玉敷神社
たましきじんじゃ


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【ご由緒】

当神社は文武(もんむ)天皇の大宝3年(703)に多治比真人三宅麿が東山道鎮撫使として武蔵の国下った時に創建したものといわれ[一説には成務天皇6年(136)の創建とも言う]、平安時代初期、醍醐天皇の延長5年(927)に公布された当時の法制の書「延喜式」の中にその名を記されている由緒ある古社である。以来この地方の人々の広い尊崇を集めてきたが、戦国時代の天正2年(1574)上杉謙信の関東出兵の際、当時今の所より北方数百メートルの正能村(現加須市正能)の地にあった当神社はその兵火にかかり炎上、社殿をはじめ、古記録・宝物など悉く消失した。徳川時代に入り、嘗て根古屋村(現加須市根古屋)に在った騎西城の大手門前に遷座再建されたが、やがて程なくして1627年頃に現在の地に移転鎮座され、今日に至っている。当神社へ江戸時代まで「勅願所玉敷神社、久伊豆大明神」と称し、旧埼玉郡(現南北両埼玉郡)の総鎮守であり、騎西領48箇村の氏神でもあって、広い地域の住民から「騎西の明神様」の名で親しまれ、深い信仰を受けていた。このことから、各地に久伊豆社と称する御分霊社が数多く建立されることともなった。なお現在の社殿は本殿と幣殿が文化13年(1816)の建築であり、その外周を飾る彫刻は当時、江戸三名工の1人として言われた五代目後藤師茂右衛門の作である。また、拝殿は明治31年(1898)の修築に成るものである。
御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
大己貴命はまたの御名を大国主命とも申し上げて、勝れたご武勇と深いご慈愛とによって出雲国を始め広く各地方を平定され、国土開発を成し遂げられた偉大な祖神(おやがみ)であられる。その御神徳は広大であるが、特に青年時代の命(みこと)が襲い来る幾多の困難にすべて打ち勝たれて、英雄的な神になられた神話から厄除開運の徳を、そして文武両道に秀られた魅力的な男神であられて、多くの姫神とのロマンスを持たれた物語から縁結び・安産の徳を称されておられる。また、詩歌や医道の神でもあり、さらにお名前の「大国」の音がインドの招福の神、大黒天と通ずることから豊作や商売繁昌の神としても深く信仰されておられる。
お獅子さま
近郷の人達が当神社の神宝である獅子頭(ししがしら)をそれぞれの地区に迎えて、五穀豊作、家内安全を祈る特有の祓えの信仰行事である。この行事の発生年代は明らかではないが、文政11年(1828)の貸出簿があることから、それ以前に始まったことは確かである。行事は春・夏に多く行われるが、3、4月の祓えは秋の豊作を祈念するもの、7月の祓えは地区の人達の無病息災を祈るものであったと思われる。現在、お獅子さまを迎える地域は、嘗ての南・北両埼玉、北葛飾、大里および北足立各郡内の市町村などのほか群馬県、茨城県の一部に跨り、その地区の数は170カ所以上に及んでいる。
玉敷神社神楽
当神社は江戸神楽の原型を伝える素朴・典雅な舞から成っている。その発生の時期は不明であるが、当神社が昔鎮座した正能地区の人達が代々神楽師を勤め、父子相伝によって技芸を保持して来たという伝統があることから400年以上の歴史をもつことは確かである。曲目は番外の1座を加えて17座あり、多くの特色を有しているため、国の重要無形文化財に指定されており、年4回、祭礼の折に奉奏される。
神苑の大藤
当神社の東側に大正13年(1924)に造成された12000u余の神苑がある。現在は市の管理に委ねられ、玉敷公園の名の下に整備されて市民の憩いの場となっているが、その東北隅に樹齢400年以上を誇る藤の巨木がある。直径1mを超える幹から伸びた枝の広がりは約700uに及び、毎年4月末ごろから5月上旬にかけて長さ1mを超える見事な花房を見せてくれる。この時期1週間にわたる藤祭り(市観光協会主催)には、大勢の花見客が各地から訪れる。

