社前を矢田川が流れ、社地後方は桧杉その他雑木の森林となっている。 社より東南約300mほど離れた所には、昭和53年に発掘された彌生〜室町時代の複合遺跡である「下郡遺跡」がある。 伊賀郡の郡衙は、古郡にあつた伊賀駅が壬申の乱で焼失したあと現在の上郡・下郡の地に移つたといわれており、この下郡遺跡は伊賀郡の郡衙跡ではないかと推定されている。 |
由緒 建設の神々 猪田神 健伊伊賀都別命 猪田神は、健伊賀都別命であり、伊賀臣の祖として、伊賀国守護の神であるとともに、猪川、井堰、井田、猪田と訛って、田の神・水分神として尊崇されている。 健伊賀都別命は、国造本紀によれば、垂仁天皇の皇子・意知別命の三世の孫で、成務天皇の御代、伊賀国造に定められたとある。 猪田神を祀る猪田神社が鎮座する三重県上野市下郡には、奈良時代から平安時代初期にかけての伊賀郡の郡衙跡と推定される下郡遺跡がある。また、周辺からは、古墳時代の竪穴住居跡や、奈良`平安時代の掘立柱建物跡と中世の城館跡が見つかり、古代に政治の中心だったと推測される。 伊賀郡の郡衙は、古郡にあって壬申の乱で大海人皇子に焼かれた後、現在の上郡・下郡の地に移ったとされ、郡役所の在る所として郡の地名がつけられたという。 さらにこの地は、古代条里制の名残りが認められ、猪田神社の参道もこの条理の地割りの上に通ず。伊賀では最も早く開けた地域。 伊賀臣は、一族の繁栄を祈願して氏族の祖・健伊賀都別命を神奈備の丘に祀り、住吉神も勧請して神威を周辺一七郷に及ぼした。 一方、猪川明神の垂跡として井田を猪田と改めたとも伝えられ、降臨石とされる「満珠石」が雨石さんと親しまれ、社前の矢田川に一ノ井堰があったことなどから、水分神としても尊崇された。 ◇◇◇ 猪田神社は、猪田神・住吉神を主祭神として、上野市下郡宮尻に鎮座。延喜式神名帳には、伊賀国二五座、伊賀郡一一座に列す。 郡三郷を展望する丘麓の中段の平地に標高183.6mの丘を背にして東面に立つ。社前に下郡遺跡、社後に猪田経塚がある。 社伝によれば、延暦三年、白鷺が空中を翔り、白羽の矢をくわえて松の木の上に止まる時に、その矢が光を放って今の社地に止まった。その矢をみれば住吉神と銘してあった。それよりしてこの地にこの神を祀り、古山`沖・市部・依那具・猪田・郡等の一七郷がともに祭祀に預かる。その鷺の止まった所を鷺の森というとある。 また、かつて猪ノ大明神と称する社が猪川という所の福田のあたりにあったが、洪水で社頭の地が流れて川となったため、猪神を猪田社郡宮の相殿に鎮座。昔は郷の名を井田と書き、猪の明神垂跡より猪田と改めた。猪の神はけだし瀬織津姫なりとも伝える。 天正十五年再建時の棟札には表面に「当社住吉」と大書し、右に延喜式、左に猪田社とある。 明治41年、依那古神社・坂戸神杜等を合祀して、祭神は二九柱となったが、その時、「猪田神」が、伊賀国国造の祖・健伊賀都別命に座すべきことは既に考証された所である」とされた。 本殿は、一間社流造り、桧皮葺、側面の蟇股の上に桝がなく、上下の横木の間へ置き、蟇股本来の使命を果たさず、装飾的に用いられているのが特徴。天正9年焼失、慶長9年再建。例祭10月28日。 由緒書 |
