式内社調査報告には大略以下のように記載されている。 『神社覈録』には「築山村田圃の中に、今簀原という小墳あり」とある。現在スハラという地名、旧築山村になく、『神社覈録』にいう小墳と思われるものは京都市南区久世築山町(旧京都府乙訓郡久世村大字築山小字出雲路)に現存し、今日ではそこを出雲路森と称す。田圃の中に樫の木と椿の木とがそれぞれ一本生え、小さい土盛りが残つている。二月の巳の日に祭礼が行われている。 この記載は「茨田神社」についての記述と思われる。 菱妻神社の氏子総代を務める植松迪夫氏の著作『鎮守の森と築山村の面影』によると、明治13年「乙訓郡社地調べ」に築山村大木ノ本に簀原神社反別拾八歩とある。 また明治初期の「地籍図」にも神社地が官地と明記されておりこの地で祭祀が継承されてきたものと思われる。 現在は祠も無く杉の古木があるだけである。 2月の年当(ねんど)(1年の始まりに御神饌を供える行事)にあたり菱妻神社の神事の後、上座・下座の司役の御膳供えと神主の祝詞を奏上される場所である。 延喜式内社走田~社、簀原~社、茨田~社を菱妻神社に「合祀されている」あるいは「境内末社」とする説があるが、菱妻神社の氏子総代を務める植松迪夫氏によるとそれぞれの旧跡地で現在も一定の祭祀が継承されている。 |
簀原神社 簀原は須披良と訓べし、古記に治承4年11月26日、一院入御簀原泉亭とある、此地なるべし、○祭神詳ならず○築山村田圃の中に、今簀原森といふ小墳あり、是旧跡也、(土人説) 名勝志に、土人云、スハラト云所、水垂村西北ニアリ、此所ナランと云リ、また山城國和歌名所集に、簀原山あり、こは夫木集、(二十)人志れず恋をのみこそすはら山云々、とあるより引出たる也、連胤按るに、水垂村西北のすはらと云所尋ね得ず、もとより此辺は水害の場にて、山もなし、されば拠を志らず、また夫木集によめるすはら山は、恐らくは美濃信濃の両國のうちなる須原山なるべし、さてまだ同村菱妻神社といふは、当社廃亡の跡をおひて勘請したるにやあらんとも思へど、さる社伝も聞えず、猶考ふべし、 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城國正六位上簀原神從五位下、 神社覈録 |