東霧島神社
つまきりしまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】霧島神社 日向国 諸県郡鎮座
          (本社)霧島神宮

   【現社名】東霧島神社
   【住所】宮崎県都城市高崎町東霧島1560-イ
       北緯31度50分44秒、東経131度3分36秒
   【祭神】伊弉諾尊
   【例祭】3月21日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】孝昭天皇の御代創立
       応和3年性空上人再興し霧島六所権現東御在所とした
       天永3年(1112)韓国岳噴火
       仁安2年(1167)大幡山噴火
       文暦元年(1234)至近の火常峯(御鉢)噴火社殿焼失
       文明16年(1484)領主島津忠昌霧島岑神社再興
       そのとき社地を長尾山麓に定めて遷座東霧島神社とした
       明治10年霧島神宮摂社兼郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】大昔は高千穂峰近くの瀬多尾(瀬戸尾ともいう)に鎮座
        文暦元年(1234)噴火で末社の霧辺王子神社の辺に遷座
        文明16年(1484)領主島津忠昌霧島岑神社再興
        そのとき社地を長尾山麓に定めて遷座東霧島神社とした

   【祭祀対象】本来は高千穂峰を祀る
   【祭祀】江戸時代は「東霧島権現」と称していた
   【公式HP】 東霧島神社
   【社殿】本殿権現造
       拝殿・神饌殿・手水舎・第一社務所・第二社務所・幣殿

   【境内社】伊弉冉社・権現大師堂
   【境内図】 境内図

尾根の頂の神社。参道石段は自然石の乱積みの長い石段で「一夜にして鬼が造った」という伝説を持っている。孝昭天皇のとき創建。応和3(963)性空上人が霧島六所権現東御在所とした。
拝殿の奥には、イザナギノミコトが剣で切ったと言われる「神石」が祀られている。この神石は、イザナギノミコトがイザナミノミコトを失った悲しさから流した涙が固まったものといわれている。