猪田神社 当社は、この地方に深い縁由のある神霊を奉祀し、往古より延喜式内社として尊重されてきた。明治41年一村一社の合祀令により旧依古名村に鎮座する神々を当神社に合祀した。御祭神は猪田神、住吉三神、他25柱である。主神猪田神は12代垂仁天皇の皇子意知別命三世の孫で13代成務天皇の御代に伊賀の国造に任ぜられた 伊賀都別命である。住吉の神は、延暦3年(784)白鷺を使者として摂州住吉大社から勧請した。社地は、伊賀の郡家が所在した郡の西方神名備の岡にあり、時の支配者伊賀臣が祖と仰ぐ武伊賀都別命を守護神として祭った。神社の起源はつまびらかでないが、社殿の創建は「天正15年の棟札」によると延暦3年である。 当時の本殿は天正9年(1581)伊賀の乱で焼失し、その後猪田山出の小天狗清蔵が再建を図り、慶長9年(1604)に完成した。現在の本殿は、桃山時代の粋を集めた華麗な建造物として、昭和37年2月14日『三重県重要文化財』の指定を受けた。 社頭掲示板 |
猪田神社 主祭神である猪田神(いだのかみ・別名 武伊賀津別命)は、旧事本紀(くじほんぎ)に「伊賀国造 志賀高穴穂(しがのあなほのみや)朝御代(成務天皇) 垂仁帝皇子意知別命(おちわけのみこと)三世孫 武伊賀都別命(たけいがつわけのみこと) 定賜国造(くにつくり)」とあり第13代 成務天皇の時代に伊賀の国造に任じられた、伊賀臣の祖神である。その子孫である伊賀臣は伊賀郡(古くは伊賀には伊賀郡・阿拝郡・山田郡・名張郡があった)の郡司として猪田神社前方に集落を形成し郡衙(ぐんが・郡役所)を置き、政治経済の中心地として支配し、神社の森を神奈備の杜として祭祀を行ったのが起源と考えられている。 天正15年(1587)の棟札によると、「始自勧請以来八百四年目仁下遷宮」とあることから延暦3年(784)に、社殿が建てられたことがうかがわれる。また、江戸中期に記された「三国地誌」によると、「延暦三年 白鷺空中を翔り 白羽の矢をくわえて松の樹上に止る時に その矢光を放ち 今の社地に止る 其矢をみれば住吉神と銘す 夫よりして此地に此神を祀り 古山 沖 市部 依那具 猪田 郡等の十七郷共に祭祀に預かる」とあり、神社前方の森に白鷺が住吉神と銘する白羽の矢をくわえて降り立ったので、社殿を建て猪田神と住吉神をあわせて祀るようになった。(此の住吉神は、当社より猪田の猪田神社と古山の田守神社に勧請(かんじょう)されている) 平安時代には延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう・927年完成)の伊賀国25座の式内小社に列せられている。 天正9年(1581)織田信長による伊賀攻め(第2次天正伊賀の乱)によって、本殿以下が焼失し猪田郷山出の小天狗清蔵により天正15年(1587)に再建された。 明治43年には合祀令により、延喜式内社であった依那古神・坂戸神社をはじめ近隣神社(依那具・市部・沖・才良・上郡・下郡・森寺)で祀られていた神々を合祀した。 昭和48年、本殿背後の斜面より「猪田経塚」が発見されている。塚は全部で13基が存在したものと考えられ、内3基からは瓦製経筒・三筋壺経筒が検出され、造営年代は12世紀末頃と推定されている。 また、当社前方には「下郡遺跡」があり、弥生時代〜室町時代の集落遺跡も見つかっており、特に平安時代の井戸からは延喜(901〜923)銘の墨書木簡が出土している。 氏子地域は依那古地区(依那具・市部・沖・才良・上郡・下郡・森寺・ゆめが丘)である。 公式HP |
猪田神社 猪田は為多と訓べし、」和名鈔、(郷名部)猪田、○祭神瀬織津姫神〇南郷上郡村に在す、今猪川明神と称す、(温水故神)例祭(欠く)〇残編風土記云、猪田里、(神社見えず)又猪川里、有神號猪神、所祭瀬織津姫也、 伊水温故云、住吉三座、諏訪一座也、猪川明神相殿、○連胤云、、猪田里と猪川里は異也、温故云、猪川と云所福田の辺に有しに、往日洪水に社地ながれて川と成によりて、猪田社を郡村の宮の相殿に鎮座す、 類社 伊豆國那賀郡、但馬國氣多郡井田神社、(各一座) 神社覈録 |