大神神社
おおみわじんじゃ


戻るボタン





【神宮寺】

持統天皇朝に活躍した氏人、中納言大神高市麻呂は、その宅を捨てて当社の神宮寺たる大神寺としたが(『今昔物語』)、のちこの寺の衰えたのを西大寺の叡尊(興正菩薩)が再興し、大御輪寺(眞言律宗、西大寺末)とした。
三輪山南麓にもう一つの神宮寺平等寺(西大寺末)があつた。これは慶円上人(貞応2年(1223寂、84歳)が、三輪別所として設けたものが発展したものであり、大宮の別当として、江戸時代朱印領八○石を有した。


【文化財】

大神神社拝殿 重要文化財(建造物) 桁行九間、梁間四間、一重、切妻造、向拝部 桁行一間、梁間三間、入母屋造、妻入、正面軒唐破風付、檜皮葺 寛文4(1664)
大神神社三ツ鳥居 重要文化財(建造物) 木造三輪鳥居 明治16(1883)
大神神社摂社大直禰子神社社殿 重要文化財(建造物) 桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺 奈良(内陣)、鎌倉前期(外陣)
朱漆金銅装楯 重要文化財(美術品) 各々に「大神八所大明神 嘉元参年〈乙/巳〉卯月一日□」の朱漆銘がある 嘉元3(1303)
紙本墨書周書 巻第十九 重要文化財(美術品) 唐
大神神社境内 史跡


【磐座】

三輪山は、全山樹木に覆われ、その中に神が降臨・鎮座する依代である磐座が点在する。
拝殿直後から頂上まで一直線上に3箇の起伏があって、その各頂上に露出した自然石にたいして、上から奥津・中津 ・辺津と呼び習わしている。
大三輪神鎮座次第(鎌倉中期)は
 ・奥津磐座−−大物主神−−神代期
 ・中津磐座−−大己貴命−−孝昭天皇(第5代)の御世、大己貴命の和魂とされる大物主神とは別に、その本体である大己貴命を中津磐座に奉齊
 ・辺津磐座−−少彦名命−−清寧天皇(第22代)の御世、神託により少彦名命を辺津磐座に奉齊
という


【由緒】

当社の創祀(そうし)に関わる伝承が『古事記』や『日本書紀』の神話に記されています。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀まつられることを望んだとあります。
また、『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとあります。そして『古事記』同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御魂(みたま)として顕現(けんげん)され、三輪山に鎮(しずま)られたということです。
この様に記紀(きき)の神話に創祀(そうし)の伝承が明瞭に記されていることは貴重なことで、当社が神代に始まった古社中の古社と認識されており、ご祭神(さいじん)の神格が如何に高かったかを物語っていると言えます。
そして、ご祭神(さいじん)がお山に鎮(しずま)るために、当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原初(げんしょ)の神祀りの様を今に伝えており、その祭祀(さいし)の姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。
「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神(すじん)天皇の時代には国造り神、国家の守護神として篤(あつ)く祀(まつ)られました。平安時代に至っても大神祭(おおみわのまつり)、鎮花祭(はなしずめのまつり)、三枝祭(さいくさのまつり)が朝廷のお祭りとして絶えることなく斎行され、神階は貞観(じょうがん) 元年(859)に最高位の正一位(しょういちい)となりました。延喜式(えんぎしき)の社格は官幣大社かんぺいたいしゃで、のちに大和国一之宮(やまとのくにいちのみや)となり、二十二社の一社にも列なるなど最高の待遇に預かりました。
中世には神宮寺(じんぐうじ)であった大御輪寺(だいごりんじ)や平等寺を中心に三輪流神道が広まり、広く全国に普及し人々に強い影響を及ぼしました。近世に入ると幕府により社領が安堵(あんど)されて三輪山は格別の保護を受け、明治時代にはその由緒によって官幣大社(かんぺいたいしゃ)となりました。現在も国造りの神様、生活全般の守護神として全国からの参拝があり、信仰厚い人々に支えられて社頭は賑わっています。

