大和川北岸。阪南高校東に隣接して頓挫する。 往古依網池は十万余坪の大池であつたが、宝永元年大和川開繋の土功により縮少しその後の埋め立てもあって現存しない。 当社は広大な依羅池の及ぶ水田の守神とされ、境内地も、かつては依網池の畔りに欝蒼たる社を形成していた。 この地を支配していた依羅氏は四世紀代より、依羅池の灌漑による水田を支配し、屯倉を預つていたとされている。 摂津国で住吉大社に次ぐ格式の社とされ、八十島祭に当つて、座別の幣帛を受けた。 明治40年11月11日式内社の草津大歳神社・奴能太比売神社を合祀 |
由緒 祭神 大己貴命、月讀命、垂仁天皇、五十師宮(五十猛命)の四座または住吉三神、建豊波豆羅和気王合祀 草津大歳大神、奴能太比売大神、建速須佐男大神、奇稲田媛大神、八柱御子大神、大山大神、素盞嗚尊二座 由緒 延喜式神名帳には、大依羅神社四座とある。 神皇皇后に、神告していわく 我荒魂は先鋒を成して兵船を導んとたくし給ふ。帰朝の後吾孫子の某をもって社を守らしむ。毘沙門の宮とも言う、と伝わる。 祭神の建豊波豆羅別命は開化天皇と葛城垂見宿彌の女タカヒメとの間に生まれ、道守臣、忍海部造、御名部造、稲羽忍海部、丹波之竹野別、依羅阿毘古等の祖であると言う。依羅安孫氏は住吉三神の祭の神主とされている。 依羅連は日下部宿彌と同祖、彦坐命の後、百済人素彌志夜麻美乃君より出づる、また饒速日命十二世の孫懐大連の後とあり、さまざまな系統があったようである。 八十島祭りにも奉仕料を受け、住吉大社に次ぐ扱いを受けていた。 南北朝時代に依羅氏が滅亡すると共に社運は衰えたようである。 明治になり、式内草津大歳神社、式内奴能太比売神社など五社を合併した。 神功皇后の出兵、住吉、池、船とこの神社の周辺木材の匂いが濃厚であり、五十猛命を奉祀する人々がこの地に住んで造船などに従事していたのであろう。 神木の楠と拝殿 お姿 南側の参道前には依網池跡の石碑が建っている。南北に山門があり、寺院風である。参道の両側には桜の木が植えられ、その向こうは阪南高校の運動場とテニスコートである。 境内には神木の大きい楠木がある。槙、樫など木々が多く、夏休みで近所の家族連れが蝉とりをたのしんでいた。 泉が涌いていたらしく、その井戸跡に「たたへたる清水涸れても町に名になじみてふかし庭井の泉」と神主の和歌を刻んだ石碑がある。 神社の西南の雨乞井に龍神伝説がある。 依羅池に龍蛇神が住んでいた。ある日河内の農夫が通りかかると、美人が声を掛けた。「私はこの池に久しく住む龍神です。先頃より鉄具が池に沈み、我が身にさわって、傷を受けています。この鉄を取り除いてほしい。」と頼んだ。農夫は泳ぎができないと答えると、龍神は「我が力にて水辺まで打ち出す。御身はこれを取り除き、二度と池には入らない所に運んでほしい。」と言い、にわかに天地晦瞑となり、暴風が起こり、波は池水を捲いて天を衝くようであった。たちまち鎮み、婦人が現れた。農夫は水辺の農具の萬鍬を持ち帰り、固く封をした。以来、祈雨の効験あらたかであった。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大依羅神社 御祭神 建豊波豆羅和気王 底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命 本社は国史上顕著なる式内の古社にして神功皇后征韓とは重要なる交渉を有す是を以て歴朝の御崇敬浅からぬ大社にして即ち人皇第48代称徳天皇神護元年摂津備前18戸を大依羅神社に充て奉る第54代仁明天皇承和14年7月大依羅神社を修造して官社に預からしめ給う第57代陽成天皇元慶3年6月14日神財を奉らしめ給う四時祭七七座相嘗祭及臨時祭285座の名神祭同85座祈雨祭特に八十島祭にも預からしめし事史に載せられたり。古事記日本書紀三大実録延喜式等の国史は元よりその他の古書に載せられざるはなく、往時神域の規模の広大なりしことは今に至るも二宮、四宮酒造田宮添等の小字名の存するをみて明らかにして昭和六年10月1日府社に列格この年創史以来1760有余年を経る古社なり。 社頭掲示板 |
