大神神社
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   【延喜式神名帳】大神大物主神社(名神大 月次/相嘗/新嘗)大和国 城上郡鎮座
          (摂社)神坐日向神社
          (摂社)狹井坐大神荒魂神社

   【現社名】大神神社
   【住所】奈良県桜井市三輪1422
       北緯34度31分44秒,東経135度51分10秒
   【祭神】大物主大神 (配祀)大己貴神 少彦名神
   【例祭】4月9日 例祭
   【社格】旧官幣大社・大和国一ノ宮
       二十二社の一つ(中七社の一位)

   【由緒】崇神天皇朝大田田根子命を神主として祀る
       天平2年(730)大神神戸『正倉院文書』
       天平神護元年(765)一六○戸の神封『新抄格勅符抄』
       貞観元年(859)2月正一位
       寛平9年(897)勅して大神・狭井の両社を祀る
       昌泰元年(898)3月勅して夏冬の祭を行わせられる
       長保2年(1000)7月13日大神社宝殿鳴動
       明治4年(1871)官幣大社

   【関係氏族】大神氏
   【鎮座地】この地が当初鎮座の地であり。連綿として祭祀継承

   【祭祀対象】三輪山
   【祭祀】創建時より連綿として継承されている
   【公式HP】 大神神社
   【社殿】古来神殿なく、三輪山をもつて神体山とする
       拝殿・神饌所・神樂殿・神符授與所・神庫・勅使殿・勤番所・手水舎
       宝物収藏庫・新社務所・貴賓館・大礼記念館

   【境内社】摂末社は40を数える
   【境内図】 境内図

国家管理時代には「出雲国造神賀詞」に從つて倭大物主櫛甕玉命一座とされた。
当社拝殿前を通り、三諸山(三輪山とも。標高467m)の西麓を北進し、天理市方面に至る道が、上道で、大和でも最も古い道とせられ、いわゆる「山の辺の道」である。拝殿東方背後のうつくしい山が三輪山である。
古事記によれば、大國主神が、海を光して寄り来つた神を、自ら倭の青垣東の山上に祭られた。これが御諸山の上に坐す神であるといい、また日本書紀によれば、大己貴神が天下を理むベき協カ者なきを嘆いたとき、海原を照して浮び来る者あり、それが自らの幸魂・奇魂たることを知り、これを大和の三諸山に鎮められた。これ大三輪之神で、その裔が甘茂君・大三輪君らであるという。さらに出雲国造神賀詞(延喜式)によれば、大穴持命が自らの和魂を八咫鏡にとりつけて倭大物主櫛甕玉命とたたへて、大御和の神奈備に鎮められたという。 三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、我が国最古の神社である。
三輪山は三輪の神奈備と呼ばれ円錐形の秀麗な山容、山中には大岩が露出して、頂上の奥津磐座、中腹の中津磐座、山麓の辺津磐座があり、それぞれ大物主命、大己貴神、小彦名神が鎮まるとされる。磐座は神が降臨する神聖な所とされる古代祭事遺跡。三輪山そのものを御神体として古くから信仰されている。
古来神殿なく、三輪山をもつて神体山とする。
当社の拝殿周辺から背後山内の禁足地は古代の祭祀遺跡でもあり、今日まで玉類・土器など多くの祭祀遣品が採取されている。 神宮寺として大御輪寺・平等寺があった。
当社の祠官には、大物主神の裔大三輪氏(大神氏)ののちという高宮氏が永く神主として奉仕した。