公式HP



【由緒】

大神神社 おおみわじんじや 奈良県桜井市三輪町字三諸山。旧官幣大社(現、別表神社)。古くは大神大物主神社、通称三輪明神という。 当社は神体山三輪山、神奈備のみもろ山そのものを信仰してきたものであり、従って社殿がなく拝殿・神門だけがあり神社の原初的型態であるとも考えられる。禁足地である山中には巨石群、磐座等祭祀遺跡が散在するという。また、ミワ神婚伝承として大神が美女に通ったとする神話もよく知られている。崇神紀7年に、伊香色雄に命じて、大田々恨子を大物主の大神を祀る主とし、翌8年高橋邑人活日を大神の掌酒となし、冬12月乙卯の日をもって太田々根子に大神を祀らせ、天皇も行幸した記事がある。貞観元年(859)9月奉幣して風雨を祈り、同9年2月、先月の五穀を祈った賽として奉幣のことがみえる。宮中で行われる灌仏の儀を停止して大神祭神事を行ったという貞観18年(867)元慶4年(880)の記事からも、その尊崇ぶりはうかがえよう。嘉祥3年(850)正三位に叙せられたのを初めとして、仁寿2年(851)従三位、貞観元年(859)従一位勲二等、同年2月正一位に昇階した。大神氏の同族は各地に存在して活躍したことは国史によって知ることができるが、天平神護元年(765)9月8日符に、神封一六〇戸のうち大和三五・摂津二五・遠江一〇・美濃五〇・長門三〇と、諸国に神封を得ていることからも、各地にミワ神社の祀られている理由がうかがえよう。寛平9年(897)勅して大神・狭井の両社を祀ることがみえ、この大神祭は西宮記・北山抄等に詳しい。昌泰元年(898)3月勅して夏冬の祭を行わせられ、内蔵寮馬寮官人をして幣帛、走馬一二疋を奉じられ、延喜の制名神大社、祈年・月次・相嘗・新嘗・祈雨の祭に幣に預かる。中世には、大和国一の宮として、また二二社の一に数えられ朝野の尊崇をうけた。長保2年(1000)7月13日大神社宝殿鳴動により、二一社に奉幣の行われたことを知る。神宮寺大御輪寺は既に奈良朝より知られるが、僧慶門を初めとして鎌倉中期から両部神道が形成され、若宮の別当平等寺とともに、いわゆる三輪流神道の流布に努め、古来の自然崇拝的要索に、組織と神学を付与した。
摂末社は四〇を数えるが、とりわけ、『延喜式』の神坐日向神社は若宮として、大田田根子命を祀る大直根子神社となり、「延喜内蔵式」には大神祭に緋帛二丈を日向王子の幣料として規定されている。摂社狭井座大神荒魂神社・綱越神社は『延喜式』以来の名社である。現在、医薬・酒業・厄除方除の神として信仰を集めている。拝殿、三つ烏居・(三輪鳥居)大直禰子神社社殿・紙本墨書周書・朱漆金銅装楯が重文、摂社率川神社本殿聖観音毛彫御正体、高杯を県指定の文化財とされている。主な祭典には正月元旦=饒道祭(御神火まつり)、、正月15日=古神符焼上祭(大とんど)、2月6日=御田植祭(おんださい)、4月9日=大神若宮神幸祭、4月8日=鎮花祭(くすりまつり)、6月17日=三枝祭(ゆりまつり)。7月30、31日=綱越神社おんばら祭

