霧島神宮
きりしまじんぐう 所在地 社名















   【延喜式神名帳】霧島神社 日向国 諸県郡鎮座
          (摂社)霧島岑神社
          (摂社)東霧島神社
          (摂社)霧島東神社

   【現社名】霧島神宮
   【住所】鹿児島県霧島市霧島田口2608-5
       北緯31度51分32秒、東経130度52分18秒
   【祭神】天饒石國饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊
       (配祀)木花咲耶姫尊 彦火火出見尊 豐玉姫尊 鵜鵜葺不合尊 玉依姫尊 神日本磐余彦尊

   【例祭】9月19日 例祭
   【社格】旧官幣大社
   【由緒】欽明天皇の御宇(540)はじめ高千穂峰の近く脊門丘に社殿建立
       天暦年間(650)天台宗の僧性空上人が高千穂河原に再興奉還
       文暦元年(1234)大噴火により社殿僧坊寺が災禍
       文明16年(1484)霧島西社として現在地に社殿再興
       正徳5年(1715)造営
       明治7年2月「霧島神宮」と社号改定、官幣大社

   【関係氏族】
   【鎮座地】はじめ高千穂峰の近く脊門丘に社殿建立
        天暦年間(650)天台宗の僧性空上人が高千穂河原に再興奉還
        文明16年(1484)霧島西社として現在地に社殿再興

   【祭祀対象】本来は高千穂峰を祀る
   【祭祀】
   【公式HP】 霧島神宮
   【社殿】本殿権現造
       拝殿・神饌殿・手水舎・社務所・勅使殿

   【境内社】野上神社・税所神社・鎮守神社・若宮神社・門守神社・門守神社・猿田彦神社
   【境内図】 境内図

当神宮は天祖天照大神の御神勅を畏み戴きて三種の神器(皇位の御璽)を奉持し高千穂峰に天降りまして皇基を建て給うた肇国の祖神<天孫瓊瓊杵尊>をお祀りしているお社です。旧記によると欽明天皇の御宇(西暦540年)、はじめ高千穂峰のほど近く脊門丘に社殿が建立されたが、その後たびたび噴火炎上し幾星霜を経て今から500年前現在の社地へ御鎮座になりました。
論社の四社は、霧島山を取巻く形で、宮崎県内に三社、鹿児島県に一社あり、明治7年、鹿児島県のものを官幣大社とし、宮崎県のものは、明治10年、三社ともにその摂社となつた。


由緒

当神宮は天祖天照大神の御神勅を畏み戴きて三種の神器(皇位の御璽)を奉持し高千穂峰に天降りまして皇基を建て給うた肇国の祖神<天孫瓊瓊杵尊>をお祀りしているお社です。旧記によると欽明天皇の御宇(西暦540年)、はじめ高千穂峰のほど近く脊門丘に社殿が建立されたが、その後たびたび噴火炎上し幾星霜を経て今から500年前現在の社地へ御鎮座になりました。いまの御社殿は第21代藩主島津吉貴公が正徳5年(1715年) に造営寄進されたもので、絢爛たる朱塗りの本殿、拝殿、勅使殿等その配置はまさに輪奐の美をなし、西の日光とも称せられる。特に殿内は漆塗りで二十四孝の絵画、龍柱、床には鴬帳りが施されている。明治7年2月「霧島神宮」と社号改定、官幣大社に列格仰せ出されました。
畏くも昭和天皇陛下には二度にわたる御親拝を賜っております。平成元年5月国の重要文化財の指定を受け、海抜500mの此の地からは遥か錦江湾、桜島、開聞岳の眺望が実に雄大であります。高千穂峰(標高1547m)頂上には神代の旧物“天の逆鉾”があり、中岳、新燃岳、韓国岳一帯はつつじ「みやま霧島」で有名です。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