由緒

当神社の神体山三輪山に鎮り坐す御祭神大物主大神は、世に大国主神(大黒様)の御名で広く知られている国土開拓の神様でありまして、詳しくは倭大物主櫛甕魂命と申し上げます。古典の伝えによりますと、神代の昔少彦名命と協力してこの国土を拓き、農、工、商、すべての産業開発、方除、治病、禁厭(まじない)、造酒、製薬、交通、航海、縁結び等世の中の幸福を増進することを計られました人間生活の守護神であらせられます。
後にこの神様は、御自らの御思召しによりまして、その御魂(幸魂、奇魂)をこの三輪山(三諸の神奈備)に永くお留めになり、それ以来、今日まで三輪山全体を神体山として奉斎しております。それ故に、神殿を持たない、上代の信仰の形をそのままに今に伝えている我国最古の神社であります。
この三輪の地は古く大和の文化の発祥の地で政治、経済、文化の中心地でもありました。三輪山麓を東西に流れる初瀬川の水路の終点に、日本最古の市場であります海石榴市が八十のちまたとして開け、又、南北に走る日本最古の産業道路である山の辺の道と共にこの三輪の地は交通の要所ともなったのであります。
第十代崇神天皇の御代には文化も全盛を極め、更に中古からは大和国の一の宮となり、二十二社の一つとして上下民衆の厚い信仰を集めてまいりました。又中世に於ては「三輪流神道」と申します特殊な宗教哲学が生まれ、上古以来の信仰に一つの組織と哲学とを添えることになりました。
この三輪山は昔から倭青垣山、また三諸山、神岳(かみやま)、神山(みわやま)、などと申しまして、円錐型の周囲十六粁(四里)、面積350ヘクタール(約百万坪)の秀麗な山であります。古くから万葉集をはじめ色々な歌集に詠われ、山そのものが神殿であり、神霊がお鎮まりになるという所謂御神体山として崇ばれて参りました。又、古来、このお山の中心をなすものは古杉でありまして、「みわの神杉」と申し大変有名であります。『枕草子』の中で清少納言が「やしろはすぎの御社、しるしあらむとをかし」と云っておる程ですから、当時は「すぎの御社」と申してこのお山の杉がいかに有名であったかがうかがわれます。
三輪山をしかもかくすか雲だにも心あらなむかくさふべしや(万葉集)
いまつくる三輪のはふりの杉社すぎにしことはとはずともよし(金槐集)
杉か枝をかすみこむれどみわの山神のしるしはかくれざりけり(千載集)
味酒を三輪の祝がいはふ杉手触りし罪か君に遇ひがたき(万葉集)
当神社は古来本殿をもちませんので、自然この拝殿が特に重要視されてまいりました。只今の拝殿は寛文四年に徳川四代将軍家綱公が再建したものでありまして、その技術の優秀なるため重要文化財に指定されております。この大きさは桁行21m(七十尺)、梁行7m(二十四尺)で正面に5.5m(三間)一面の唐破風造の大向拝がついております。拝殿の内部正面の両側に神饌物を献る御棚が設けられて、うす暗い中に黒い深い光をはなっております。
この拝殿の左右に渡廊下で通じている二つの御殿があります。向って右手の御殿を勅使殿と申し、その昔宮中から勅使がみえた場合、この御殿で休憩いたしたものであります。又向って左側の御殿は、勤番所と申し、ここで参拝の信者の方々から申出られる御祈祷、御神饌などの受付を致すのでありまして、畳に坐って机をへだてて神職と腹蔵のない信仰の話が出来る様な古い設備が残っているのも、この神社の特色の一つであります。勅使殿、勤番所共に建立年代は不詳であります。
勤番所の東、拝殿の北側にあるのが、神饌所であります。神前におそなえする神饌一切の調理を行う処でありまして明治十一年の造営であります。
さて拝殿の東、拝殿と禁足地(神体山のうち特に神聖な場所)とを区切る地点、即ち拝殿の奥正面に建っているのが三ツ鳥居であります。この鳥居は三輪鳥居とも呼ばれ古来当社の特色の一つとされ、又一社の神秘とまで称せられた程神聖視されて来たものでありまして、三箇の明神型鳥居を一体に組合わせた形式であります。恐らくは中古以来出来上った形式であろうと云われておりますが、現在の鳥居は正面高さ三・六米(一丈二尺)、左右高さ二・六米(八尺七寸)で、昭和三十三年十一月に改修されており、昭和二十八年に重要文化財に指定されました。この三ツ鳥居の左右に連る瑞垣をすかして木下やみの禁足地の右手にわずかにうかがわれるのは、校倉造りに準ずる特殊な様式の神庫であります。創建年月は不詳でありますが当社の神宝類を納めた重要な建物であります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




