神館飯野高市本多神社
こうたついいのたかいちほんだじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】高市神社 伊勢国 河曲郡鎮座
          (合祀)大鹿三宅神社
          (比定社)飯野神社 の比定社でもある


   【現社名】神館飯野高市本多神社
   【住所】三重県鈴鹿市神戸2-18-30
       北緯34度52分54秒,東経136度34分44秒
   【祭神】天照大御神
       (配祀)豊宇気毘売神 高御産巣日神 蛭子神 事代主神 大国主神
       猿田彦神 宇加之御魂神 大宮能売神 菅原道真 速玉男神 伊邪那美神
       予母都事解男神 大山咋神 市寸島比売神 大年神 建速須佐之男神
       品陀和気神 天之児屋根命 木花佐久夜比売神 大山津見神 本多忠統

   【例祭】10月16日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】天武天皇元年(673)創立とする
       明治2年天皇御東幸の砌に奉幣代拝
       明治6年郷社
       同39年神饌幣帛供料進の指定
       明治41年町内所在の神社を合祀して「神館飯野高市神社」と単称

   【関係氏族】高市連
   【鎮座地】三日市、西條、神戸といふ順序で神社が移動したという
        弘治年中西條より神戸の現地に移転

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「神戸総社」と称していた
   【公式HP】 神館飯野高市本多神社
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】稻荷社

神戸高校の北、街中に鎮座する。
式内飯野神社・式内高市神社を祀るとする。
創立を天武天皇元年(673)とする。
神館神社は天照大神御神幸の際に立てられた御宮所に鎮座し、今日に及んでいるという。
高市神社は三日市、西條、神戸という順序で神社が移動したと伝えられている。
西條より神戸の現地に移転した時期は弘治年中で、神戸城築城の際に駅舎を移したがその際同時に神社も移転したとする。
裏参道入口に「延喜式内飯野神社、神館神社、延喜式内高市神社」の三基の石標がある。
「全国神社祭祀祭礼総合調査」では社名を「神館飯野高市本多神社(こうたついいのたかいちほんだじんじゃ)」としているが、社頭の石碑を含めて他の資料は「神館飯野高市神社」としている。


神社由緒

人皇11代垂仁天王之御宇に忝なくも倭国笠縫村より伊勢の国五十鈴川の川上に鎮座の御時に立置せ給う御宮所として其の時より鎮座し給うなり
祭神
天照大御神 高御産巣日神 豊宇気毘売神 事代主大神 猿田比古神 外14柱

社頭掲示板



御鎮座由来

第11代垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が、天照大御神の依り代である八咫鏡を笠縫村(奈良県桜井市)より各地を巡り、伊勢の五十鈴川の川上にお祀りしたことが皇大神宮のはじまりです。 当社は.その倭姫命巡幸の折、この地に暫く滞留ぜられた御宮所と伝承されており、大御神が伊勢の地に御鎮座された後は、皇大神宮の神領たりし伊勢神戸の神館神明社として奉斎されました。 往古、皇大神宮とは極めて深い御縁故と、尊崇すべき御神蹟を有する神戸総鎮守のお社です。 悠久の時を経て、弘治年間(1555年〜)神戸城築城に伴い、近在に御鎮座の飯野神社・及び高市神社(ともに延喜式内社)を合祀しました。 以隆明治2年、天皇御東幸のみぎりに奉幣代拝、明治6年に郷社に列せられました。明治41年には、神戸各町内御鎮座の複数のお社を合祀しました。そして、昭和47年に神戸城址に御鎮座の本多神社を合祀しました。更に、先の大戦で散華せられた神戸町出身の御英霊もお祀りしています。 正式名称を神舘飯野高市本多神社、通称名を神戸宗社と申し上げ、数多の神々を総じてお祀りする御神威篤きお社です。

公式HP



高市神社

高市は多介知と訓べし○祭神高市連祖歟〇神戸市中に在す、今神館社と称す、(国史)〇勢陽俚諺云、昔は西條村にあり、弘治年中神戸に遷す、○姓氏録、(右京神別下)高市連、額田部同祖、天津彦根命三世孫彦伊賀都命之後也、

