桜井神社
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   【延喜式神名帳】桜井神社 和泉国 大鳥郡鎮座
          (摂社)山井神社
          (摂社)国神社(鉢ヶ峯寺)
          (摂社)国神社

   【現社名】桜井神社
   【住所】大阪府堺市南区片蔵645番地
       北緯34度29分6秒,東経135度30分23秒
   【祭神】誉田別命 足仲彦命 息長帶比売命
       『神名帳考証』「阿智使主」

       社伝によれば祭神は桜井朝臣の祖神である「武内宿禰命」であつた。

   【例祭】10月第1日曜日 例祭
   【社格】旧府社
   【由緒】推古天皇5年の創祀
       建武4年(1337)上神常儀社殿を造営
       天正5年(1577)織田信長の根来寺征討の兵火に罹る
       後上神谷八幡宮とも称して往時の隆昌に戻つた
       明治5年(1872)郷社
       同43年1月に村社山井神社(栂字奥井戸)を合祀
       同年2月に村社国神社(鉢ケ峯村)を合祀
       昭和17年1月4日府社

   【関係氏族】桜井朝臣
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・神饌所・宝庫・神輿庫・絵馬舎・神門・社務所・氏子参集所

   【境内社】国神社・山井神社・菅原神社・玉桂屋神社・稻荷神社
       市杵島神社・八坂神社・若宮神社・高良神社・武内神社
       多賀神社・住吉神社・春日神社


妙見川南岸に接して鎮座する。
桜井朝臣がこの地に居住して、その祀神である武内宿祢命を祀ったと伝わっている。
推古天皇5年(597)に八幡宮を合祀し上神谷八幡宮とも称せられた。
古来、和泉国大鳥郡上神郷の総鎮守として尊崇された。
中世神域広大で社殿また荘厳を極めたが、天正5年(1577)織田信長の紀伊根来寺征伐の兵火にかかり、拝殿と本殿を残して焼失した。
この拝殿は中央に「馬道」という土間の通り抜け部分を持つ割拝殿形式で、鎌倉時代の建築の特色をよくあらわしており。大正6年国宝に指定された。
当社境内の西、川の北岸に桜井の古跡がある。当社御祭神に深い縁故を有し古来夏祭に御神幸あり、常に清水湧出により桜井井戸と称されたが、明治18年河川氾濫して埋没、大正4年御大典記念に復旧、井戸は現存しない。


由緒

当社の創立は悠遠の時代で、社記及び諸文献には古代当地方に居住の桜井朝臣の一族がその祖先武内宿禰命を奉斎した事を伝えている。推古天皇5年(597)に八幡宮を合祀され上神谷八幡宮とも称せられ、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を奉斎している。古来、和泉国大鳥郡上神郷の総鎮守として醍醐天皇延喜の制(967)には官幣社に列せられた。歴代皇室の御崇敬厚く、事に当って度度祈願を仰出され、神領として荘田を寄進せられた。中世武家の尊崇深く、建武4年(1337)上神城主上神常儀は社殿を造営し、元亀2年(1571)小谷城主小谷甚八郎政種は、三好氏との戦に分捕した陣鐘を奉納し、鐘撞料として御供田を献納した。また南北朝時代(1336)には、当社及び氏子は南朝に属し、上神・和田・桜井・木寺等の武将は、度度戦勝の祈願をこめ、御供田を献納して当社の奉護に尽した。中世神宮寺建立以来、神仏習合の霊場として近郷はもちろん、河内・堺方面より参詣者が続いて隆盛を極めた。今当社に残る古文書や石燈篭には、これら篤信者の名が記されている。神域広大で社殿また荘厳を極めたが、天正5年(1577)織田信長の紀伊根来寺征伐の兵火にかかり、神宝古記録を焼失し、神領も没収せられ、社頭は一時荒廃した。その後、天正16年(1588)加藤主計守清正の発願により、先ず阿弥陀堂が再建せられ、(最近棟札写し発見)次いで元禄15年(1702)神門を再建、更に享保16年(1731)には鐘楼と宝蔵が再建せられ、漸く旧観に復した。慶応4年(1868)神仏分離に際し、仏像仏具経巻等は、片蔵の金福寺へ移管し、阿弥陀堂は、別所の法華寺へ譲渡した。又鐘楼は、神輿庫に改造し現存している。明治5年郷社に列し、同41年から43年には旧上神谷村内の国神社他九社を合併した。大正6年拝殿が特別保護建造物に指定せられ、昭和3年にはその解体修理が行なわれた。又同6年には中門と透塀を新築し、更に16年には社務所の移転改築と境内の整備を完成し、社頭の面目を一新した。翌17年には府社に昇格せられ、一層神威の尊厳を加えた。戦後昭和26年文化財保護法の施行に基き、当社拝殿は昭和28年11月14日大阪の神社では住吉大社本殿四社とともに国宝建造物に指定をうけ、昭和53年屋根葺替等保存修理が行なわれた。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




