元荒川流域に多くみられる「久伊豆神社」のご本社ではないかと言われている。 大宝3年(703)に東山道鎮撫使多治比真人三宅麻呂が東山道に遣わされた時に祀つたとされている。 武蔵七党のひとつ私市(きさい)党の崇敬を受けていたが、天正2年(1574)に上杉謙信が私市城を攻略した際に、現在地よりも北方の正能村(現騎西町正能)に鎮座していた玉敷神社はその兵火にかかり消失した。 その後、根古屋村(現騎西町根古屋)の騎西城大手門前に再建された(現在前玉神社が鎮座)が、寛永期(1620ごろか)に延喜式内社宮目神社社域に社殿を造営し遷座した。 玉敷神社が遷座してくる前のこの地の鎮座神は宮目神社(式内社)であった。現在は玉敷神社の境内社となっている。 |
由緒 当社は第42代文武天皇の大宝3年(703)東国道巡察使多治比真人三宅麿により創建されたと伝えられ、平安時代の前期第60代醍醐天皇の延喜5年(927)に公布された律令の施行細則「延喜式」にその名を記す千有余年の歴史をもつ古社である。以後時代を経て戦国時代末にいたり天正2年(1574)越後の上杉謙信が武蔵国に出兵のおり当時正能村(現騎西町正能)にあった当神社はその兵火にかかり消失し古記録社宝などはことごとく烏有に帰した。したがってその間の神社の記録はつまびらかでない。 江戸時代に入って元和年間(1620前後)騎西城城主大久保加賀守の時現在の地に遷座し以来明治に至まで当神社は「勅願所玉敷神社 久伊豆大明神」と称され、埼玉郡(現南北埼玉郡)の総鎮守、騎西領48ヵ村の総氏神として崇められその厄除開運、家内安全、五穀豊穣などの御神徳は広く信仰を集めていた。この広い領域にわたる厚い信仰は今日にも受け継がれ2、300年以前の昔に始まる当神社神宝による独特の祓の行事「お獅子様(オシッサマ)」が今もなお当騎西町を中心に県東北部の23市町村と群馬茨城両県の一部の地区にまたがる広範な地域で行なわれている。また当神社には300年を超える伝統をもち江戸神楽の原形を伝える「玉敷神社神楽」(文化庁選択・県指定無形民俗文化財)が保存され年4回祭礼の日に素朴で優雅な舞を披露している。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
玉敷神社 埼玉県騎西町鎮座 延喜式内 玉敷神社 電話(0480)73-6022 鎮座地 埼玉県北埼玉郡騎西町大字騎西552 御祭神 大己貴命 大己貴命はまたの御名を大国主命とも申し上げて、勝れたご武勇と深いご慈愛とによって出雲国を始め広く各地方を平定され、国土開発を成し遂げられた偉大な祖神であられる。 その御神徳は広大であるが、特に青年時代の命が襲い来る幾多の困難にすべて打ち勝たれて、英雄的な神になられた神話から厄除開運の徳を、そして文武両道に秀でられた魅力的な男神であられて、多くの姫神とのロマンスを持たれた物語から縁結び・安産の徳を称えられておられる。また詩歌や医道の神でもあり、さらにお名前の音がインドの招福の神、大黒天と通ずるところから豊作や商売繁昌の神としても深く信仰されておられる。 ご由緒 当神杜は文武天皇の大宝3年(703)に多治比真人三宅麿が東山道巡察使として武蔵国に下った時に創建したものと言われ〔一説には成務天皇6年(226)の創建とも言う〕、平安時代初期、醍醐天皇の延長5年(927)に公布された当時の法制の書「延喜式」の中にその名を記されている由緒ある古社である。 以来この地方の人々の広い尊崇を集めてきたが、戦国時代の天正2年(1574)上杉謙信の関東出兵の際、当時今の所より北方数百mの正能村(現騎西町正能)の地にあった当神社はその兵火にかかり炎上、社殿をはじめ、古記録・宝物など悉く焼失した。 徳川時代に入り、嘗って根古屋村(現騎西町根占屋)に在った騎西城の大手門前に一時再建されたが、やがて程なくして1620年頃現在の地に移転鎮座され、今日に至っている。 