豊受大御神をお祭り申し上げる豊受大神宮は、内宮(ないくう)に対して外宮(げくう)と称している。 雄略天皇は、夢の中で天照大御神のお教えをお受けになられ、豊受大御神を丹波の国から、内宮にほど近い山田の原にお迎えされました。今からおよそ1500年の昔のことです。 豊受大御神は御饌都神(みけつかみ)とも呼ばれ、御饌、つまり神々にたてまつる食物をつかさどられています。このことから衣食住、ひろく産業の守護神としてあがめられています。 外宮の所管の宮社は三十二所を数える。 当宮の禰宜以下の神主は古くより度会姓の者が任じられてきた、天日別命を祖とする度会氏は、氏姓社会における伊勢国造の後裔氏族で、中央からの中臣氏や、新たに皇大神宮禰宜職を世襲した荒木田氏に抑えられるが、常にその誇りは強く持っていた。 当宮の南、宮域林の高倉山山頂に「高倉山古墳」がある、鎌倉時代には石室は開口され、「天の岩戸」として信仰の封象となつていた。 遺物から六世紀後半の築造と考えられる。 |
由緒 豊受大御神(とようけのおおみかみ)をお祭り申し上げる豊受大神宮は、内宮(ないくう)に対して外宮(げくう)とも申し上げます。 雄略(ゆうりゃく)天皇は、夢の中で天照大御神のお教えをお受けになられ、豊受大御神を丹波(たんば)の国から、内宮にほど近い山田の原にお迎えされました。今からおよそ1500年の昔のことです。 豊受大御神は御饌都神(みけつかみ)とも呼ばれ、御饌、つまり神々にたてまつる食物をつかさどられています。このことから衣食住、ひろく産業の守護神としてあがめられています。 内宮と同じく、正宮と呼ばれますように、建物やお祭りはほとんど内宮と同様ですが、両宮は決して並列されるものではなく、あくまで内宮が神宮の中心なのです。 この参道は外宮の表参道にあたります。入口には防火のためにつくられた掘川が流れ、火除橋(ひよけばし)がかけられています。 火除橋をわたり神域に入るとすぐ左側に手水舎があり、ここで手を洗い口をすすいで心身を清め、ご正宮へと向います。 この参道入口を古くから北御門といいます。外宮神域に入る、もう一つの入口で、第一鳥居口と同じく火除橋がかかっています。 手水舎は橋の外の左側にあります。 外宮神楽殿(げくうかぐらでん) 第二鳥居の向こう、右側にある入母屋造の建物が「外宮神楽殿」。「御神札授与所」もあります。参拝者のお申し出により、神恩感謝やご祈願の御神楽の奉奏、御饌(みけ)を奉奠しての御祈祷や献金、豊受大神宮の御神札・御守・暦・御神号軸などの授与を取り扱っています。外宮参拝記念の御朱印もここでいただいてください。また、御遷宮の御造営資金の献金の受付もしています。 ※外宮神楽殿は、平成12年12月14日に改築竣工し、現在は新しくなった御殿で御祈祷を受け付け、大々神楽、御饌をあげることができます。 正宮 皇大神宮(内宮)ご鎮座より遅れること481年、雄略天皇の御代、天照坐皇大御神のお告げによって、丹波の国(今の京都府下、天橋立付近)から、この伊勢の国度会の山田の原にお迎えした、豊受大御神をおまつりしています。唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)といわれる、建築様式のご正殿は、ほぼ内宮の正宮と規模やつくりはかわりませんが、鰹木が内宮より1本少なく、千木が外削(先端が垂直に切られている)になってます。 「別宮」と申しますのは、正宮との間柄を示すご称号でありまして、皇大神宮、豊受大神宮を、「正宮」とするのに対し、あたかも本家に対する分家の意味で、別宮と称するのであります。別宮の「宮」は宮号(きゅうごう)と称し、天皇の思し召しにより、古くは勅書(ちょくしょ)をもって、のちには官符(かんぷ)をもって、定められました。これを「宮号宣下(きゅうごうせんげ)」と申します。神社にご称号をたてまつることは、ご祭神のご神威の輝きによります。これを敬うこといよいよ厚ければ、神の御稜威(みいつ)も、いやさらに輝きをますものであります。 豊受大神宮には宮域内に3所、宮域外に1所の別宮があります。 HP |
日別朝夕大御饌祭 当宮祭祀の特色であり、創祀以來の重儀として一日も欠かさず斎行されてきたが、明治5年以来、従来の三座に加へて、皇大神宮相殿神・皇大神宮別宮・豊受大神別宮の宮座をも設け、以後両宮以下諸別宮に至るまですべて当宮の御饌殿において供進することとなつた。 現行では朝は午前8時、夕は午後4時(但し10月〜3月は、午前9時と午後3時)に斎行されている。神饌の品目は、飯・塩・水・清酒・乾鰹・生魚(あるいは干魚)・海菜・野菜・菓物である。 御饌殿は正宮の北、板垣内東北の隅にあり、掘立柱・高床で井楼組の建物。御階は一木。弥生時代以來の倉庫風の様式を有している。この御饌殿の存在は当宮の殿舎のなかでも最大の特色とされる。宮創祀と共にこの御饌殿が建てられ、朝夕の大御饌が斎行されたと傳えている。 一方『大神宮諸雑事記』によれば、神亀6年(729)以前は御饌物は豊受神宮において調備し、それを皇大神宮へ持参していた。ところがその途中の浦田山之迫道で死体に遭遇したのがそのまま供進した。一方、天皇が急に病気になられたのでト占したところ、天照大神が死に触れたための崇であるとされ、大神宮で調ベた結果、先の件が判明した。そこで早速勅使が下され大神に謝すると共に、先の件の担当者である豊受宮の神主達に大祓を科し解任した。 この事件以降日別朝夕大御饌祭は当宮御饌殿において斎行されることとなった。 |