霧島神宮

御由緒
霧島神宮は天照大神より「豊あし原の千五百秋の瑞穂の国は是れ吾が子孫の王たる可き地なり宜しく爾皇孫就きて治せ行くませ宝昨の隆えまさむこと当に天壌と窮無かるべし」との御神勅を戴いて、三種の神器と稲穂を捧持して高千穂峰に天降りまして天壊無窮の皇基を建てられた日本の肇国の祖神瓊瓊杵尊を主祭神として奉斎しています。また、相殿に別項の通り六柱の皇霊を配祀しております。
霊峰高千穂峰
日本で最も古い書物である古事記および日本書紀に瓊瓊杵尊が「筑紫日向の高千穂の久士流多気に天降ります」「日向の襲の高千穂の峯に天降ります」と記されている霊峰が霧島神宮の背後に天聳立つ高千穂峰です。頂上には"天の逆鉾"があり、山容の崇高秀麗なことは筆紙に尽くすことはできません。高千穂峰一円は古えの日向の国の内であり古事記・日本書紀に記載されている日向国はその後「和銅年間」四郡を裂いて大隅国が置かれました。
社殿の創建
霧島神宮は遠い神代の古えより縁りある霊峰高千穂峰に鎮座すると伝えられており、延喜式にも日向国諸県郡霧島神社と記されています。旧記によると、本宮はもと高千穂峰と御鉢「噴火口」との中間脊門丘に奉斎されていましたが、御山の噴火のために悉く炎上し、村上天皇の天暦年間(950年)天台宗の僧である性空上人が高千穂河原に再興奉還しました。
また、文暦元年(1234年)の大噴火により、社殿、僧坊寺が災禍に遭っております。その後、真言宗の僧兼慶(けんけい)上人が藩主島津忠昌公の命をうけて土御門天皇の文明16年(1484年)に社殿等を再興しておられます。
そののち、別当寺華林寺からの失火により全焼の厄に遭われたのを、第21代藩主島津吉貴公の寄進により正徳5年(1715年)に重建されたのが現在の御社殿です。
約300年前の建物で、絢欄たる朱塗りの本殿、拝殿、登廊下、勅使殿、門守神社等その配置は妙を得て輪奐の美をなしています。前述のごとく当神宮は歴代の島津藩の崇敬篤く、縷々祈願奉餐がなされ、神領宝物の寄進御造営など敬神の誠が捧げられました。平成元年には国の重要文化財の指定をうけています。

公式HP



霧島神宮

御由緒
 当神宮は天祖天照大神の御神勅を畏み戴きて三種の神器(皇位の御璽)を奉持し、高千穂峯に天降りまして皇基を建て給うた肇国の祖神<天孫瓊瓊杵尊>をお祀りしているお社です。旧記によると欽明天皇の御宇(西暦540年)、はじめ高千穂峯のほど近く脊門丘に社殿が建立されたが、その後たびたび噴火炎上し幾星霜を経て今から五百年前現在の社地へ御鎮座になりました。いまの御社殿は第21代藩主島津吉貴公が正徳5年(1715年)に造営寄進されたもので、絢爛たる朱塗りの本殿、拝殿、勅使殿等その配置はまさに輪奐の美をなし、西の日光とも称せられる。特に殿内は漆塗りで二十四孝の絵画、龍柱、床には鴬帳りが施されている。明治7年2月「霧島神宮」と社号改定、官幣大社に列格仰せ出されました。
 畏くも昭和天皇陛下には二度にわたる御親拝を賜っております。平成元年5月国の重要文化財の指定を受け、海抜500mの此の地からは遥か錦江湾、桜島、開聞岳の眺望が実に雄大であります。高千穂峯(標高1574m)頂上には神代の旧物”天の逆鉾”があり、中岳、新燃岳、韓国岳一帯はつつじ「みやま霧島」で有名です。
御祭儀
 歳旦祭(1月1日)、散籾祭(旧1月1日)、御田植祭(旧2月4日)、講社大祭(4月3日)、献灯祭(8月5日)、例大祭(9月19日)、古例祭(旧9月19日)、天孫降臨記念御神火祭(11月10日)、新嘗祭(11月23日)、猿田彦命巡行祭(春秋四回)、をはじめ大小あわせて年間百ほどの祭典が厳粛に斎行されている。