国宝

桜井神社拝殿(さくらいじんじゃ はいでん)
国宝
鎌倉時代
桜井神社は平安初期の法令集「延喜式」に記述の見える由緒ある古社であるが、1577年織田信長の根来攻めの際、拝殿と本殿を残して焼失した。
拝殿は中央に「馬道」という土間の通り抜け部分を持つ割拝殿形式で、鎌倉時代の建築の特色をよくあらわしている。大正6年国宝に指定された。

社頭掲示板



桜井神社由緒略記

当社の創立は悠遠の時代で、社記及び諸文献には古代当地方に居住の桜井朝臣の一族がその祖先武内宿禰命を奉斎した事を伝えている。推古天皇5年(597)に八幡宮を合祀され上神谷八幡宮とも称せられ、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を奉斎している。 古来、和泉国大鳥郡上神郷の総鎮守として醍醐天皇延喜の制(967)には官幣社に列せられた。歴代皇室の御崇敬厚く、事に当って度度祈願を仰出され、神領として荘田を寄進せられた。
中世武家の尊崇深く、建武4年(1337)上神城主上神常儀は社殿を造営し、元亀2年(1571)小谷城主小谷甚八郎政種は、三好氏との戦に分捕した陣鐘を奉納し、鐘撞料として御供田を献納した。
また南北朝時代(1336)には、当社及氏子は南朝に属し、上神・和田・桜井・木寺等の武将は、度々戦勝の祈願をこめ、御供田を献納して当社の奉護に尽した。
中世神宮寺建立以来、神仏習合の霊場として近郷は勿論、河内・堺方面より参詣者が続いて隆盛を極めた。今当社に残る古文書や石燈篭には、これら篤信者の名が記されている。
神域広大で社殿また荘厳を極めたが、天正5年(1577)織田信長の紀伊根来寺征伐の兵火にかかり、神宝古記録を焼失し、神領も没収せられ、社頭は一時荒廃した。
その後、天正16年(1588)加藤主計守清正の発願に依り、先づ阿弥陀堂が再建せられ、(最近棟札写発見)次いで元禄15年(1702)神門を再建、更に享保16年(1731)には鐘楼と宝蔵が再建せられ、漸く旧観に復した。
慶応4年(1868)神仏分離に際し、仏像仏具経巻等は、片蔵の金福寺へ移管し、阿弥陀堂は、別所の法華寺へ譲渡した。又鐘楼は、神輿庫に改造し現存している。
明治5年郷社に列し、同41年から43年には旧上神谷村内の国神社外九社を合併した。大正6年拝殿が特別保護建造物に指定せられ、昭和3年にはその解体修理が行われた。又同6年には中門と透塀を新築し、更に16年には社務所の移転改築と境内の整備を完成し、社頭の面目を一新した。翌17年には府社に昇格せられ、一層神威の尊厳を加えた。
戦後昭和26年文化財保護法の施行に基き、当社拝殿は昭和28年11月14日大阪の神社建築では住吉大社本殿四社とともに国宝建造物に指定をうけ、昭和53年屋根葺替等保存修理が行われた。
国宝、拝殿は鎌倉時代前期(1185)の建築である。木造切妻造・本瓦葺で、屋根の勾配が緩く、軒廻りは、円柱の上に舟肘木を置いて桁を受けている。妻飾は、梁間一ぱいに大虹梁を架け、蟇股二個を置き、その上に虹梁を架け、また蟇股を置いて棟木を受けている。いわゆる二重虹梁蟇股式の古い構架法である。内部は中央を土間の通路(馬道)とした割拝殿で、左右の間は板張で桟唐戸を入れている。この拝殿の特徴は、化粧屋根裏をはじめ、各部に簡素明快な鎌倉建築の手法を表わし、特に妻飾の二重虹梁蟇股の繰形が雄健で、神社拝殿としては最古の建築である。
府有形文化財国神社石燈篭は、「鉢峯山長福寺五所権現、応永19年3月17日勧進良秀」の銘文があり、松平定信の「集古十種」(1800)に載録された府下有数の古灯である。平成5年3月26日大阪府、堺市の補助により補修のあと境内神具庫に保存している。 宝物は、神像・神鏡・神輿・神額・狛犬・獅子頭・棟札・制札・出土品・古鈴・古瓦等で鎌倉室町時代(1185〜1336)の物が多い。なかでも国神社神像三躯は府の有形文化財の指定をうけている。
古文書は、南北朝時代の争乱と、天正年間の兵火のため大半亡失したが、尚数百通あり。その内「中村結鎮御頭次第」二巻は、正平6年(1351)より明治5年まで520年間年々書継いだ宮座記録で、南北朝時代の公武勢力の興廃と、神社を中心とした社会秩序を知る他に類例のない貴重な史料である。
国の無形民俗文化財「こおどり」は、古来鉢ケ峯寺氏子が国神社に奉納して来た神事舞踊である。音頭取の歌に合せて、「ひめこ」を背負った赤黒の鬼神と、三尺棒を持った赤黒の天狗四人を中心に、一文字笠紋付に締太鼓を持った太鼓打八人と鐘打、扇振が新発知を先頭に外踊、鐘と大鼓の囃子で踊る古典的な郷土芸能で、明治43年当社が桜井神社に合併以来その秋祭に奉納され、現在は10月第一日曜日の例祭に行われる。
御祭神
式内 桜井神社本社 中殿 応神天皇 東殿仲哀天皇 西殿神功皇后
式内 国神社 天照皇大神 熊野大神 山王大神 金峯大神 白山大神
式内 山井神社 美豆波乃女命
稲荷神社  保食神
戎神社   蛭子神 言代主命
招魂社   氏子戦死者 一八三柱
八阪神社  須佐之男命
若宮神社  仁徳天皇
高良神社  高良大神
武内神社  武内宿禰命
多賀神社  伊邪那伎命
玉桂屋神社 玉桂姫命
住吉神社  住吉大神
市杵島神社 市杵島姫命
春日神社  天児屋根命
菅原神社  菅原道真命
祭礼等
歳旦祭   1月1日
元始祭   1月3日
戎祭    1月9・10・11日
節分祭   2月節分の日
初午祭   3月中旬
大祓式   6月20日
夏祭    7月15日
例祭
氏子入 こおどり奉納
      10月6日(行事は第一日曜)
七・五・三祭 11月中
大祓式   12月31日
除夜祭   12月31日
襲の峯(堺市鉢ケ峯公園山頂)
もと国神社境内地に接し小倉峯とも呼ばれ法道寺縁起の国神社御祭神降臨の霊跡で古墳の形状をなし石祠がまつられている。故にこの地を神の郷と言い旧村名もこれに因んで明治27年には上神谷村と名づけられた。
桜井
当社境内の西に隣接して当社御祭神に深い縁故を有し古来夏祭に御神幸あり、常に清水湧出により桜井井戸と称されたが、明治18年河川氾濫して埋没、大正4年御大典記念に復旧、井戸は現存しない。
亀塚(福塚)
福塚とも言い当社本殿の傍にあり、正八幡宮縁起に推古天皇5年8月8日亀乙と呼ぶ老翁現われ当社御神像を刻んで形亡せその跡に土を封じて亀塚と名づく。神仏混渚時代境内には神宮寺があり、山号は亀遊山である。