伝説 境内西南の一隅に、龍神井と称する雨乞井がある。里傳によれば、依羅池中に龍蛇住み、或日河内の一農夫池の北堤を通行中、美女に呼びとめられ、我が身は池中の龍神なるに、先頃鐵を沈めるものあり、これに触れて傷を受けた故、池中の鐵を取り除いて欲しいと懇願、農夫は哀れに感じたが泳ぎを知らぬ故、池底に潜ることはでぎぬと述ベて行き過ぎようとしたところ、婦人はさらに呼びとめ、自分の力で水辺まで波をもつて打ち出す故、水辺に現はれたならば取り除かれよと云つて水底に消え失せた。待つほどに俄かに天地晦瞑、暴風起り、波は池水を捲いて天を衝き、恐ろしい状を呈したが、やがて風波鎭まり、天地晴朗に復したと思うと婦人再び現れ来て、あれなる鉄が自分の申していたところのもの、持去つて再び池中に入らぬやうにしてはしいと云い、難儀を救つてくれた恩に対し、萬の幸を得させよう、水乏しきときは此の井水を汲み大神の御前に供へて甘雨を祈れば必ず水を得させようと云つて清水の井戸に入つた。農夫は其の鐵を見るに農具の萬鍬であつたといふ。爾來旱天に際しては此の井を開いて大依羅神社に祈雨祭を行へば必ず甘雨沛然として至るといひ、近年に至る迄、旱魃に際しては村民集つて此の井を開き、七日間参龍祈雨を行ふを例とした。 社頭掲示板 |
依網池 祟神朝の記録に「依網池を作る」とあります。しかし、仁徳朝説、推古朝説もあり、その起源は不明ですが、日本でも1.2の歴史の長さを誇る最古級の人工池です。かつては10万坪の大きさの灌漑用池でしたが、江戸時代、大和川の付け替え工事によって、池の3分の2が大和川となりました。明治・大正・昭和の時代には、まだ池の面影は見られましたが、戦後の市街地化によって公園、学校に変わり、現在はまったく見られなくなり、幻の池となりました。 |
大依羅神社 大依羅神社御由緒略記 当社は国史上顕著なる式内の古社にして神功皇后征偉とは重要なる交渉を有す是を以て歴朝の御崇敬浅からず。曽ては官社に列せられし大社にして則ち人皇第48代称徳天皇神護元年摂津備前十八戸を大依羅神社に充て奉る第54代仁明天皇承和14年7月大依羅神社を修造して官社に頂からしめ給う第57代陽成天皇元慶3年6月14日神財を奉らしめ給う四時祭七十七座相嘗祭及臨時祭285座の名神祭同85座祈雨祭特に八十島祭にも預からしめし由、史に載せられたり古事記・日本書紀、三代実録、延喜式等の国史は元より其他の古書に載せられざるはなく往時神域の規模の広大なりし事は今に至るも二ノ宮、四ノ宮、酒造田、宮添等の小字名の存するを見ても明かにして昭和6年10月1日府社に列格創祀以来1800有余年を経る古社なり。 一、所在地 大阪市住吉区庭井町33番地 一、創建年月日 創建年月日は詳らかならざるも今(昭和46年)より1800年前の卸創祀なりと伝えらる 一、社殿復興 昭和44年9月29日本殿、幣殿、拝殿、全焼せしも昭和46年10月3日 境内北側南向より西側東向に移転復興 一、御神祭 建豊波豆羅別王、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、其他合祀神社の祭神6柱 氏子地域、庭井町、苅田町、我孫予町、山之内町、杉本町、浅香町 (旧依羅村一円) 一、神事(主たる神事) 4月16日春祭 7月12日夏祭 10月12日秋の大祭 11月15日、16日七・五・三祝祭 一、沿革 本社は大阪市住吉区庭井町に鎮座し給ふ祭神は依羅我彦の祖租建豊波豆羅別王を主神として住吉三神を合せ祀る古来有名の神社なり神功皇后征韓の砌り依羅我彦男垂見を主神として拝祀せしめ給うてより昭和の今日に至る迄栄枯盛衰は免れざれしも崇敬を怠らず式祭共に恙なきを得たり。明冶42年式内村社草津歳神社、村社我孫子神社、同八阪神社、同山之内神杜、大山昨神社、無格社道祖神社の六社を合祀せるなり。 大阪市住吉区庭井町33 大依羅神社々務所 由緒書 |
大依羅神社 おおよさみじんじや 大阪市住古区庭井町。旧府社。建豊波豆羅和気王・底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命を祀る。社伝によると、神功皇后外征の際、住吉の神を依羅吾彦垂見を神主として斎き祀らしめたと伝えられ、これが当社の創立を物語るものとされる。『延喜式神名帳』に名神大社として登載されている。例祭4月16日。 昭和46年新殿が竣成した。 神社辞典 |