由緒

神々のふるさと東霧島神社由来記
◎伊弉諾尊とオノゴロ島
天地が開け万物が成長し初めた頃、高天の原に天御中主神を初め五神の別天神が現われ、つづいて神世七代と呼ばれる神々が生まれたのでありますが、そのとき男女一対の偶生神であり天地創造の神である伊弉諾尊、伊弉冊尊が誕生されました。
この二神様に天の神が矛を授け二神様が天の浮橋(神社の背後に連なる長尾山脈)に立ちただよえる国に矛をおろし、かきまわし、そして引き上げ矛の先から滴り落ち固まったのがオノゴロ島(現在の日本国土・別名大八島国)の誕生であるといわれております。
◎高千穂の峰と神の都
高千穂の峰は南九州の中央部にそびえ、伊弉諾・伊弉冊二神の御子天照大神が御孫の天津彦火瓊々杵尊に御神勅と三種の神器をあたえて天降りを命ぜられた、山容の秀麗な霊峰であります。
現在山頂に奉祀してある天の逆鉾で伊弉諾・伊弉冊神がオノゴロ島をつくられたのであります。山麓一帯は霊地が多く霧島神宮(元は高千穂河原に鎮座してあった)以外の霧島六所権現宮は宮崎県側に鎮座してあり、なかでも伊弉諾尊を祀る神社は霧島東神社と当社だけで、当社は神世の皇都でありまた霧島山の四方門では東方発心門になると由来記にあります。
◎創建
宇宙の創世とともに八百神様が大八州島国の国造と政事を重ねられ「まつり」として数千年来祖達から受け継がれた遺産が祭祀の遺跡として、現在では生活の古典になっているのであります。
このように当社は、はじめ北諸地方を代表する奉斎山岳信仰の祈りの宮として祀られ、のちに人皇第5代孝昭天皇の御代(昭和50年から逆算して2400年の昔)に創立されたものと伝えられております。
その後、村上天皇の御代応和3年(昭和50年から逆算して1012年の昔)に京都の性空上人が巡錫参篭し噴火噴出土で焼失し埋没した当神社を再興し霧島六所権現東御在所としました。江戸時代になって島津藩主家久のとき東霧島大権現宮ととなえるようになりました。宝物を拝観して感ずるように、特に当社は歴代島津藩主の崇敬が厚く祈願奉賽や寄進、造営が度々行なわれております。
◎神石と安産の神産婆祖母様
神石の別名を裂盤又は魔石と呼び故有谷の小池のなかにあり、数多くの神々をつくられた伊弉諾・伊弉冊の二神は、伊弉冊命が火の神、軻遇空智(火皇産霊命)を難産し身が焦けて世を去ってしまわれたので、このことを怒り悲しまれた伊弉諾尊が十握の剣で石と化した火の神を三段に切られた。このときそのうちの一片は遠く宮崎の大島平原村に飛び去ったということであります。
東諸県郡高岡町に去川という地名があるのはこの飛び去った神石の一片のことを示したもので、古文書の延喜式に去飛、神石云々とあります。亡くなった伊弉冊尊を祀る伊弉冊神社が神石の近くにあり俗に産婆祖母様といってお参りした婦人が故有谷の水を呑んで帰れば安産するとのことから「坂の下詣り」といって古来から婦人の参拝者が多いのであります。
◎十握剣と橘の木
御神宝十握の剣は別に「十拳剣」「十掬剣」といって、この剣は伊弉諾尊が佩刀したもので、四指の握りで十握りの長さの剣ということであります。
平安時代の頃の度重なる霧島山の噴火のため火災や噴出土の堆積がひどく神社の荒廃とともに社宝が行方不明になってしまったのであります。 性空上人が参篭し苦行中に神児が現われて神剣のありかを告げたがどうしても発見することができなかったのであります。ある日、上人の修業中にどこからともなく飛んできた一羽の鳩が神社の庭の橘の木にとまり、そのあと数回木の上をまわり、同じようなことを三回くりかえしたので上人は神のお告げと橘の木の所を掘ってみると地中に石の梢に納まった剣が発見され曇りひとつないほどに輝いていたということであります。このようなことから神社地一帯を鳩園とよんでおります。
◎梵鐘
島津宗藩第19代の藩主、島津家久公が慶長20年の春、大阪夏の陣に出陣するときに、御家長久、子孫繁昌、武運自在、国家太平、万民快楽等の諸祈願のために、霧島山大権現に奉納したものである。
家久公は大権現の大檀主であり祈願主には勅詔院の性隆法印がなっており、梵鐘の銘文には島津家につかえる戦国武将や助力衆、作者、銘書者など当時の有名人が名を連ねている。旧島津藩内の社寺にはこれより古い作りのものはなく、格式の高かった東霧島山大権現宮を証明する第一級の文化財である。
◎扁額
古代祭祀遺跡が散在する東霧島神社に性空上人が別当寺を建立して壱千弐拾有余年のちに天皇の勅許、勅詞により院とともに権現宮の名が授けられたのである。
応永16年島津久豊公が知行のなかから十町歩を寄進した願文書の中にも権現宮名がでている。
この東霧島大権現宮の大扁額も横140cm、巾55cmでその木質の風化状態からみて、かなり古く400年以上は経過しているもので、またきわめて達筆な揮毫からみて島津藩主の書とも考えられる。これもいかに東霧島神社が祈りの宮として歴代藩主の信心が厚かったかが偲ばれる。
◎東霧島神社のおみこし
春の例大祭で行所までの浜下りの神事におみこしの行列があるがこのおみこしの天井に墨書で次の記録がある。「寛永16年家久公御建立所及大破故嘉永二巳酉矢守斉興公御再興天下太平国家安全五穀成就萬民豊楽奉再興薩隅日三州大守御当家二十九代斉興邦君御息災延命御武運長久ニ御願令成就故也」このことは寛永年間に島津19代家久公が建立したが破損したもので、諸々の祈願をこめて29代斉興公が修理したものということになる。庄内の乱で本陣となった勅詔院に家久も居住し、日夜参詣したものと考えられる。家久は東霧島神社にはいろいろの寄進をしていることから歴代藩主でも特に信仰が厚かったものであろう。おみこしの奉納は三四〇年位前のことである。天井部分を修理したことは古さや材質の違いでわかり、床面には神社の別当寺である東霧島山金剛仏作寺勅詔院住職の墨書もある。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




