社名は築山村文書『御社細記』には『茨』の字には『ツム』とフリガナが付けられている。『山城志』に「在所未詳。或云在上久世村。今称綾戸明神」とある。 式内社調査報告簀原神社には大略以下のように記載されている。 『神社覈録』には「築山村田圃の中に、今簀原という小墳あり」」とある。現在スハラという地名、旧築山村になく、『神社覈録』にいう小墳と思われるものは京都市南区久世築山町(旧京都府乙訓郡久世村大字築山小字出雲路)に現存し、今日ではそこを出雲路森と称す。田圃の中に樫の木と椿の木とがそれぞれ一本生え、小さい土盛りが残つている。二月の巳の日に祭礼が行われている。 この記載は「茨田神社」についての記述と思われる。 この地は「出雲路の森」と言われ、応仁の乱の城跡だとか、小墳だとかの説がある。 菱妻神社の氏子総代を務める植松迪夫氏の著作『鎮守の森と築山村の面影』によると、明治13年「乙訓郡社地調べ」に築山村出雲路に茨田神社反別壱畝拾七歩とある。 また明治初期の「地籍図」にも神社地が官地と明記されておりこの地で祭祀が継承されてきたものと思われる。 現在は祠も無く数本の木立が有り、注連縄が張られている。 2月の年当(ねんど)(1年の始まりに御神饌を供える行事)にあたり菱妻神社の神事の後、上座・下座の司役の御膳供えと神主の祝詞を奏上される場所である。 |
茨田神社 茨田は伊婆良多と訓べし○祭神詳ならず○築山村に今茨田森といふ小林あり、是旧跡也、(土人説) 〇姓氏録、(山城國皇別)、茨田連、彦八井耳命之後也、 山城志に、或云在上久世村、今称綾戸明神と云り、其証なげれば今從はず、 神社覈録 |