大依羅神社
おおよさみじんじゃ


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【公式HP】

大依羅神社(おおよさみじんじゃ)は創建1800有余年を遡る『古事記』・『日本書紀』・『三代実録』・『延喜式』等の国史書に記載されている神社です。当地の豪族であった依羅吾彦一族が、その祖先である第9代開化天皇の第四皇子「建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ)」をお祀りしたのが起源とされています。
古代より豪族が治めていたこの地域には、広大な依網池の造営、天皇直轄領である屯倉が設置されていた《皇室との深い繋がり・国家にとって大依羅が重要な場所であった》ことが「古事記」・「日本書紀」などに残されています。
神功皇后が新羅征討の際、底筒男命・中筒男命・表筒男命の住吉三神の神託により戦勝と航海の無事を祈り「依羅吾彦男垂見」が住吉三神を祭る祭主を務めたことが「日本書紀」に記載されており、依羅吾彦一族が古代より有力な氏族として、朝廷とも関わる祭祀に深く関係していたと考えられています。
「八衢の木(やちまたのき)」
本殿右前のご神木[八衢の木(やちまたのき)]。昭和30年に落雷の直撃を受けましたが、長い年月をかけて奇跡的に再生しました。参拝者の多くが、大依羅の象徴でもあるこの[八衢の木]に手を合わせ、御神威を授かります。
大依羅神社の「水の神さま」「あらゆる穢れを祓う浄化の地」といった謂れは、元々この地が池・川など非常に豊かな水に囲まれていたことに由来します。大依羅を訪れた人々がしばし時を忘れて境内に佇んでおられるのは、この地の豊かな土壌が育んだ自然、そして1800余年を経ても変わらない澄み切ったご神気を肌で感じられているからなのでしょう。
現在でも神社の真下には豊かな水脈があり、それが境内の木々や植物が豊かに育つ要因になっています。本殿左横の木々が密生しているエリアは現在、禁足地となっていますが、それはこのエリアの木々・植物たちが、大依羅の豊かな土壌を支える要になっているからです。
南門に作られた大依羅神社の象徴(シンボル)ともいえる勾玉。古代より勾玉には不思議な力が宿るとされ、魔よけ・厄除けといった意味で身につけられてきました。皇室に伝わる三種の神器の一つにも八尺瓊勾玉が数えられています。勾玉は丸みを帯びた頭の部分が《太陽》を表し、そこから続く尾の部分は大依羅の象徴の一つでもある《月》を表しているともいわれています。
不定期で年に何度か行われる夜間特別参拝。幻想的にライトアップされた大依羅神社境内での体験は参拝者にとって忘れがたい経験となります。大依羅の地にはこの国に脈々と続く大きな流れ[神話]が今も生き続けています。

公式HP



【由緒】

御祭神
建豊波豆羅和気王
底筒之男命
上筒之男命
中筒之男命
由緒
本社は国史上顕著なる式内の古社にして神功皇后征韓とは重要なる交渉を有す是を以て歴朝の御崇敬浅からぬ大社にして則ち人皇第48代称徳天皇神護元年摂津備前十八戸を大依羅神社に充て奉る第54代仁明天皇承和14年7月大依羅神社を修造して官社に預からしめ給ふ第57代陽成天皇元慶3年6月14日神財を奉らしめ給ふ四時祭七十七座相嘗祭及綸旨焚二百八十五座の名神祭同八十五座祈雨祭特に八十島祭にも預からしめし事史に載せられたり古事記日本書紀三代実録延喜式等の国史は元より其他の古書に載せられざるはなく往時神域の規模の広大なりしことは今に至るも二ノ宮、四ノ宮、酒造田、宮添等の小字名の存するを見ても明らかにして昭和6年10月1日府社に列格この年創祀以来1760有余年を経る古社なり

社頭掲示板






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