由緒書



社宝

国神社神像三体
もと国神社に伝わる男・女神像(木彫)3体は藤原後期の作と推定され、府の有形文化財の指定をうけている。 国神社石燈篭
府有形文化財国神社石燈篭は、「鉢峯山長福寺五所権現、応永19年3月17日勧進良秀」の銘文があり、松平定信の「集古十種」(1800)に載録された府下有数の古灯である。平成5年3月26日大阪府、堺市の補助により補修のあと桜井神社神具庫に保存している。 「こおどり」
国の無形民俗文化財「こおどり」は、古来鉢ケ峯寺氏子が国神社に奉納して来た神事舞踊である。音頭取の歌に合せて、「ひめこ」を背負った赤黒の鬼神と、三尺棒を持った赤黒の天狗四人を中心に、一文字笠紋付に締太鼓を持った太鼓打八人と鐘打、扇振が新発知を先頭に外踊、鐘と大鼓の囃子で踊る古典的な郷土芸能で、明治43年当社が桜井神社に合併以来その秋祭に奉納されている。

社頭掲示板



桜井古跡

桜井井戸と呼ばれ、悠久の昔より桜井神社御祭典に深い縁故を有し、古来夏祭りに御神幸あり、和泉名所図絵にも登載の古跡である。 常に清水湧出して枯渇することがなかったが、明治18年(1885)の大洪水により河川氾濫して埋没、大正4年(1915)御大典記念に30年ぶり復旧、さらに平成元年(1989)妙見川拡幅、宮橋架け替え工事の竣工により整備保存されたが、井戸は現存しない。 平成元年10月31日

