東海大学病院南東に鎮座する。 もと現在地の西方約700mのところの弥杉にあつたと言われている。 弥杉の東北部に丘陵をなしているところを現在もサイカン(齋館)森と称している。ここに齋館があつたのではないかと言われている。 当社の祭神は、住吉神→大住大明神→八幡神 大住大明神→神倭伊波禮彦命と変遷してきたと思われる。 |
高部屋神社 祭神 神倭伊波礼彦命 (相殿)誉田別命 大鷦鷯命 三筒男命 息気長足姫命 磐姫之命 由緒 創建年代不詳。糟屋庄百二十七ヶ村の総鎮守として崇敬される。鎌倉時代、源頼朝に仕え吾妻鏡、源平盛衰記等に功名を記された地頭糟屋有季が社殿を造営。次いで天文20年(1551)地頭渡邊石見守社殿再興。天正19年(1591)、徳川家康は朱印十石を寄進した。 慶応元年、社殿再興。現幣殿・拝殿は往時のままだが、本殿は関東大震災に倒壊し、昭和和4年の再建である。 例祭9月15日 交通小田急線伊勢原駅からバス7分、「粟窪入口」、「粕屋上宿」下車徒歩5分 参拝のしおり |
高部屋神社 美術工芸品 高部屋神社梵鐘一口 昭和44年12月2日 神奈川県指定 高部屋神社はもと式内社で、八幡宮といわれていた、創立年代は明確ではないが、天文20年(1551)9月に地頭渡辺石見守によって造営されたことが新編相模国風土記稿によって知ることができる。 江戸時代は本殿をはじめ、観音堂、薬師堂、神楽殿、鐘楼、稲荷社等を境内に配した八幡宮であった。 この梵鐘は河内守国宗の作で、製作年代は室町時代、至徳3年(1386)である。 作風は全体としてよく整った鐘で、特に龍紐の出来がよく、また撞座の蓮華文も立体感をのこしていて時代的特色を示している。 昭和50年3月20日 神奈川県教育委員会 社頭掲示板 |
例祭・塩汲み神事 住吉神が大磯より上陸したとの神話にちなみ、当日大磯の浜から海水を汲み、浜砂とともに持ちかえった神馬藻(ホンダワラ)を拝殿と鳥居の注連縄に下げ、海水は鎮火水として神前に供え、浜砂は参道のお清めに使われる。 |
高部屋神社 ○由緒・社殿 当社の創建年代は不詳であるが、延喜式神名帳に相模十三座の内の一社と記戴されている古社であり、古くは相州大住郡糟谷庄127ヶ村の惣鎮守として崇敬された。平安時代までは現在の飛び地境内である伊勢原市高部屋地区の澁田山に鎮座していたと考えられ、糟谷住吉の大神「大住大明神」として崇敬された。また東海大学医学部付属病院近くの伊勢原市下糟屋字弥杉にも「住吉大神大住大明神」の祠がお祀りされている。これは現代にも続く伝統として「汐汲みの神事」に受け継がれている。「汐汲みの神事」は住吉大神(大住大明神)が大昔、現在の大磯町照ヶ崎海岸に上陸し、創建時に鎮座したという伝承に基づき、海水・浜砂・ホンダワラ(海馬藻)を採取し、海水は鎮火水とし、浜砂はお清めのために参道に撒き、ホンダワラは拝殿と鳥居の注連縄に帛るす。時代が下り鎌倉時代になると糟屋庄地頭で「吾妻鏡」「源平盛衰記」等に功名を記された源頼朝家臣「糟屋藤太左兵衛尉有季」が八幡信仰により自らの館に誉田別命を主祭神とし新たな社殿を造営した。そのため、また発掘調査では室町時代の遺構異物も発見されたため、当社が扇谷上杉氏の守護所である「糟屋館」だった可能性もある。室町時代に入ると足利将軍家の家人団、関東管領上杉一族の関与があったと思われ、至徳3年(1386)12月「平秀憲」なる人物が銅鐘を寄進した。この銅鐘は県重要文化財に指定され今でも時を刻んでいる。社前にあった応永28年(1421年)9月下旬につくられた石燈籠には「相州糟屋惣社。正一位八幡大菩薩御廟前。」と刻まれていたまた経巻大般若経写経が残片を含め八○数巻現存している。