豊受大神宮
とようけだいじんぐう


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【名称】

古くは「度会宮」「豊受宮」と称していた。その後「豊受大神宮」と称された。 中世になると当宮の禰宜達は当宮の宮号を「豊受皇大神宮」と称するようになり、この「皇」の字の使用をめぐつて、内宮の禰宜と激しい論争が生じた。双方とも朝廷に訴え、勅裁を仰いだが決着を見るには至らなかつた。
近世期、「内宮」に封して「外宮」と称呼されるのが一般的であつたが、「皇大神宮」に封して「豊受皇大神宮」、「天照皇大神宮」あるいは「天照豊受皇大神宮」などとも称し、あくまで外宮側は、両宮一体観・二宮一光の理への志向をこの宮号の称呼に秘めて明治に及んだ。


【外宮概要・公式HP】

 豊受大御神(とようけのおおみかみ)をお祀り申し上げる豊受大神宮は、内宮(ないくう)に対して外宮(げくう)とも申し上げます。
 第21代雄略(ゆうりゃく)天皇は、夢の中で天照大御神のお教えをお受けになられ、豊受大御神を丹波(たんば)の国から、内宮にほど近い山田の原にお迎えされました。今からおよそ1500年前のことです。
 豊受大御神は御饌都神(みけつかみ)とも呼ばれ、御饌、つまり神々にたてまつる食物をつかさどられています。このことから衣食住、ひろく産業の守護神としてあがめられています。
 内宮と同じく、正宮と呼ばれますように、建物やお祭りはほとんど内宮と同様ですが、両宮は決して並列されるものではなく、あくまで内宮が神宮の中心なのです。


【度会氏】

一般に伊勢神宮というとき、そこには内宮と外宮があることは多くの人が知っている。それぞれ独立の形であはるが、両宮は一体で、総称して二所大神宮、または単に大神宮・神宮といった。必要のあるときだけ内宮・外宮といい、あるいは皇大神宮、豊受大神宮と使い分けるのである。
 内宮・外宮という呼び方は、内宮の方がより高貴な神社であるからによるが、また、内宮は神路山の麓にましまし、外宮は山田原の平地部に鎮座するという地理的位置にも由来する。外宮の宮号は豊受大神宮が正式で、略して豊受宮とも呼ばれる。
 止由気宮儀式帳によれば、雄略天皇のとき、天皇の夢に天照大神が現われ、「吾れ一所のみ坐すはいと苦し、しかのみならず大御饌も安く聞こし召さず、丹波国比治の真奈井に坐す等由気大神を、我が許に連れて参れ」とおおせられた。この教えに従って丹波からお迎えしたのが豊受大神宮であるという。
 最近の学説では、豊受大神宮こそが地付きの神で、皇大神宮は大和勢力の東方発展の拠点として進出したものとし、あるいは皇大神宮はこの地方の太陽神信仰が皇祖神と結び付いたものであるとするものもある。
 祭神はさきの儀式帳の通り等由気大神で、古事記には登由宇気神とあり、現在は豊受大御神と称している。また儀式帳に、天照大神のお言葉として「我が御饌津神」とあり、豊受大神は天照大神の食事を司る神である。日別朝夕大御饌祭が毎日二度朝と晩とに外宮で行われるのはこのためで、内宮にはこの祭はない。
 延喜大神宮式によると、「度会宮四座 豊受大神一座 相殿神三座」とあり、主祭神豊受大神のほかに三柱の神があることが知られる。ただし、三神の名は明かではない。神宮では、この三神を御伴神と称し、正殿の中央に豊受大神、左右に御伴神を配祀している。
 内宮と外宮との祭祀や参拝の順序は、外宮を先とするのがならわしで、これを古来「外宮先祭」といった。
 豊受大神宮家の禰宜家は度会氏で、天日別命を祖とし、垂仁天皇のとき、大若子が越国の賊を討ってその地を神宮に寄せた功により、伊勢国造に任じられ、大神主を兼ねて神宮に奉仕するようになったという。その弟乙若子の後の乙乃古の子から四流に分かれた。
 初め石部(磯部)氏といったらしいが、単に神主ともいい、1001年神主貞雄・連信らが度会神主の姓を賜わって、子孫が大いに栄えた。檜垣・松木・久志本・佐久目・河崎・宮後の六氏は重代家と称され、さらに横地・川田・岩淵・赤畝・蒜田・吹上・大世古・村松・曽禰・松原・堤・出口・幸若などの諸氏を分出した。
 鎌倉時代に外宮の地位を高めようと計り、宮司の大中臣氏を排し、内宮と争い、伊勢神宮を中心とする神道説を唱えた。
神紋と社家の姓氏


度會宮

度會宮四座 相殿坐神三座並大月次新嘗
度曾は郡名に同じ〇祭神豊受大神(御食津神也)相殿左天津彦々火瓊々杵尊、右天児屋命、天太宝命、○沼木郷山田原に在す、外宮と称す、(神名秘書云、渡会宮者外座故申外宮)○古事記、(神代段)登山宇氣神、此者坐外宮之度相神者也、」日本紀、(神代巻下)天照大神之子正哉吾勝々速日天忍穗耳尊、娶高皇産霊尊之女拷幡干々姫、生天津彦々火瓊々杵尊、」御鎮座次第記云、左一座、皇御孫尊、御霊形金鏡坐、右二座、天児屋命、霊形笏坐、牙像也、太玉命、霊形瑞八坂瓊之曲玉、奉納圓筥也、」倭姫世記云、泊瀬朝倉宮大泊瀬稚武天皇即位21年丁巳冬10月、倭姫命夢教覚給久、皇太神吾一所不座、御饌毛安不聞食、故率手置帆負彦荻知二神之裔、以齋斧齋鋤等、始採山材、構立宝殿、而明年戊午秋7月7日、以大佐々命天、從丹波國余佐郡真井原志天、奉迎止由氣皇大神度遇山田原、」外宮儀式帳云、天照坐皇太神、始巻向玉城宮御宇天皇御世、國々処々大宮処求賜時、度曾乃宇治乃伊須々乃河上乃大宮供奉、爾時大長谷天皇御夢爾誨覚賜天、吾高天原坐弖、見志真岐賜志処爾、志都真利坐奴、然吾一所耳坐波甚苦、加以大御饌毛安不聞食坐故爾、丹波國比沼乃真名井爾坐我御饌津神、等由氣太神乎、我許欲止誨覚奉支、爾時天皇驚悟賜弖、即從丹波國令行幸弖、度会乃山佃原、下石根爾宮柱太知立、高天原爾知疑高知弖、宮定齋仕奉始支、是似御饌殿造奉弖、天照坐皇太神乃朝乃大御饌、夕乃大御饌乎日別供奉、」御鎭座伝記云、皇太神重託宣、吾祭奉仕之時、先須祭止山氣大神宮也、然後我宮祭事可勤仕也、故則諸祭事以止由氣宮為先也」神名秘書云、天照大神與豊受大神則、無上之宗霊而尊無二、故異於天下諸社、是則天地精明之本源也、無相無為大祖也、故不記佛見法見、以無相鏡假表妙体也、
連胤云、伊勢神宮と称せば、必内外両宮の事にて、官幣以下尤異ならず、故に大神宮の下に抄出して爰には略す、大神宮の下を見るべし、

神社覈録






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