当神社は江戸時代まで「勅願所玉敷神社、久伊豆大明神」と称し、旧埼玉郡(現南北両埼玉郡)の総鎮守であり、騎西領四八箇村の氏神でもあって、広い地域の住民から「騎西の明神様」の名で親しまれ、深い信仰を受けていた。このことから、各地に久伊豆社と称する御分霊社が数多く建立されることともなった。なお、現在の社殿は本殿と幣殿が文化22年(1816)の建築であり、その外周を飾る彫刻は当時、江戸三名工の一人と言われた五代目後藤茂右衛門の作である。また、拝殿は明治31年(1898)の修築に成るものである。 お獅子さま 近郷の人達が当神社の神宝である獅子頭、をそれぞれの地区に迎えて五穀豊穣、家内安全を祈る特有の祓えの信仰行事である。 この行事の発生年代は明らかでないが、文政11年(1828)の貸出簿があることから、それ以前に始った事は確かである。行事は春・夏に多く行われるが、3・4月の祓えは秋の豊作を祈念するもの、7月頃の祓えは地区の人達の無病息災を祈るものであったと思われる。現在、お獅子さまを迎える地域は、南・北両埼玉、北葛飾、大里および北足立の各郡などのほか群馬県、茨城県の一部に跨り、その地区の数は170か所以上に及んでいる。 玉敷神社神楽 当神楽は江戸神楽の原型を伝える素朴・典雅な舞から成っている。その発生の時期は不明であるが、当神社が昔鎮座した正能地区の人達が代々神楽師を勤め、父子相伝によって技芸を保持して来たという伝統があることから400年以上の歴史をもつことは確かである。曲目は番外の一座を加えて一七座あり、多くの特色を有しているため、文化庁選択、埼玉県無形民俗文化財に指定されており、年4回、祭礼の折に奉奏される。 御神宝など 当神社に保有する主な御神宝や文化財には次のようなもの力ある。 一、獅子頭・猿田彦の面(「春日の作」と称す) 一、騎西城主領地寄進状 一、三十番神像 町指定有形民俗文化財 一、神楽講の大絵馬 同 右 一、算額 町指定有形民俗文化財 一、大いちょう 町指定天然記念物 一、大藤(次項参照) 同右 神苑の大藤 当神社の東側に大正13年(1924)に造成された12,000uの神苑がある。現在は騎西町の管理に委ねられ、玉敷公園の名の下に整備されて市民の憩いの場となっているが、その東北隅に樹齢300年以上を誇る藤の巨木がある。直径1mを超える幹から伸びた枝の広がりは約700uに及び、毎年4月末ごろから5月上旬にかけて長さ1mを超える見事な花房を見せてくれる。この時期約2週間にわたる藤祭り(騎西町観光協会主催)には、大勢の花見の人々が各地から訪れる。 主な祭礼 歳旦祭 1月1日初詣 初春祭 2月1日神楽奉奏ダルマ市 年越祭 2月節分厄除祈願鬼追式 春季大祭 5月5日神楽奉奏藤祭り 夏季大祭 7月15日神楽奉奏 例祭 12月1・2日神楽奉奏 由緒書 |
玉敷神社 玉敷神社は埼玉県北西部の北埼玉郡騎西町に鎮座する古社で、平安時代初期の醍醐天皇の延長5年(927)に公布された『延喜式』の神名帳に載る由緒ある神社である。主祭神を大己貴命(大国主命)、配祭神に天照大御神・豊受大神・伊邪那岐命・伊邪那美命・軻遇突智命を祀っている。 社伝によると文武天皇の大宝3年(703)に多治比真人三宅麿が東山道巡察使として武蔵国に下った折に創建したという。あるいは成務天皇の6年(136)に兄多毛比命が武蔵国造に任ぜられた時に出雲大社の分霊を祀ったのが始まりとも伝えている。玉敷神社は中世から江戸時代後半まで久伊豆大明神の名で信仰され「騎西の明神様」の名で親しまれていた。文化10年(1813)の『本殿幣殿再建寄付連名帳』には武蔵国埼玉郡総鎮守勅願所 玉敷神社 正一位久伊豆大明神 郡中大総社とあり、玉敷神社と久伊豆大明神が併称されていた事が知られる。 