大神神社境内 史跡

三輪1422(大神神社)  昭和60年3月18日指定
大神神社は、倭大物主櫛長玉命を祭神とし、大巳貴神・少彦名神を配祀しており、三輪山全体を神体山として古代信仰をそのまま今日まで伝えており、古代祭祀信仰の形態を知る上で重要な史跡である。神社は拝殿のみがあって本殿はなく、三輪山の山中には三カ所の磐座がある。中でも辺津磐座がその中心で、三ツ鳥居からこの辺津磐座までが古来から禁足地とされ、三輪山祭祀の中心場所である。この禁足地からは須恵器や子持勾玉のほか、おびただしい量の臼玉が出土している。また大正7年(1918)に発見された山ノ神遺跡は祭祀用の土製模造品のほか、無数の石製品・須恵器・勾玉・臼玉・管玉・小形銅鏡などが出土している。これらの遺跡は弥生時代に始まり、奈良時代に至る三輪山麓における古代祭祀の実態を示す貴重な遺跡とされている。
 また神域内は、三輪山を中心に、天然記念物として価値のあるものや、重要文化財としての拝殿はじめ、名勝・遺跡・建造物を含む神社境内地としての史跡である。
(桜井の文化財 桜井市教育委員会、掘井)
 三輪山をご神体とするため、本殿がない。
ご祭神は国造りをした大物主大神(おおものぬしのおおかみ)・大己貴神(おおなむちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀る 日本最古の神社と言われ、ここで元旦に開かれる繞道祭(にょうどうさい)は、「大和の正月は繞道祭で明ける」と言われるほど有名。  毎月1日には参道に市が立ち、多くの参拝客で賑わい、参道は杉の大木に包まれ玉砂利を踏んで参拝する人が早朝から絶えません。
所在地:桜井市三輪1422 tel.0744-42-6633
交通:JR三輪駅下車徒歩7分
三輪の由来:三輪の環緒(おだまき)塚
イクタマヨリ姫は、たいそう美しい乙女だった。
ある夜、姫のもとにこの世のものとも思われぬ堂々として立派な男があらわれ、ふたりはたちまち恋におちて結ばれ、姫は身ごもった。 このことを知らぬ姫の両親は不思議なことに思い、姫に尋ねたところ、「みめ美しい男が毎夜のように通ってくるが、誰とも判らず契りあっているうちにこうなりました」と答えた。両親はその男を知りたいと思い、「床のまわりに赤土を撒き、巻いた麻糸(おだまき)の糸先に針をつけ男の着物の裾にさしておくよう」姫に教えた。
姫は言いつけどおりにして、翌朝になってみると糸は、入口の戸の鈎穴から外に出ており、辿って行くと美和山の社まで来ていたので、男が神の御子であることが判った。麻糸の残りが家の中に三勾(みわ)あったのでここを三輪と呼んだ。

