高部屋神社
たかべやじんじゃ


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【高部屋神社】

国登録有形文化財 高部屋神社 本殿、拝殿、及び幣殿
鳥居をくぐりますと、正面の建物が拝殿及び幣殿、その北側の建物が本殿です。
本殿は、正面の柱間が五つある五間社流造という形式です。県内の五間社の本殿は、寛永元年(1624年)建立の鶴岡八幡宮若宮本殿(鎌倉市、国指定重要文化財)、寛文7年(1667年)の箱根神社本殿(箱根町)、享保3年(1718年)の六所神社本殿(大磯町)といった名だたる神社にしか見られません。
高部屋神社の本殿は、関東大震災による倒壊後、昭和4年に再建されたものですが、倒壊前(正保4年、1647年築)の旧本殿の漆塗りの残る扉など、主要な古材が数多く再利用されています。再建に当たって、旧本殿の持つ江戸時代前期の雰囲気を残す努力が見られ、当時の関係者の想いを知ることができます。
拝殿及び幣殿は、江戸時代の慶応元年(1865年)に、相模国梅沢(二宮町)の大工、杉崎周助政貴により建立されました。
拝殿は入母屋造の茅葺で、手前に銅板葺の向拝(正面の庇部分)を設け、背面には幣殿を連結しています。主要な柱は、一辺20cm以上の太いケヤキを用いています。正面の柱には龍が巻き付き、軒下には亀に出会う浦島太郎、その上には乙姫と竜宮城という珍しい彫刻が掘り出されています。彫物師は、江戸を本拠に活躍した彫物大工後藤家の後藤楢之助藤原正義です。
平成24年には茅葺屋根の葺き替え工事が行われました。市内では唯一、県内でも貴重な茅葺屋根の社殿です。年代の異なる端正な五間社の本殿と相まって、見応えのある神社景観を形作っています。
平成28年3月 伊勢原市教育委員会

社頭掲示板



【高部屋神社梵鐘】

神奈川県指定重要文化財 高部屋神社梵鐘
高部屋神社は、別名を八幡神社と称し、平安時代に書かれた「延喜式」にもその名が残る延喜式内社です。この神社に伝わっている銅鐘は書かれている銘から至徳3年(1386)12月に河内守国宗によって造られ、平秀憲によって奉納されたことがわかります。
竜頭は鼻の上に鋭い目と眉、紐をくわえた口と全体に引き締まっています。
笠形については上面のほとんどが平らに近いふくらみをもち下端に一隆線をめぐらせています。上帯は各縦帯の上に一個ずつ陽鋳(浮き出た)の遊離飛雲文が見られます。乳は四段四列の太い茸形でしっかりとしています。池の間には、上下に鋳型の繋ぎ目が見られ、銘文(左参照)が陰刻(彫り刻まれた)されています。下帯は各縦帯の下に陽鋳の遊離訪唐草文が見られ、撞座には花弁の短い八弁の蓮華文が見られます。
鐘の全体としてはよく整った優れた作品であり、上帯下帯に見られる文様や作者である河内守姓などから鎌倉を中心とする文化圏のものとわかります。
平成16年3月 伊勢原市教育委員会

社頭掲示板



下糟屋の雨乞い行事

下糟屋では古くから、日照りが続くと高部屋神社の北東にある水神池で雨乞い行事が行われていました。最後の雨乞いは昭和8年に行われ、その時の様子は次のようなものでした。
この年は干ばつで田植えがままならず、7月18日に雨乞いが行われました。高部屋神社に伝わる黒面(陵王面)と赤面(?見面)を付け、蓑を来て笠をかぶり、草鞋を履いた二人の雨乞い役を先頭に、地区内を行列して水神池へと向かいました。池に着くと神官が祈祷をし、雨乞い役二人は竹を立て、しめ縄を張った池の中に向かい合って立ちました。そして、黒面役が「龍王や、龍王や」と呼べば、赤面役が「雨を降らせたもれ」と応じる問答を大声で唱えながら水を掛け合いました。池のまわりを囲む地区の人々も同じく大声で唱和しました。この時は、その後9日後に雨が降ったということです。
平成21年3月 伊勢原市教育委員会

社頭掲示板



延喜式内 高部屋神社

鎮座地 神奈川県伊勢原市下糟屋2202
祭神 三箇男命(住吉大神)・神倭伊波禮彦命・譽田別命
   大鷦鷯命・息気長足姫命・磐姫之命
由緒
当社は『延喜式神名帳』に記載されている相模国十三座の一座で、大住郡百二十七ヶ村の惣社と言われていた。創建年代は不詳なるも、紀元前660年とも言われている。
当神社の本宮(元宮)は、糟屋庄の奥津城(霊城)である。澁田山(澁田川の源流)に鎮座している。澁田山は、古来より高部屋神社所有の飛地境内でもある。
糟屋住吉の大神として、又の名を『大住大明神』と呼ばれ、武門・武士を始め万民の崇敬せられたる古社である。江戸中期頃までは、別名「糟屋八幡宮」と呼ばれ、名社の名を謳われた。古社たる由縁には『汐汲みの神事』があり、更に「雅楽面三面の古面」と「源朝臣・頼重施入の経巻」・「上杉定正が寄進の大般若経の経典」の伝来があり、境内の釣鐘堂には、至徳3年(1386年作・県重要文化財に指定)平秀憲が寄進の銅鐘が、今でも時を刻んでいる。
当神社のこの地は、千鳥ヶ城と呼ばれる要害が後北条氏の滅亡まで、社地の続きに存在が認められた。鎌倉時代に源頼朝の家人で、藤原鎌足・冬嗣の血を引く糟屋庄の地頭『糟屋藤太左兵衛尉有季』の館跡と言われていて、高部屋神社を守護神として社殿を造営した。
室町時代に入ると、将軍・足利氏の家人団・上杉一族の関与があったと思われる。糟屋氏・上杉氏と関わった武士達の興亡をのせてきた高部屋神社も、後北条氏を迎え、相模国風土記稿に載る、天正9年(1581)5月10日、八幡宮境内(高部屋神社)の三ヶ条、松山城主『上田能登守長則』の禁制(法度)が知られている。
天文20年(1551年)に、地頭『渡辺岩見守』が社殿を再興し、天正19年(1591年)に、徳川家康から式内社の名社あることで、社領十石を寄進され、朱印状を頂いた。
社殿は、正保4年(1647年)に本殿を再建されたが関東大震災で倒壊し、昭和4年に柱・彫刻・正面扉等をそのまま生かし再建、拝殿は慶応元年(1865年)に再建され現在に至っている。
尚、拝殿正面の頭上に、山岡鉄舟の筆による『高部屋神社』の社号額が掲げられている。

社頭石碑



高部屋神社

高部屋は多加倍夜と訓べし○祭神誉田別尊、(地名記)○下粕屋村に在す、(同上)例祭、月日、
社領
当代御朱印高壹石五斗

神社覈録






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