当社は明治維新以前は騎西領四八ヵ村の総鎮守であった。天保年問(1830〜44)の『武蔵国騎西町場外四六ヶ村諸商渡世向取調書上帳』には、騎西領として現在の騎西町の他、加須市・久喜市・行田市・鷲宮町・川里村等の村々名が記されている。なお、江戸時代文化・文政期の『新編武蔵風土記稿』によると騎西領として58ヵ村の名が挙げられている。しかし、その後は明治時代に行われた一村一社制により騎西町場のみの氏神となった。 『新編武蔵風土記稿』の玉敷神社境内図を見ると宮目神社・伊勢宮・伊勢外宮・八幡と香取の合社・稲荷社・松尾社・三峰社・牛頭天王社(八坂社)・弁天社(厳島社)・伊豆社・五光権現社・元宮の13の境内社が描かれているが、現在は宮目神社・白山神社・稲荷神社・琴平社・松尾神社・厳島社・八坂神社及び天神社(参道東側)の8社と神馬像を納める神馬舎がある。式内社である宮目神社は当社の地主神と伝えられ猿の石像が数多く奉納されており、山王信仰の神であった事をうかがわせ、祭神は大宮売神である。八坂神社は素盞鳴命を祀り、毎年7月15日の夏季大祭の前後には神輿渡御・騎西囃子の奉奏が行われる。 大久保加賀守忠職寄進状 大久保加賀守忠常は小田原の役・上杉景勝御征伐・関ケ原の役等に功をあげ、慶長6年(1601)に従五位下・加賀守に任じられ、後に松平康重に次いで騎西領主となり、二万石を治めた。忠常の病死により、長男の忠職は慶長16年(1611)わずか八歳で騎西領主となった。 この忠職が寛永4年(1627)2月3日に玉敷神社に宛てた社領の寄進状『大久保忠職寄進状』によると、 騎西正能村 久伊豆明神 社領分 一田畠七石者従前ゝ指置、此外新田・ 古宮跡弐反弐畝者新寄進之所也 寛永4年 卯2月3日大久保加賀守 とあり、以前からの社領である田畠七石を従来どおり認め、新たに久伊豆神社(玉敷神社)南周辺の新田と正能の龍花院西の古宮跡の二反二畝を寄進されたことが記されている。 なお、忠職の領主時代に玉敷神社は現在の地に移転鎮座したものと推定される。 正能地区の御供田玉敷神社が、かつて鎮座していたと伝えられる正能地区には、農地解放以前に五反あまりの玉敷神社所有の御供田があった。その農作業は、田の代かきを正能地区で馬を有する家々が総出で当り、苗代作りを正能地区全員が分担して行なった。正能地区では御供田の野良仕事が済まないうちは自家の農作業をはじめなかったという。田植えの時期が近づくと旧騎西領の氏子の世話人が神社に集まり、当社にあった明神様の薬湯で入浴を楽しみ、田植えの日程を決めて氏子全員に伝えた。こうして氏子百人程が協力して田植えを行い、御供田の余った苗を各自が持ち帰り、自家の田植えをはじめた。一番から五番の田の草取り、稲刈も同様に氏子が協力して賑やかに進められた。 父子相伝の神楽 当社に伝わる「玉敷神社神楽」(文化庁選択.埼玉県指定無形民俗文化財)は正能地区の氏子が代々父子相伝で伝承してきた。正能地区には龍花院の隣に古宮という地区があり、そこは玉敷神社(久伊豆大明神)がかつて鎮座していたとみられる場所である。 江戸時代まで全国の神楽師は神祇管領であった京都の吉田家から免許を受けて神楽役を務めていたが、正能地区の青木主馬藤原政直・青木左近藤原貞勝・青木右門藤原保道・青木平馬藤原正久の四名が文政5年(1822)5月21日付けで神楽役として風折烏帽子と狩衣の着用を許可された書状『神楽役裁許状』が当社に残されている。また、安政2年(1855)2月18日付けで江戸幕府から青木兵庫宛の神楽役の鑑札といえる職札、及び職札の書き替え料の受取覚が残されている。これら以前の神楽に関する資料としては、当社の神主河野長門守盛吉が記した『要用集』に「享保4年(1719)己亥3月太々御神楽執行有願主騎西町場講中」との記録があり、神楽が享保4年以前から伝承されていたことは明らかである。 