桜井市HP



由  緒

当神社の神体山三輪山に鎮まり坐す御祭神大物主大神は、世に大国主神(大国様)の御名で広く知られている国土開拓の神様であり、詳しくは倭大物主櫛みか魂命(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)と申し上げます。古典の伝えによれば、神よの昔少彦名命(すくなひこなのみこと)と協力してこの国土いを拓き、農、工、商業、すべての産業開発、方除(ほうよけ)、治病、禁厭(まじない)、造酒、製薬、交通、航海、縁結び等、世の中の幸福を増進することを計られた人間生活の守護神であらせられます。
 後にこの神様の思召しにより、その御魂(幸魂・奇魂:さきみたま・くしみたま)を三輪山(三諸の神奈備:みむろのかんなび)に永くお留めになり、それ依頼、今日まで三輪山全体を神体山として奉斎して来ました。それ故に、本殿を持たない、上代の信仰のかたちをそのままに今に伝えているわが国最古の神社であります。
 この三輪の地は古く倭の文化発祥の地で、政治・経済・分かの中心地でもありました。三輪山麓を東西に流れる初瀬川の水路の終点に、日本最古の市場であります海石榴市(つばいち)が八十のちまたとして拓け、又、南北に走る日本最古の産業道路である山の辺の道と共にこの三輪の地は交通の要所ともなったのであります。
 第十代崇神天皇の御代には、文化も前世を極め、更に中古からは大和国の一の宮となり、二十二社の一つとして民衆の厚い信仰を集めてきました。又中世においては『三輪流神道』という特殊な宗教哲学が生まれ、上古依頼の信仰に一つの組織と哲学とを添えることになりました。
三輪山
 三輪山は昔から倭青垣山、また三諸山(みもろやま),神岳(かみやま)、神山(みわやま)、などと称され、高さ467メートル、周囲16キロ、面積350ヘクタール(役百万坪)の秀麗な山であります。古くからまっ名州をはじめもろ諸々の歌集に詠われ、山そのものに神霊が御鎮まりになるという所謂、神体山として崇(とうと)ばれてきました。また古来よりこのお山の中心をなすものは古杉であり、『みわの神杉』と称えられ大変有名であります。『枕草子』の中に『やしろはすぎの御社(みやしろ)、しるしあらむとをかし』と記され、当時は『すぎの御社』と言われて、お山の杉がいかに有名であったかがうかがわれます。
社  殿
 当神社は古来本殿を設けず、拝殿が徳に重要視されてきました。現在の拝殿は寛文四年(1664)、徳川四代将軍家綱公が再建したもので、その技術の優秀なため重要文化財に指定されています。西向きに建ち、桁行21メートル、梁行7メートルで、正面に5.5メートル一面の唐破風造(からはふづくり)の大向拝(だいこうはい)がついています。拝殿の内部正面の両側には神饌物を献る御棚(みたな)が設けられています。
 この拝殿の左右に渡り廊下を通じて二つの建物があります。向かって右手の御殿を勅使殿(ちょくしでん)といい、その昔宮中から勅使がみえた場合、この御殿で休憩したのものあります。又向かって左側の御殿は、勤番所といい、参拝者の方々から申し出られる御祈祷、御神饌(ごぜん)などの受け付けを致します。勅使殿、勤番所共に県の文化財となっています。
 勤番所の東、拝殿の北側にあるのが神饌所で、神前におそなえする神饌一切の調理を行う所であります。
三輪鳥居(三ツ鳥居)
 拝殿と禁足地(神体山のうち特に神聖な場所)とを区切るところ、即ち拝殿の奥正面に建っているのが『三ツ鳥居』であります。古来より、この明神型の鳥居三つを一つに組み合わせた鳥居を通して、お山を拝んできました。
 この鳥居は、『三輪鳥居』ともよばれ当社の特色の一つとされ、いつ頃どのようにしてこの形式が出来たのかは不詳でありますが、社蔵文書には『古来、一社の神秘なり』と記録されており、本殿にかわるものとして、特に神聖視されて来たものであります。
 現在の鳥居は正面高さ3.6メートル、左右高さ2.6メートルで、昭和33年11月に改修されたものです。この三ツ鳥居の左右には長さ十六間の瑞垣(みずがき)が設けられ、すぐれた木彫りの欄間がはめ込まれており、三輪鳥居、瑞垣ともに昭和28年、重要文化財に指定されています。

『三輪明神縁起』 大神神社発行



主な末社

桧原神社 境内摂社。祭神天照若御魂神・伊弉諾尊・伊弊冉尊。鎭座の由來は詳らかでないが、崇神天皇の時、天照大神を祭られた笠縫邑はここであるとする説が有力である。

高宮神社 境内摂社。一に上宮・神上宮とも記し、大神神社本社と同神を祭る。鎭座の年代などは詳らかでないが、明治十年摂社に指定せられた。例祭四月九日。社地は三輪山の絶頂に位し、神殿はそこの池中にある。



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