神社辞典



大神大物主神社 名神大月次相嘗新嘗

大神は於保美和と訓べし、和名鈔、(郷名部)大神、(於保無知)大物主に於保毛乃奴志と訓べし、〇祭神大物主神、(大已貴命の別名、即ち和魂也、)〇三輪村三輪山の麓に在す、(大和志、同名所図会)、○式二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、大神社一座」同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、大和國大神神社一座、』祈雨祭神八十五座(並大)云々、大神社一座、○江家次第、(祈年穀奉幣)大神、(五位)廿二社注式云、(中七社)大神(使五位一人、幣一前、)○当國一宮也、(一宮記)○日本紀神代巻上、一書曰、大国主神、亦名大物主神、亦號國作大己貴命、亦曰葦原醜男、亦曰八千戈神、亦曰大國玉神、亦曰顯國玉神云々、』同紀、崇神天皇7年2月丁丑朔辛卯、詔曰、時神明憑倭迩々日百襲姫命曰、天皇問曰、答曰、我是倭國域内所居神、名為大物主神、時得神語随教祭祀、同8年12月丙申朔乙卯、天皇以大田田根子令祭大神、○姓氏録、(大和国神別)大神朝臣、素佐能雄命六世孫大國主命之後也、初大国主神、娶三島溝咋耳之女玉櫛姫、夜未曙去、不曾昼到、於是玉櫛姫、績苧係衣、至明随苧尋■、経於茅淳縣陶邑、直指大和國真穂御諸山、還覗苧遣、唯有三繁、因之號姓大三榮、
類社
伊勢國飯高郡、同國朝明郡、下野國都賀郡、越後国頚城郡、因幡國巨濃郡大神社、(各一座)尾張国中島郡大神神社、(名神大)同國同郡、遠江國濱名郡、美濃國多芸郡大神神社、(各一座)備前國上道郡大神神社四座、阿波國名方郡大御和神社、駿河国益頭郡、備中國下道郡大神神社、(各一座)信濃國水内郡、上野國山田郡、備前國邑久郡美和神社、(各一座)下野國那須郡三和神社、若狭国遠敷郡彌和神社、加賀国加賀郡三輪神社、
鎮座
日本紀神代巻上、一書去、于時神光照海、忽然有浮來者、曰如吾不在者汝何能平此國乎、由吾在故、汝得建其大造之績矣、是時大己貴神問曰、然則汝是誰邪、対曰、吾是汝之幸魂奇魂也、大己貴神曰、唯然、廼知汝是吾幸魂奇魂、今欲何処住耶、対曰、吾欲住於日本國之三諸山、故即営宮彼処使就而居、此大三輪之神也、○式八、(祝詞)出雲国造神賀詞、大穴持命乃申玉久、皇御孫命乃静坐牟大倭国申天、己命和魂乎、八咫鏡爾取託天、倭大物主櫛瓶玉命登名乎称天、大御和乃神奈備爾坐云々、
古事記此條を考ふるに、是時有光海依來之神、とありて幸魂奇魂をいはず、青垣東山上、また御諸山上神とあるは、日向神社によく当れり、一説の遺れるなるべし、
神位
文徳実録、嘉祥3年10月辛亥、授大神大物主神正三位、仁寿2年12月乙亥、加大和国大神大物主神從二位、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和国從二位鋤二等大神大物生神從一位、同年2月丁亥朔、大和国從一位勲二等大神大物主神、奉授正一位、
官幣 神寳
続日本紀、天平9年4月乙巳、遣使於大神社、奉幣以告新羅無禮之状、三代実録、貞観元年7月14日丁卯、遣使諸社、奉神宝幣帛、從五位下守兵庫頭藤原朝臣四時爲大神社使、同年9月8日庚申、大神神、遺使奉幣、為風雨祈焉、
祭祀
神祇令曰、季春鎮花祭、義解云、謂大神狭井二祭也、在春華飛散之時、疫神分散而行疫、為共鎮過、必有此祭、故曰鎮華、」集解云、釈云、大神狭井二処祭、大神者祝部請受神祇官幣帛祭之、」式一(四時祭上)三月祭、鎮花祭二座、太神社一座云々、狭井社一座云々、四月祭、三枝祭三座云々、右三社幣物、依前件付祝等令供祭、』同十五、(内蔵寮)大神祭、夏祭料、緋帛二丈五尺、安芸木綿大三斤、(巳上大神幣料、盛筥一合)帛三丈、黄布三丈、紅花大四斤、(染貨布料)紫紗九丈、繰帛四丈五尺、(巳上大神御装束料、盛筥一合)忍冬花鬢(盛裘ヲ一合)料、線糸小四両、安芸木綿大一斤、布綱料、曝布一丈二尺、(巳上大神料)緋帛二丈(日向王子幣料、盛筥一合)緋帛一丈五尺、(玉列王子幣料盛筥一合)
神戸
東大寺所蔵文書(欠文)
社職
日本紀、崇神天皇7年2月丁丑朔辛卯、詔曰、以大田田根子、爲祭大物主大神之主、続日本紀、天平19年4月丁卯、大神神主從六位上大神朝臣伊可保、授從五位下、

神社覈録






戻るボタン


大和国INDEXへ        TOPページへ


学校一覧 学校一覧 高精度の学校住所録