郷社 大依羅神社 祭神 大己貴命 月読神 垂仁天皇 五十猛命 祭神四座数説あり、度会延経神名帳考証には表津少童命、中津少童命、底津少童命、息長足姫といひ、神社覈録には底筒男命、中筒男命、表筒男命、猿田彦大神となし、神祇志料には建豊波豆羅利気王を主として、住吉三神を祭るとせり。 創祀は神功皇后三韓を伐ち給ふ時、住吉神の和魂玉体に箸きて寿命を守り、荒魂は先鋒として、師船を導き奉らんと教へ給へるにより、依羅吾彦男垂見を神主として祀らしめ給ふと、日本書紀に在り、是当社の創祀なり(神祇志料)、之れ建豊波豆羅和氣王を圭神としての説なり、建豊庚披豆羅和気王は依羅の吾毘古等の祖なればなり(古事記)、当依羅村の一邑に我孫子あり、吾孫子氏の住みたりし地なり、我孫子氏は神別にして大己貴命の後なり(姓民録)、之に依れば此神社は其氏の人が創祀せしにて、主神は大己貴命なりと定むべきが如し、称徳天皇神護元年摂津備前十八戸を神封に充て奉り(新抄格勅符)仁明天皇承和14年7月神社を修営し官社に預らしめ(続日本後紀)清和天皇貞観元年正月甲申從五位下勲八等大依羅神を從四位下に進められ、9月庚申、雨風の祈により幣帛を奉り、陽成天皇元慶元年6月癸未、幣を奉りて甘雨を祈り、3年6月癸酉神財を奉る(三代實録)、醍醐天皇延喜の制四座並に名神大杜に列り、祈年、月次、相嘗、新嘗の官幣、及祈雨の幣帛に預り、又住吉神と同じく八十島祭に預る(延喜式)、同9年9月乙巳正二位を授け(日本紀略)、一條天皇正暦5年4月戊申、中臣氏の人をして宜命使として幣を奉る、疫疾火災の御祈によりてなり(本朝世記、日本紀略参取)、八十島祭の事は露天神社の祭を参照すべし、猶当時相嘗祭大依羅神四座に、絹八疋、糸十二絢、綿十二屯。調布十二反、庸布六反、木綿六斤八爾、飽二斤八両、膿五升、堅魚八斤十両、海藻八斤八両、擬海藻八斤十両、塩四斗、筥四合、瓶缶水瓶山郁婆小都婆波筥、瓶酒、垂区、等呂須伎、高盤、短女杯、筥杯、小杯、陶面各八口酒稻二百束を供ふ、此儀後大に頽廃し、社殿も廃滅せんとす、後西院天皇萬治2年8月近村協力して修営す、之れ今の社殿とす、明治9年2月12日郷社に列す、境内1408坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿等を備ふ。 明治神社誌料 |
大依羅神社四座 並名神大月次相嘗新嘗 大依羅は於保與佐美と訓べし、和名鈔、(郷名部)大依羅、(仮字上の如し)また河内国丹比郡依羅、(與佐美)〇祭神住吉三座、猿田彦大神、(比保古〇日本紀通証云、伝嘗所祭月読尊、大已貴命、五十師命、垂仁天皇也、」群談云、所祭大已貴命孫天八現津彦命、共に今從はす、)〇庭井村に在す、今吾孫子毘沙門と称す、庭井吾孫子両村産土神、(摂陽群談)○式二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、大依羅社四座、(坐摂津國)」同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、摂津国大依羅神社四座、」祈雨祭神八十五座、(並大)云々、大依羅社四座、〇日本紀神功皇后巻云、9年9月庚午朔己卯、既而神有誨曰、和魂服玉身而守寿命、荒魂為先鋒導師船、即得神教而拝禮之、因以依網吾彦男垂見為祭神主、○古事記、(開化段)建豊波豆羅和気王者、依綱之阿毘古等之祖也、』姓民録、(摂津國皇別)依羅宿禰、日下部宿根同祖、彦坐命之後也、 神位 官社 修造 続日本後紀、承和14年7月丁卯、修造摂津国大依羅社、為官社焉、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授撮津國從五位下勲八等大依羅神從四位下、」日本紀略、延喜9年9月13日、奉授摂津団大依羅神正二位、 官幣 神財 三代實録、貞観元年9月8日庚申、摂津國大依羅神、遣使奉幣、為風雨祈焉、』元慶元年6月14日癸未、大依羅祈甘雨也、同3年6月14日癸酉、遣使於大依羅神社奉神財、 氏人 続日本紀、天平18年閏9月戊子、正六位上依羅我孫忍麻呂授外從五位下、」天平勝宝2年8月辛未、摂津國住吉郡人外從五位下依羅我孫忍麻呂等五人、賜依羅宿禰姓、神奴意支奈、祝長月等五十三人、依羅物忌姓、 連胤云、当社は八十島祭の一処也、式文住吉神社の條下に記す、見合すべし、 神社覈録 |