東海大学附属本田記念幼稚園の西隣に小祠がある。 |
高部屋神社 ○由緒・社殿 当社の創建年代は不詳であるが、延喜式神名帳に相模十三座の内の一社と記戴されている古社であり、古くは相州大住郡糟谷庄127ヶ村の惣鎮守として崇敬された。平安時代までは現在の飛び地境内である伊勢原市高部屋地区の澁田山に鎮座していたと考えられ、糟谷住吉の大神「大住大明神」として崇敬された。また東海大学医学部付属病院近くの伊勢原市下糟屋字弥杉にも「住吉大神大住大明神」の祠がお祀りされている。これは現代にも続く伝統として「汐汲みの神事」に受け継がれている。「汐汲みの神事」は住吉大神(大住大明神)が大昔、現在の大磯町照ヶ崎海岸に上陸し、創建時に鎮座したという伝承に基づき、海水・浜砂・ホンダワラ(海馬藻)を採取し、海水は鎮火水とし、浜砂はお清めのために参道に撒き、ホンダワラは拝殿と鳥居の注連縄に帛るす。時代が下り鎌倉時代になると糟屋庄地頭で「吾妻鏡」「源平盛衰記」等に功名を記された源頼朝家臣「糟屋藤太左兵衛尉有季」が八幡信仰により自らの館に誉田別命を主祭神とし新たな社殿を造営した。そのため、また発掘調査では室町時代の遺構異物も発見されたため、当社が扇谷上杉氏の守護所である「糟屋館」だった可能性もある。室町時代に入ると足利将軍家の家人団、関東管領上杉一族の関与があったと思われ、至徳3年(1386)12月「平秀憲」なる人物が銅鐘を寄進した。この銅鐘は県重要文化財に指定され今でも時を刻んでいる。社前にあった応永28年(1421年)9月下旬につくられた石燈籠には「相州糟屋惣社。正一位八幡大菩薩御廟前。」と刻まれていたまた経巻大般若経写経が残片を含め八○数巻現存している。永享6年(1434年)12月に愛甲新熊野宮に「沙弥應遠・沙弥聖鼎」より施入された経巻も伝わり、これには「大旦那源朝臣頼重願主沙弥應遠・沙弥聖鼎」の銘が残されている。「源朝臣頼重」とは室町幕府を開いた「足利尊氏」の外祖父「上杉頼重」であるためこの経巻は施入された永享6年より百年以上古い可能性がある。大般若経写経は経函とともに文明15年(1483年)4月19日に扇谷上杉家当主「上杉定正」が寄進した。平成15年にこれらの修復工事が行われた。その後、糟屋氏や上杉氏と関わった武士たちの興亡をのせてきた高部屋神社も後北条氏を迎え「新編相模国風土記稿」によると天文20年(1551年)9月28日に地頭渡邊石見守が社殿を再建し、天正9年(1581年)5月10日には北条家臣松山城主「上田能登守長則」による境内三ヶ条の法度が定められた。後北条氏が滅びると天正19年(1591年)11月に徳川家康より社領十石の御朱印を賜り、江戸時代中期頃までは「糟屋八幡宮」と呼ばれ名社を謳われた。また正保4年(1647年)に本殿を再建、慶応元年(1865年)には拝殿を再建。本殿は関東大震災で倒壊したが昭和4年に柱・彫刻・正面扉・擬宝珠などをそのまま使い再建され、拝殿と幣殿は往時のまま現在に至り、後藤楢之助正義の彫刻師により浦島太郎が亀に誘われている情景と竜宮城で待つ乙姫が刻まれ見事である。拝殿正面頭上には、勝海舟らと並び「幕末の三舟」と称される「山岡鉄舟」の筆による「高部屋神社」の社号額が掲げられている。明治6年村社に大正6年7月郷社となる。銅鐘や写経以外にも古くから雨乞いの神事に用いられる鎌倉時代以降の「古楽面」三面や江戸時代の元禄初期と思われる、京都宇治にある黄檗山万福寺七世で、中国福建省泉州府晋江県からの渡来僧「悦山道宗」筆による「八幡宮」の扁額が現存している。本殿は五間流造銅葺5.25坪。拝殿幣殿は総齣「茅葺20坪。 ○境内神社 八坂神社・金毘羅神社・水神社・稲荷神社・庚申・愛染明王を境内にお祀りしております。 由緒書 |