創建年代は応仁の乱の兵火にて、文書燒失のため不詳とされている。 13世紀頃、社名を乙訓坐火雷~社と変更、更に16世紀に菱妻~社と変更したとされる。 菱妻神社の氏子総代を務める植松迪夫氏の著作『鎮守の森と築山村の面影』によると、神輿の鳥居の扁額に「乙訓坐火雷神社 正一位菱妻大明神」とあり、また、鏡の裏面にも「文化八年三月 乙訓坐火雷神社 正一位菱妻大明神」と記されている。さらに、片岡神主家は奉行所に訴え、吉田家と向日神社と井内村の角宮神社との書簡応答が残されていると記されている。 菱妻神社を乙訓坐火雷~社に比定する動きがあったものと見られる。 延喜式内社走田~社、簀原~社、茨田~社を菱妻神社に「合祀されている」あるいは「境内末社」とする説があるが、植松迪夫氏によるとそれぞれの旧跡地で現在も一定の祭祀が継承されている。 |
菱妻神社 天津彦火瓊瓊杵尊をご祭神とする当社は9世紀中頃には存立し延喜式神名帳に記載の簀原大明神が前身とされている。しかし詳細は明らかでない。 古文書によれば12世紀はじめ簀原の地に建立された火止津目大明神が桂川の大洪水で流失し下流の久我の地に再建された。当社は流失の跡地に簀原大明神を奉じて鎮座したものと思われる。13世紀頃社名を乙訓坐火雷神社に、16世紀頃菱妻神社に変更したとされる。 五穀豊穣・家内安全にご神徳が厚い。 境内に相殿で磐裂(石神)加茂 春日 蛭児 松尾 稲荷の各末社が、境外に祠はないが走田 簀原 茨田の各末社がある。 御旅所に神輿のほか天狗面 木槍を所持する。 例祭は現在5月第一日曜 神幸祭第二日曜還幸祭のほか 一月歳旦祭 二月年当 八月御千度を行なう 社頭掲示板 |