神楽役は舞方と囃子方で構成されており、囃子方は太鼓・鞨鼓・笛の楽器をそれぞれ一人ずつ担当する。神楽師は舞と囃子子の両方の役を受け持つことができるように伝習している。父子相伝により伝えられてきた神楽は、現在は玉敷神社の氏子に広く開かれた形での後継者の育成が考えられている。 神楽舞 当社の神楽は江戸神楽に類似しているが、むしろ江戸神楽の古い形式を伝える素朴で明るさと品位に満ちたもので、一部に演劇的な側面をも有したものもある、一曲一座形式の一六座で、他に現在は上演されてない番外の一座を加えて一七座の構成である。 神楽の順位は、第一番「幣の舞」、第二番「伊邪那岐・伊邪那美の連れ舞」、第三番「五行の舞」、第四番「おかめの舞」、第五番「戸隠の舞」、第六番「矢先の白狐・稲荷神の舞」、第七番「鹿島・香取の連れ舞」、第八番「春日明神の舞」、第九番「諏訪明神の舞」、第一○番「鬼に鍾旭の舞」、第一一番「鈿女命の舞・猿田彦神の舞」、第一二番「恵比寿の舞」、第一三番「松尾の舞」、第一四番「竜神の舞」、第一五番「山の神の舞」、第一六番「山めぐり」、番外「天岩戸の舞」、の順番である。 舞は囃子の速度によって平神楽、中速神楽、速神楽に分けられる。平神楽はゆったりとした曲調、速神楽は速い曲調、中速神楽は平と速神楽の中間の軽快な曲調である。他に舞の前半に演奏される太鼓と鞨鼓による囃子がある。 当社には現在は歌われていないが、次のような神楽歌が残されている。 窟出祭歌 真賢木于 懸矣御清丸 八咫鏡 十握之剣 神依矣 神楽之楽 神感于 依然只感只 神事于 神出生已 地従天于蕨 お獅子様 玉敷神社の神宝であるお獅子様は五穀豊穣・家内安全の祈祷のために各地に貸し出されている。お獅子様は猿田彦の面と御神宝・剣の三つが一組となっている。 一般的な祀り方の例は、迎えたお獅子様をそれぞれ地元の神社の前に安置してお祀りした後に行事が村回りをしてお祓いをする。珍しい例としては、群馬県玉村町の上福島地区では村回りの折りに輪切りの大根に鍋墨を付け、それで村人の顔に塗って無病息災を願う墨付け祭りがある。 お獅子様を迎えてお祓いを行う信仰地域は、主に県の北東部を流れる元荒川流域の市町村に広がり、遠くは群馬県の玉村町や板倉町に及んでいる。県内では、地元騎西町の他に行田市・羽生市・加須市・久喜市・蓮田市・桶川市・鴻巣市・北本市・熊谷市・深谷市・大利根町・北川辺町・白岡町・菖蒲町・吹上町・妻沼町・宮代町・栗橋町・吉見町・南河原村・川里村・大里村の22市町村にわたり、これはかつての当社の氏子圏を遙かに越えた広い範囲である。これらの地域には「久伊豆」という神社が祀られている例が多くみられ、玉敷神社が江戸時代まで「勅願所玉敷神社・久伊豆大明神」と呼ばれていたことと共通している。 お獅子様のかつての信仰圏を知るための資料としては文政11年(1828)正月吉日の「御獅子定日簿」がある。この文書はお獅子様の御利益を求めてお迎えにくる信者の人々のために貸し出しの日を定めたものである。その地域は騎西町をはじめとして北埼玉・南埼玉・大里・北足立・北葛飾郡等の七九ヵ村が記されている。貸し出しは原則として日帰りであるが、遠方の地域には「御隠居」と称してお獅子様を泊めることもあった。お獅子様の貸し出しの時期は旧暦の2月1日から6月22日まで記されており、2月から4月は秋の豊作を、6・6月は無病息災を祈念して迎えられた。 祈祷内容の具体的な文書としては、慶応4年(1868)6月にお獅子様の由緒を述べて寄付を募った『玉敷神社神宝御獅子寄付帳』がある。幡羅郡江袋村(現大里郡妻沼町)では疫病が流行して村中の人々が苦しみ、この窮状を解決するには神仏の加護を求めるより方法が無いということになった。そこで霊徳の高いことで各地に知れ渡っていた武蔵国騎西の鎮守・玉敷神社の御神宝であるお獅子様を村に迎え、村の各家をお祓いして廻ったところ数百人の病人は速やかに全快した。