社頭掲示板



国宝 櫻井神社拝殿

この拝殿は神社の祭礼を行う建物で、建立は鎌倉前期と推定されている。
中央間を土間の通路とした割拝殿で、架構方法は二重虹梁蟇股といわれる奈良時代以来の伝統的な形式となっている。装飾的な要素をひかえた明快な建物で、各部に鎌倉時代の特色をよく示している。大正6年国の特別保護建造物に詣定され、昭和3年解体修理が行われ、同28年文化財保護法に基づき国宝に指定された。その後同53年屋根葺替等保存修理を行う。
神杜拝殿最古の遺講として貴重な建物である。
大阪府教育委員会

社頭掲示板



桜井神社

さくらいじんじや 大阪府堺市片蔵。旧府社。誉田別命・足仲彦命・息長帯比売命を祀る。当社は『延喜式神名帳』にもみえる古社であるが、俗に上神谷の八幡宮と称され、武家の崇敬をうけていた。また神宮寺が建立されてより神仏習合の形態が整い、境内に堂塔が建てられていた。天正5年(1577)織田信長の紀州根来寺攻略の際、兵火に罹り、社頭は一時荒廃した。その後、天正16年(1588)加藤清正の発願により、阿弥陀堂が再建されたほか、元禄15年(1702)、享保16年(1731)と年々造営がなされ、ようやく旧観に復したが、明治維新の神仏分離に際し、再びその厄に遭い、神輿庫に改造した鐘楼堂以外にすべて廃絶させてしまった。当社拝殿は鎌倉時代前期の遺構様式を伝える正面五間、側面三間の単層切妻平入造(本瓦葺)で国宝建造物に指定されている。例祭10月5日。
この日上神谷のこおどりと称される鬼踊(無形文化財)が奉納される。

神社辞典



郷社 櫻井神社

祭神 譽田別命 息長帯姫命 足仲彦命
推古天皇5年8月8日午の刻、西北の空より光気雲に映じて、高林(今光尊の森といふ)に移り、須臾にして当社地櫻井森に留る、諸人之を怪みしが、既にして児童に託して曰く、吾は是れ八幡大神なり、國家を守護せん為に此に現はれたりと、郷民やがて創起して之を祀る(社記)御神体譽田別命、息長帯媛命は御鏡、足仲彦は極彩色の御木像なり、旧説祭神武内宿禰後に八幡を合祀すといふ、(和泉志、名所図絵)姓氏録云「(左京皇別上)櫻井朝臣、石川朝臣同祖、蘇我石川宿禰四世孫稻目宿禰大臣之後也」、また「紀朝臣、石川朝臣同祖、建内宿禰男紀角宿禰之後也、」と、神社覈録に云く、「考証に、櫻井朝臣の氏社として阿智使主を祭ると云るは、杜撰にして社伝を知らぬ誤也」と見ゆ、醍醐天皇延喜の制式内の小社に列す、大島郡二十四座の一なり、國内神名帳に「從五位上櫻井社」とあり、昔は毎年8月7日の曙より御旅所に神幸あり、17日を過ぎて放生曾の儀あり、祭式甚厳なりしが、正親町天皇天正の末年紀州根来の僧徒の乱に神宝記録焼失して社頻も荒廃に帰せしが、後郷民の崇敬によりて社殿を再興したり、(社記)明治6年郷社に列す、境内1727坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿、幣殿其他神饌所、廊下、舞台、神輿庫、神楽所、絵馬舎、神具納屋、神庫、社務所等の建物を備へ、古松老杉鬱蒼として空を蔽ひ、後には清泉流れ甚だ尊厳の感を催す、又馬場先の高地は近く金剛葛城の二山を仰ぎ、遠くは白帆行き交ふ茅沼海へだてゝ遥かに淡路島を望み風光殊に佳なり、宝物には正平6年卯年より正徳5年末年に至る、365年間の記録縁起書一巻、扁額一面、小川坊城中納言俊逸筆等あり。

明治神社誌料



櫻井神社

櫻井は左久良為と訓べし○祭神武内宿禰、後合祀八幡宮、(泉州志、式社考、)〇上神郷岸蔵村櫻井側に在す、(泉州志、和泉志、式社考、)○姓氏録、(左京皇別上)櫻井朝臣、石川朝臣同祖、蘇我石川宿禰四世孫稻目宿禰大臣之後也、また紀朝臣、石川朝臣同祖、建内宿禰男紀角宿禰之後也、
考証に、桜井朝臣の氏社として阿智使主を祭ると云るは、杜撰にして社伝を志らぬ誤也、
神位
國内神名帳云、從五位上櫻井社、

神社覈録



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