JR紀勢本線の佐那駅から約500m北東の花隆山の中腹、蜜柑畠の中にある。小祠の背後に「式内須麻留売神社」の石標が建てられている。 |
佐那神社 当神社は「古事記」にも登場する古社で「中宮」「大森社」と呼ばれていました。位置的には当社の横を熊野街道(国道四十二号線)が通り、「大森社」と呼ばれたように高大な樹木が三千坪の境内には二百年ともなろう杉や檜が生い茂り、氏子は下より県内外から参拝者も多く参詣されております。また、本殿隣には郷土出身の西南の役以来の英霊を百世に弔う記念碑を建てお祀りしています。お祭は例祭、歳旦祭や佐奈まつり等には四百三十余りの提灯を燈し賑わいをみせています。 由 緒 当神社には天手力男命を主神として天宇受売命など23柱、祭神不詳二座を祀り申し上げております。当社の創立年代は不詳ですが古事記に「次手力男神有坐佐那懸也」と記載されており、また延喜式内社多気郡卷頭第二の神社(延喜式神明帳卷九)であり当社の事を中宮と呼び高大な樹木が生い繁っていたことから大森社(古事記伝第十五巻・大日本史神祇史)などとも呼ばれて千有余年を経過した古社であることが明らかであります。また神宮特に外宮と徳川時代初期に至るまでは、深い係わりを保有しておりました。即ち、神宮の宮造使によって20年に一度の社殿造り替えに預かった12社中の一社(延喜式巻四・外宮頭工請屋次第同第二・外宮御竃木帳)であったこと。斎宮に祈年祭にも預れる神社であったこと(斉宮式)外宮禰宜の労社として祝の制を定め神田を設け毎年2月神事が行われていたこと(外宮殿舎寸法頭工引付)などからわかります。明治41年ここ佐那神社に村内各字の神社を合祀、昭和18年県社に列せられ戦後宗教法人佐那神社となつております。以上のことから当社の由来はきわめて古く且つ御神徳尊いことを知ることができます。 三重県神社庁 |