これ以後、村人は講を組織して毎年6月24日にお獅子様を迎えることにしたとされている。生活の安寧を望む人々の願いは、いつの時代も止むことはない。お獅子様の行事は、氏子圏を越えて多くの人々に求められ支えられている。 開運の達磨市 毎年2月1日になると玉敷神社の参道に達磨を販売する露店が設けられて市がたつ。明治初期までは越谷市大袋で製造された達磨が多く取引されていた。その後、明治15年からは高崎方面の業者の達磨も扱われるようになっている。市の当日は北埼玉郡の各地から達磨を購入しにくる人たちで賑わう。達磨は農作物の豊作・商売繁盛・招福を祈願して、片目を入れて神棚に置かれ、願いが叶うともう一つの目を書き加えられて焼き払われ、新しい達磨に代えられる。 明神様の御神湯 当社の境内には井戸があり、その水は霊験あらたかで薬水・お助け水と呼ばれていた。 ある時、20年間の長きにわたって病床にいた明神の氏子が祈祷したところ、明神の水を温めて入浴するようとのお告げがあった。そこで神水を風呂に入れて繰り返し入浴したところ一ヵ月あまりで全快した。彼は風呂屋を始め、神湯として人々に勧めたという。以後、昭和40年代にいたるまで明神の水でお風呂をたてるとどんな難病でも治るといわれ、特に皮膚病・傷に効果があった。入浴に際しては、風呂の縁に腰掛けないこと、風呂場に唾をはかないこと、歌を歌わないこと等の決まりがあった。また、入浴料は任意の賽銭とされ、その賽銭が風呂の維持費に当てられた。往時は入浴をした後に、神水を一升瓶に入れて持ち帰る人も多かったが、今では風呂は無くなったが、境内には神水の井戸が残されており、現在でも「貰い水」に訪れる信者は多い。 お馬くぐり 神殿の東側の神馬舎に木造の雌雄二頭の馬が納められている。馬は古くから家畜として飼育されてきたが、神の乗り物、神の使いとも考えられ、絵馬の奉納や馬頭観世音の信仰行事が各地に伝えられている。当社の神馬像は、天明5年3月吉日の銘があるものと明治14年に奉納されたもの各一頭である。かつて近辺の村々では、はしかが流行すると子供がはしかにかからないように、あるいはかかっても軽いうちに治るように願って、当社を参拝して二頭の馬の腹下をくぐったという。 戦後は、はしかも流行しなくなり、お馬くぐりの行事も見られなくなったが、近時、神馬像の修復を機に子供達の健康と成長を祈願するお馬くぐりの行事が復活した。 天然記念物の大藤 玉敷神社は緑に恵まれ、神社の背後には1500uあまりの照葉樹林の県指定「ふるさとの森」があり、神社の東側には大正13年に造成された12,000uの神苑がある。現在は玉敷公園として整備されて市民の憩いの場所になっている。この公園の東北隅に樹齢300年以上と推定される藤の巨木がある。藤は、落葉灌木で山野に自生していることが多い植物であるが、花か美しいので公園や庭園に植えられて観賞される、玉敷公園の藤は、直径1m以上の幹から延びた枝がし700uに及ぶ広さで、淡紫色の美しい花をつける。毎年4月下旬から5月上句の開花期の藤祭りには、長さ1mを越える見事な花房を付けて、花見客を楽しませてくれる。 主な文化財 ◎神楽 県指定無形民俗文化財 江戸系統の神楽で、一社相伝の古式を伝える。一六座外一座からなる。 ◎神楽講の大絵馬 町指定文化財 ◎算額 町指定文化財 大正4年奉納、問題15問。 ◎三十番神像 町指定文化財 ◎藤 町指定天然記念物 樹齢300年あまり、花房約1m、昭和8年戸室の若山氏からの寄付。 ◎いちょう 町指定天然記念物 ◎社殿 本殿・幣殿は文化13年(1816)建立で銅板葺。 拝殿は明治31年修築で千鳥破風・向拝付き・銅板葺。 ◎神楽殿 天保7年(1836)建築で萱葺・腰高三方吹き抜け、舞台は二間四方・高欄付き、奥手に囃子座・楽屋。 ◎文書(中世〜近世) 寛永4年(1627)の『大久保忠職寄進状』 元禄〜享保年問の神主河野長門守盛吉『要用集』 文政5年(1822)の玉敷神社『神楽役裁許状』 安政2年(1855)玉敷神社神楽役『職札』 慶応4年(1868)の『玉敷神社神宝御獅子寄付帳』 文政2年(1828)の『御獅子予定日簿』 主な祭行事 1月1日 歳旦祭 2月1日 初春祭 越谷・高崎方面で作られた達磨を販売する達磨市が開かれ、露店商と五穀豊穣・家内安全を願って達磨を求める人々で賑わう。神楽奉奏。 2月節分 年越祭 厄除け祈願の鬼追式が行われる。 5月5日 春季大祭 神楽奉奏。4月末から5月上句のゴールデンウィークは藤祭りと各種の催物で賑わう。 7月15日 夏季大祭 神楽奉奏。神輿渡御。(神幸は7月第2日曜日、還幸は7月第4日曜日) 12月1・2日例祭 神楽奉奏 さきたま文庫26玉敷神社 |
玉敷神社 鎮座地 埼玉県北埼玉郡騎西町(きさいまち)大字騎西552番地 ご祭神 大己貴命(おおなむちのみこと) またのお名を『大国主命』(おおくにぬしのみこと) お名前の音がインドの招福の神、「大黒天」とも通じることから「だいこくさま」とも呼ばれ、「七副神」の神として親しまれている ・詩歌、医道、豊作、商売繁盛の神さまとして深く信仰されている ご神徳 厄除開運・縁結び・安産 創建 大宝3年(703) 第42代・文武天皇の治世(一説には第13代・成務天皇6年 136年とも言う) 社殿 本殿・幣殿(社殿奥側)文化13年(1816)建築 拝殿(社殿手前)明治31年(1898)修築 *「神楽殿」は天保7年(1836)の建築 外周を飾る彫り物は、当時、江戸三名工の一人と言われた五代目後藤茂右衛門の手によるものである ご由緒 当社は平安時代初期の延長5年(927)に公布された法制の書である『延喜式』にその名を記す(*「式内社」)由緒ある古社である。 *全国に2861社ある「式内社」(しきないしゃ)の内の1社以来、人々の広い尊崇を集めてきたが、天正2年(1574)の戦国期、越後の上杉謙信が関東に出兵した際に放った火がもとで社殿(当時は、現在地より北方数百メートルの正能村一現騎西町正能一に鎮座)や古記録・宝物などことごとく炎上・焼失した。 江戸時代に入り、根古屋村(現騎西町根古屋)にあった騎西城(廃城)の大手門前に一時再建されたが、程なくして(1620頃)現在の地に移転され、今日に至っている。 当社は、江戸時代「玉敷神社・久伊豆大明神」と称し、旧埼玉郡(現南北両埼玉郡)の総鎮守、騎西領48ヶ村の氏神でもあって、広い地域の住民から「騎西の明神様」の名で親しまれてきた。このことから、各地に「久伊豆社」(ひさいずしや)と称するご分霊社が数多く建立されることともなった。久伊豆社のご本社的な存在である 当社のこ神宝を貸し出す「お獅子さま」やご神水の信仰も有名である。 主な祭礼 1/1歳且祭・2/1初春祭・2月節分年越祭 5/5春季大祭・7/15夏季大祭・12/1例祭 ・2/1,5/5,7/15,12/1の年4回、祭典終了後(午後)『玉敷神社神楽』(埼玉県指定無形民俗文化財)を奉奏 社頭掲示板 |
鎭座地の変遷 『要用集』始め騎西領正能村にあつたが、上杉謙信の兵火により根古屋城の追手門前に移る。その後大久保加賀守により現今の地に遷 『神社縁起』最初埼玉村にあつたが、後に正能に移り、そこで上杉謙信の兵火のために、御朱印・宝物等焼失、元和4年(1618)當地に遷宮 『河野省三説 騎西町の沿革』永禄年間、謙信の兵火にかかつた際、その大手門(根古屋の私市城)前に在つた玉敷神社(久伊豆明神社)は、一旦、正能村に遷り、江戸時代の初に至り、大久保加賀守が領主であつた頃、現在の地、即ち當時既に鎭座していた宮目神社の境内に遷。 社頭掲示板 |