公式HP



【玉敷神社】

埼玉県北埼玉郡騎西町。旧県社。近世まで久伊豆とも称し、俗に騎西の明神様として旧騎西領(現、埼玉地方)四八力村の総氏神。式内社。境内に地主神としてもう一つの式内社と目される宮目神社(祭神、大宮売命)がある。12月1、2日の例祭には専属神楽の奉奏があるが、ことに古来「御獅子様」と称する神宝が祭神の御分霊として春期に農村各地に迎えられて祓祭をする習俗があり、その範囲は南北埼玉・大里・北足立の諸郡から遠く群馬・茨城両県の一部にも及んでいる。

神社辞典



玉敷神社

乎安時代初期に公布された、「延喜式神名帳」にその名を載せる古社である。
当赴に伝わる江戸中期の記録によれば、元は正能地区にあったが、上杉謙信の関東出兵の際焼失した。その後、一時根古屋の騎西城大手門付近(現在の前玉神社)に移ったが、城内でたびたび出火するため、頬焼をおそれて、この地に遷座したという。
当杜はかつて、久伊豆明神とも称し、元荒川流滅に数多く所在する久伊豆神社の本社的存在とも言われている。
社叢は地域肉の社寺林等の核的存在であり、当地方の種相林を示すカシ・スダジイを中心とする林となっており、数多くの動植物に恵まれてる

社頭掲示板



玉敷神社

玉敷は多萬之岐と訓べし〇祭神大己貴命、(地名記)〇騎西町に在す、(同上)今久伊豆大明神と称す、
例祭月日、

神社覈録



郷社 玉敷神社

祭神 大己貴命 天照大御神 豊受大神
伊弉諾尊 軻遇突智命
本社は元と久伊豆神社と称せしが、近來式社玉敷神社に擬せられ今の號に改めたり、当社果して式杜玉敷神社なりや否や、武蔵式社考、当社を以て玉敷神社とし、神社覈録亦当社とす、確証ありしにあらずと雖も、特選神名牒又当社を以て玉敷神社として云く、
「今按、注進状ニ証跡詳カナラネド、往古同郡根古屋村ニアリシヲ、正能村へ移シ、慶長中又今ノ地ニ移セリト、土人ノ口碑ニ存シ、根古屋正能ノ両村ニ古宮蹟ト云フ処アルモ一証ニ備フベシ、」
と、創立年代詳ならず、或は成務天皇6年、武藏國造兄多毛比命、出雲大社の分霊を奉遷せりと傳へ、或は文武天皇大宝3年多治比興人三宅麿、之を創祀すと云ふ、永禄5年3月、上杉謙信私市城攻撃の際、兵焚に罹り、正能村より根古屋村に遷し奉り、元和4年、騎西領主大久保加賀守、更に現社地即ち宮目神社々域に社殿を営み、社領七石を寄附し、後ち寛永4年又根古屋村の地二反二畝を寄附し奉る、古来騎西領中の総鎮守にして、古社なり、東鑑に「建久5年6月晦日、於武藏國大河戸御厨、久伊豆宮神人喧嘩出來」云々と見えたるは当社なるべし、明治5年郷社に列し、31年11月、境内社内宮社外三社を本社に合祀す、社殿は本殿、幣殿、拝殿其他神樂殿、額殿等あり、境内3629坪(官有地第一種)鬱蒼たる老杉古松、四圍を遮り自ら一境域を為す、新編武蔵風土記一異説を記す、云々、
「又伝記ニ、当社ハ宣化天皇八代ノ後胤從五位上木工頭丹治貞成ノ霊社ナリ、貞成ノ子峯成、私市党ノ始祖ナリ、後略シテ私ノ党ト唱フ、此人ノ弟ヲ貞峯ト云、丹治党ノ始租ナリ、略シテ丹ノ党ト云フ、此二党ノ子孫分レテ武州ニ多シ、其子孫ノ居所多ク此神社ヲ祭レリト、サレバ峯成ノ父貞成ヲ祭レリト云フ、所謂アルニ似タリ。」
当社境内社に宮目神社を以て社伝社内とすと雖も、神社覈録所引の地名記を除くの外、多く之れを非とす、当社寳物に猿田彦及獅子の面あり、共に春日の作と傳へたり。

明治神社誌料






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