神社覈録



郷社 神館、飯野、高市神社

祭神 豊宇氣毘売神 天照大御神 高御産霊神
合殿
 建速須佐之男命 大山津見命 大年神 宇迦之御魂神
 木花佐久夜毘売神 事代主神 蛭子神 狭田毘古神
 菅原神
創建年代詳ならず、相伝ふ、神館は大明神又は明神と称し、垂仁天皇御宇倭國笠縫の邑より伊勢国宇治郡五十鈴川の川上に鎮座の時に、立て置せたまふ御宮所にして、其時より鎮座ましますなりと、而して飯野及び高市の両社は後に至り此に合祀せしものなりと云ふ、即神名帳考証に云く、「飯野神社、飯豊姫、奄芸郡伊奈富神社、神戸神館社、陸奥国飯豊比売神社、越後国且飯野神牡、朝明郡石部神社、高市神社、今六呂見村称大御和社此乎、今属三重郡、彦伊賀都命、姓氏録に云く、高市縣主、天津彦根命十二世孫建許呂命之後也、同云、高市連、額田部同祖、天津彦根命三世孫伊賀都命之後也、神社覈録には、「飯野は伊比乃と訓べし、祭神飯豊姫命、神戸ノ市中神舘社に相殿に在す」と見え、勢陽俚諺によれば、昔は西條村に在り、弘治年中城主神戸茂人友盛、神舎を今の処に移すに方り飯野神社も此に遷すと云ふ、而して高市は多介知と訓べし、祭神高市連祖歟、神戸市中に在す、今神館社と称す」、又神名帳考証再考に、「高市神社、考証には、社地六呂見村御大和森に在りとす、今神戸市中に此社あり、此帳大和國高市郡の下に、御縣坐鵯事代主神社あり、縣とは、今の郡也、社号は高市より勤請したる義にて、事代主を祀る成べし。飯野神社、飯野の高宮村より分けて飯高郡を創め、神痔を置て、立野神社有事、上既にこれを注せり、此河曲郡は後に建てられたるにか、かの痔のさかんなるにならひて、此神痔に、彼に祀る所を勧請したれば、此社号ある也、今猶神館大明神、或は神明と称し、神戸市中に在りて産神とすと也」と見ゆ、勢陽俚諺に云く、昔は西條村にあり、弘治年中神戸に遷す、姓氏録前文同断」とし、共に河曲郡(明治29年河曲菴芸の二郡を合せ河芸郡銘とす)二十座の中に数へ式の小社に列す、且神祇志料に、「飯野神社、今神戸村石橋町神館神明社に合せ祭る、旧址は飯野郷西條村にあり、高市神社、今神戸村石橋町神館神明社内に合せ祭る、旧址は同村十日市町の南東にあり」と見え、五鈴遺響には、「古の神戸邑は今の西條にて、弘治年中、其東に築城ありしより、地勢変ずと、西條は近年飯野村と改め別立すとあり、延暦儀式帳並神宮雑例集等に河曲神戸三十八戸など見ゆ、又神宮雑事記には、「治暦3年河曲神戸預大鹿武則と云ふ人あり、神館社は大字石橋にあり、神明社存す」と云ひ、大日本名勝地誌には、「飯野神社、神戸町大字石橋町に在り、豊宇気比売命を祀り、相殿に高市神社あり、創立の年代未だ詳ならす、往昔飯野村にありしが、神戸城を築くの時今の地に移す、故に飯野神社と称すと、高市神社は高御産霊神を祀る、元と十日市村に在りしを後世此に遷して合祀す、例祭は毎年四月之を行ふ」と見ゆ、明治2己巳年3月15日、今上陛下御東幸に際し、勅使福羽五位を遺はし厚く奉幣代拝せしめらる、同6年3月25日第五大区の郷社に列せられ、同41年境内社稻荷社、八幡社、春日神社、子安神社、蛭子神社、稲荷社、菅原社及び村社大国社、無格社十七社を合祀す、
社殿は本殿、拝殿、神樂殿、門、井戸屋等具備し、境内坪数368坪(官有地第一種)を有す、

明治神社誌料



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