由緒書



霧島神宮

霧島~宮ハ日向國ト大隅國トノ界ナル霧島山ノ麓ニ在リ、祠ハ舊ト日向國ゥ縣郡ニ屬シテ、之ヲ霧島~社ト號シ、又霧島峯~トモ云ヒシガ、今ハ大隅國姶良郡田口ニ在ルモノヲ以テ、其本社ニ定メタリ、山上ニ天之逆鉾アリ、世俗之ヲ伊弉諾伊弉冉二尊ノ立テ給フ所ト云フ、因テ又兩所權現ノ稱アリ、仁明天皇ノ承和4年、始メテ官社ニ列ス、明治7年、官幣大社ニ列シ、社名ヲ今ノ稱ニ改メラル、

古事類苑



文化財

霧島神宮 勅使殿 重要文化財
霧島神宮は霧島山の中腹の傾斜地に鎮座し、高千穂山頂に向かって社殿が配置されている。現在の社殿は鹿児島藩主によって、正徳五年に復興されたものである。
 本殿・弊殿・拝殿は大規模な複合社殿で、登廊下で達する一段高いところにあり、登廊下の下に勅使殿が建ち、この前方両側に門守神社が配置される。また登廊下の途中から西に廊下が出て、神饌所につながっている。
 本殿は正面五間、側面四間、入母屋造で、正面に一間の向拝をもつ大規模な建物で、組物や各所に用いられた彫刻には極彩色を施し、また小壁や天井に絵を描き、柱等軸部は漆塗とする。また向拝柱には龍の彫刻を施している。拝殿は入母屋造で、正面に千鳥破風、向拝一間をつけ、極彩色、漆塗としている。勅使殿は方一間、入母屋造で正面に唐破風造の向拝をつけるなど派手な意匠によっている。
 本殿・弊殿・拝殿、登廊下、勅使殿など同時期の建築が群を構成している。各建物は極彩色、漆塗・朱塗などとし、彫刻や絵画などで装飾した豪華な表現をしており、建物の質がよく、保存状況もよい。また各建物にみられる彫刻や絵様には時代の先取りの傾向が強くみとめられ、また本殿向拝柱の龍の彫刻の手法などに地方色がみられ、鹿児島地方の代表的な近世社寺建築である。
霧島神宮 登廊下 重要文化財
霧島神宮は霧島山の中腹の傾斜地に鎮座し、高千穂山頂に向かって社殿が配置されている。現在の社殿は鹿児島藩主によって、正徳五年に復興されたものである。  本殿・弊殿・拝殿は大規模な複合社殿で、登廊下で達する一段高いところにあり、登廊下の下に勅使殿が建ち、この前方両側に門守神社が配置される。また登廊下の途中から西に廊下が出て、神饌所につながっている。
 本殿は正面五間、側面四間、入母屋造で、正面に一間の向拝をもつ大規模な建物で、組物や各所に用いられた彫刻には極彩色を施し、また小壁や天井に絵を描き、柱等軸部は漆塗とする。また向拝柱には龍の彫刻を施している。拝殿は入母屋造で、正面に千鳥破風、向拝一間をつけ、極彩色、漆塗としている。勅使殿は方一間、入母屋造で正面に唐破風造の向拝をつけるなど派手な意匠によっている。
 本殿・弊殿・拝殿、登廊下、勅使殿など同時期の建築が群を構成している。各建物は極彩色、漆塗・朱塗などとし、彫刻や絵画などで装飾した豪華な表現をしており、建物の質がよく、保存状況もよい。また各建物にみられる彫刻や絵様には時代の先取りの傾向が強くみとめられ、また本殿向拝柱の龍の彫刻の手法などに地方色がみられ、鹿児島地方の代表的な近世社寺建築である。
霧島神宮 本殿・幣殿・拝殿 重要文化財
霧島神宮は霧島山の中腹の傾斜地に鎮座し、高千穂山頂に向かって社殿が配置されている。現在の社殿は鹿児島藩主によって、正徳五年に復興されたものである。
 本殿・弊殿・拝殿は大規模な複合社殿で、登廊下で達する一段高いところにあり、登廊下の下に勅使殿が建ち、この前方両側に門守神社が配置される。また登廊下の途中から西に廊下が出て、神饌所につながっている。
 本殿は正面五間、側面四間、入母屋造で、正面に一間の向拝をもつ大規模な建物で、組物や各所に用いられた彫刻には極彩色を施し、また小壁や天井に絵を描き、柱等軸部は漆塗とする。また向拝柱には龍の彫刻を施している。拝殿は入母屋造で、正面に千鳥破風、向拝一間をつけ、極彩色、漆塗としている。勅使殿は方一間、入母屋造で正面に唐破風造の向拝をつけるなど派手な意匠によっている。
 本殿・弊殿・拝殿、登廊下、勅使殿など同時期の建築が群を構成している。各建物は極彩色、漆塗・朱塗などとし、彫刻や絵画などで装飾した豪華な表現をしており、建物の質がよく、保存状況もよい。また各建物にみられる彫刻や絵様には時代の先取りの傾向が強くみとめられ、また本殿向拝柱の龍の彫刻の手法などに地方色がみられ、鹿児島地方の代表的な近世社寺建築である。
霧島神宮社務所 登録有形文化財(建造物)
南東を向いて建ち,正面中央に切妻造の玄関を突出し,北に座敷飾りを備えた応接室等,南には中廊下式で斎館や事務室等を配する。良材を用いた上質なつくりになる大規模和風建築で,複雑な平面に対応した屋根を巧妙に架け,落ち着いた社頭景観を構成している。

