大古は高千穂峰近くの瀬多尾(瀬戸尾ともいう)にあったが、噴火の度に焼けて各所に遷座された。 文暦元年(1234)至近の火常峯(御鉢)噴火で社殿焼失し長尾山麓に東霧島神社として遷座した。 その後凡そ250年余、中絶の状態であつたが、文明16年(1484)領主島津忠昌は、霧島岑神社を再興した。 享保元年(1716)新燃岳の大噴火では細野山中の今坊権現にご神体を遷したが、なお噴火がやまないので、細野岡原(現在西町の秋葉神社の所)に仮遷座された。 享保14年(1729)夷守岳中腹に社殿を再建し、明治初めまで鎮座した。 明治5年県社に列せられて夷守神社と合祀の世論が高まったので、翌6年、夷守神社をまず岑神社に合祀した上で改めて旧夷守神社の跡地(細野の現在地)に霧島岑神社として遷座した。 |
由緒 往古霧島岑神社は高千穂峰の中腹瀬戸尾の高地に鎮座され、祭神は瓊々杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出見尊、豊玉姫命、鵜葺草葺不合尊、玉依姫命の六柱の神々である。承和4年(837)日向国諸県郡霧島岑神は官社に預かり、のち従五位上を授けられる(続日本後記)天安2年(858)従四位下に叙せられ(三代実録)とあり、延喜式神名帳には日向国式内四座の一つであると記されている。天慶天暦(10世紀)の頃性空上人が霧島岑神社に参篭の折、山麓四方に夷守神社外四社を創建し、本社である霧島岑神社(別名霧島中央権現)を合わせて霧島六社権現と称した。天永3年(1112)韓国岳噴火、仁安2年(1167)大幡山噴火し相次いで神殿を焼失したが、その都度元の地に再建された。文暦元年(1234)には至近の火常峯(御鉢)が噴火し社殿は焼失、この地に湧いていた「天の井」も涸れたので末社の霧辺王子神社の辺に遷座され、その地を新瀬戸尾と称した。その地に座すこと480余年、享保元年(1716)新燃岳の噴火により社殿は焼失、御神体は今坊権現に奉遷、次いで細野村岡原に遷座されたが、新瀬戸尾の地は全く荒廃したので、享保14年(1729)夷守岳中腹に社殿を再建し、明治初頭まで鎮座された。その地を今だに築地という。明治5年(1872)県社に列せられ、翌6年細野村に合祀の世論起こり夷守神社を先ず本社の岑神社に合祀した上で、改めて旧夷守神社跡地(現在地)に霧島岑神社を奉造して今日に至る。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
霧島岑神社 霧島岑神社由来略記 往古、霧島岑神社は高千穂峰の中腹、瀬戸尾の高地に鎮座され、祭神は瓊々杵尊・木花咲耶姫命・彦穂々出見尊・豊玉姫命・鵜葺草葺不合尊・玉依姫命の六柱の神々である。 承和4年(837)、日向国諸県郡霧島岑神は官社に預りのち従五位上を授けらる「続日本後紀」。天安2年(858)従四位下に叙せらる「三代実録」。とあり、「延喜式神名帳」には日向の国式内四座の一であると記されている。 天慶・天暦(10世紀)の頃、性空上人が霧島岑神社に参籠の折り、山麓四方に夷守神社他四社を創建し、本社である霧島岑神社(別名、霧島中央権現)を合せて霧島六社権現と称した。 天永3年(1112)韓国岳噴火、仁安二年(1167)大幡山噴火と相次いで神殿を焼失したが、その都度元の地に再建された。 文暦元年(1234)には至近の火常峯(御鉢)が噴火し社殿は焼失、この高地に湧いていた「天の井」も涸れたので末社の霧辺王子神社の辺に遷座され、その地を新瀬戸尾と称した。 その地に座すこと480余年、享保元年(1716年)新燃岳噴火、社殿は焼失 御神体は今坊権現に奉遷、次いで細野村岡原に遷座されたが新瀬戸尾の地は全く荒廃したので享保14年(1729)、夷守岳中腹に社殿を再建、明治初頭まで鎮座された。その地を今に築地と言う。 明治5年(1872)県社に列せられ、翌6年細野村に合祀の世論起り夷守神社を先ず本社の岑神社に合祀した上で、改めて旧夷守神社の跡地(現在地)に霧島岑神社を奉遷して今日に至っている。 昭和56年3月 小林市教育委員会 社頭掲示板 |