永享6年(1434年)12月に愛甲新熊野宮に「沙弥應遠・沙弥聖鼎」より施入された経巻も伝わり、これには「大旦那源朝臣頼重願主沙弥應遠・沙弥聖鼎」の銘が残されている。「源朝臣頼重」とは室町幕府を開いた「足利尊氏」の外祖父「上杉頼重」であるためこの経巻は施入された永享6年より百年以上古い可能性がある。大般若経写経は経函とともに文明15年(1483年)4月19日に扇谷上杉家当主「上杉定正」が寄進した。平成15年にこれらの修復工事が行われた。その後、糟屋氏や上杉氏と関わった武士たちの興亡をのせてきた高部屋神社も後北条氏を迎え「新編相模国風土記稿」によると天文20年(1551年)9月28日に地頭渡邊石見守が社殿を再建し、天正9年(1581年)5月10日には北条家臣松山城主「上田能登守長則」による境内三ヶ条の法度が定められた。後北条氏が滅びると天正19年(1591年)11月に徳川家康より社領十石の御朱印を賜り、江戸時代中期頃までは「糟屋八幡宮」と呼ばれ名社を謳われた。また正保4年(1647年)に本殿を再建、慶応元年(1865年)には拝殿を再建。本殿は関東大震災で倒壊したが昭和4年に柱・彫刻・正面扉・擬宝珠などをそのまま使い再建され、拝殿と幣殿は往時のまま現在に至り、後藤楢之助正義の彫刻師により浦島太郎が亀に誘われている情景と竜宮城で待つ乙姫が刻まれ見事である。拝殿正面頭上には、勝海舟らと並び「幕末の三舟」と称される「山岡鉄舟」の筆による「高部屋神社」の社号額が掲げられている。明治6年村社に大正6年7月郷社となる。銅鐘や写経以外にも古くから雨乞いの神事に用いられる鎌倉時代以降の「古楽面」三面や江戸時代の元禄初期と思われる、京都宇治にある黄檗山万福寺七世で、中国福建省泉州府晋江県からの渡来僧「悦山道宗」筆による「八幡宮」の扁額が現存している。本殿は五間流造銅葺5.25坪。拝殿幣殿は総齣「茅葺20坪。 ○境内神社 八坂神社・金毘羅神社・水神社・稲荷神社・庚申・愛染明王を境内にお祀りしております。 由緒書 |
糟屋城址 高部屋神社付近に糟屋城があったといいます。糟屋城は鎌倉時代の豪族糟屋有季の居館といわれています。鎌倉時代ということを考えれば、城と言うより館といったほうがいいかもしれません。高部屋神社の裏手に回ると広場があり現在は畑になっていますが、城の曲輪のひとつだったかもしれません。 広場の一角に土塁の跡と思われる土盛りが残っています。神社との間を国道246号線が貫いていますが、かつては神社と地続きだったということです。高部屋神社の方から見たときは、全くの平地でなんでこんなところに城をと思いましたが、神社裏の広場まで来ると実はここがいわゆる舌状台地の先端であることが分かりました。下からはかなりの高さがあり,なるほど城をつくるのに適した場所であると思われました。 http://www.asahi-net.or.jp/~MR4M-NKI/kasuya.htm |
高部屋神社 ○鎮座地 神奈川県伊勢原市下糟屋2202 神奈中バス「粟窪入口」または「粕谷上宿」から徒歩5分に鎮座しております。 ○御祭神 神倭伊波礼彦命(かんやまといわれひこのみこと) 誉田別命(ほむだわけのみこと) 三筒男命(みつつおのみこと) 大鷦鶺命(おほさざきのみこと) 息気長足姫命(おきながたらしひめのみこと) 磐之姫命(いわのひめのみこと) 時代とともに主祭神が移り変わってきたと思われます。 創建から平安時代までは三筒男命(住吉三神)を主祭神とし、鎌倉時代から幕末までは誉田別命を主祭神とし、明治以降は神倭伊波礼彦命を主祭神としてお祀りしていることが記録より伺えます。 ○由緒・社殿 当社の創建年代は不詳であるが、延喜式神名帳に相模13座の内の1社と記載されている古社であり、古くは相州大住郡糟谷庄127ヶ村の惣鎮守として崇敬された。 平安時代までは現在の飛び地境内である伊勢原市高部屋地区の澁田山に鎮座していたと考えられ、糟谷住吉の大神「大住大明神」として崇敬された。 また東海大学医学部付属病院近くの伊勢原市下糟屋字弥杉にも「住吉大神大住大明神」の祠がお祀りされている。 これは現代にも続く伝統として「汐汲みの神事」に受け継がれている。 「汐汲みの神事」は住吉大神(大住大明神)が大昔、現在の大磯町照ヶ崎海岸に上陸し、創建時に鎮座したという伝承に基づき、海水・浜砂・ホンダワラ(海馬藻)を採取し、海水は鎮火水とし、浜砂はお清めのために参道に撒き、ホンダワラは拝殿と鳥居の注連縄に吊るす。 時代が下り鎌倉時代になると糟屋庄地頭で「吾妻鏡」「源平盛衰記」等に功名を記された源頼朝家臣「糟屋藤太左兵衛尉有季」が八幡信仰により自らの館に誉田別命を主祭神とし新たな社殿を造営した。 そのため、また発掘調査では室町時代の遺構異物も発見されたため、当社が扇谷上杉氏の守護所である「糟屋館」だった可能性もある。 室町時代に入ると足利将軍家の家人団、関東管領上杉一族の関与があったと思われ、至徳3年(1386)12月「平秀憲」なる人物が銅鐘を寄進した。この銅鐘は県重要文化財に指定され今でも時を刻んでいる。 社前にあった応永28年(1421年)9月下旬につくられた石燈籠には「相州糟屋惣社。正一位八幡大菩薩御廟前。」と刻まれていた また経巻や大般若経写経が残片を含め80数巻現存している。永享6年(1434年)12月に愛甲新熊野宮に「沙弥應遠・沙弥聖鼎」より施入された経巻も伝わり、これには「大旦那源朝臣頼重 願主 沙弥應遠・沙弥聖鼎」の銘が残されている。「源朝臣頼重」とは室町幕府を開いた「足利尊氏」の外祖父「上杉頼重」であるためこの経巻は施入された永享6年より100年以上古い可能性がある。大般若経写経は経函とともに文明15年(1483年)4月19日に扇谷上杉家当主「上杉定正」が寄進した。平成15年にこれらの修復工事が行われた。 その後、糟屋氏や上杉氏と関わった武士たちの興亡をのせてきた高部屋神社も後北条氏を迎え「新編相模国風土記稿」によると天文20年(1551年)9月28日に地頭渡邊石見守が社殿を再建し、天正9年(1581年)5月10日には北条家臣松山城主「上田能登守長則」による境内3ヶ条の法度が定められた。後北条氏が滅びると天正19年(1591年)11月に徳川家康より社領10石の御朱印を賜り、江戸時代中期頃までは「糟屋八幡宮」と呼ばれ名社を謳われた。 また正保4年(1647年)に本殿を再建、慶応元年(1865年)には拝殿を再建。本殿は関東大震災で倒壊したが昭和4年に柱・彫刻・正面扉・擬宝珠などをそのまま使い再建され、拝殿と幣殿は往時のまま現在に至り、後藤楢之助正義の彫刻師により浦島太郎が亀に誘われている情景と竜宮城で待つ乙姫が刻まれ見事である。拝殿正面頭上には、勝海舟らと並び「幕末の三舟」と称される「山岡鉄舟」の筆による「部屋神社」の社号額が掲げられている。 明治6年村社に大正6年7月郷社となる。 銅鐘や写経以外にも古くから雨乞いの神事に用いられる鎌倉時代以降の「古楽面」3面や江戸時代の元禄初期と思われる、京都宇治にある黄檗山万福寺7世で、中国福建省泉州府晋江県からの渡来僧「悦山道宗」筆による「八幡宮」の扁額が現存している。 本殿は五間流造銅葺5.25坪。拝殿幣殿は総欅造茅葺20坪。 ○境内神社 八坂神社・金毘羅神社・水神社・稲荷神社・庚申・愛染明王を境内にお祀りしております 神奈川県神社庁 |