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霧島神宮

霧島神宮 きりしまじんぐう 鹿児島県姶良郡霧島町田口。旧官幣大社(現、別表神社)。天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊を主神とし、木花開耶姫尊・天津日高日子穂穂出見尊・豊玉姫尊・鵜草葺不合尊・玉依姫尊・神日本磐余彦尊を相殿に祀る。社伝によると、当社の創建は、第29代欽朔天皇の御宇という。『続日本後紀』仁明天皇承和4年(827)8月朔の条に、日向国諸県郡の霧島岑神が官社に預かったと見えている。『三代実録』清和天皇天安2年(858)10月22日条には、日向国霧島神に従四位下が授けられたと記されている。延喜の制に至り、日向国諸県郡鎮座の神社として、小社に列せられた。鎌倉時代になって、霧島山の大噴火があり、社殿を焼失、その後、社殿を山の東にあたる長尾山に移し、東霧島神社と称した。文明16年(1484)、島津忠昌は、この社を東西両社に分け、東社を瀬戸尾に遷座、この社が現在、宮崎県西諸県郡高原町の霧島東神社である。西社は、大隅国姶良郡出口に建てられこれが、現在の霧島神宮である。当社は、明治7年(1874)迄は、霧島神社と称され、また霧島西御在所六社権現とも称されて、薩摩藩歴代の篤い尊崇と衆庶の崇敬を集めてぎた。別当寺の霧勘山錫杖院華林寺は、霧島六社の別当寺を全部統轄、霧島六社権現の中心的役割を果してきた。同年神社号を神宮号に改め、官幣大社に列せられた。例祭9月9日。その他、旧暦1月1日には散籾祭が行われる。この祭は、『日向国風土記』逸文の伝える天孫降臨の故事に由来する祭といわれている。また旧暦2月4日に御出植祭が行われる。この祭は、本宮祭・斎田祭に続き、田之神舞が奉仕され、田植が行われる。また春秋二度づつ、年四度、猿田彦命巡行祭が行われ、11月10日には天孫降臨記念祭等、年間を通じ、数多くの祭典が奉仕されている。

神社辞典



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