東霧島神社

『神石』について
天地が開け、万物が成長し初めた神代の昔。
天地創造の神である、イザナギの尊、イザナミの尊が誕生されました。
夫婦となられた二人の神様は国土・山川草木に至る私たちの生活に必要な種々のものを生成なされました。
あらゆるものを生み成していく中で、私たちの生活に最も大切な『火の神』をお生みになられたことにより、妻イザナミの尊はこの世を去られたのであります。
夫の神、イザナギの尊はまだまだこの世に残さねばならないことがたくさんあります。
愛しい妻よ、今一度我がもとに帰ってくれよと嘆き、悲しめども亡き人は帰る術もありません。
その愛しい妻イザナミの尊を恋い慕う悲しみの涙で凝り固まったのが、『神石』(神裂石・魔石・雷神石・割裂神石)であるといいます。 そして、夫イザナギの尊が腰に付けていた「十握の剣(とつかのつるぎ)で悲しみの涙で凝り固まった石を今後再びこのような災難に世人が遭わないように‥‥と、深き祈りの心を込めて三段に切ったといいます。
『十握の剣』ほ当神社の神宝であり、厄除け・魔除けの神となり御社殿に鎮め納めております。
故有谷の涙雨  ゆやだに なみだあめ
『神石』のある谷を故有谷といいますム涙雨というのは「神石」(神裂石・魔石・雷神石・割裂神石)に一滴の水を注ぐと、必ず神雨降り注ぐという。
昔から旱魃(かんばっ)の年には社僧に願って、この神石に雨乞いをして五穀豊穣を続けてきたのであります。
明治初年、三島地頭(みしまぢとう)が母智丘神社を建立した時、この『神石』を人夫を以て五十市の方へ運ぼうとしたところ、一天俄(いってんにわ)かに曇って激しい雷雨が轟き、数ヶ所に落雷し、死者さえも出たので、皆ちりぢりに逃げ帰ったといいます。依って、この石を‥雷神石ともいいます。

由緒書



東霧島神社

1.創建 第5代孝昭天皇の頃建てられた伝説があり、その後応和3年(963)に性空上人が霧島六所権現東御在所とした。
2.祭神 主座 伊弉諾尊
      合殿 伊弉冉尊 神日本磐余彦尊(神武天皇) 瓊瓊杵尊 木花開那姫命 彦火々出見尊 豊玉姫命 葺不合尊 玉依姫命
3.祭日 2月21日 3月21日 7月11日 11月23日
4.神石 火神(軻遇突智)難産し、なくなった伊弉冉尊を哀れみ怒った伊弉諾尊が十握の剣で石になった火の神を三段に切られた
5.境内末社 安産の神伊弉冉神社(産婆祖母様)をはじめ13社あり
6.宝物 十握の剣 島津家寄進状 縁起書 棟札 御輿外
東霧島山金剛仏作寺勅詔院跡
応和3年(963)性空上人(京都の人康保3年まで4年間滞在)が天台宗として開基し東霧島神社の別当とした
のちに真言宗となり明治の初め廃寺となる
慶長4年(1599)の庄内の乱では島津家久の本陣となる
古代の遺跡 古墳住居址祭祀遺跡遺物包含地五輪塔六地蔵塔板碑
御神徳
農工商開運福寿方除治病交通安全旅行航海えん結び安産等世の中の幸福を増進する厄除開運の守護神であらせられる特に霊威の主宰神としての霊威は最も高く東霧島大権現と称されている式内名社である

社頭掲示板



東霧島神社

東霧島神社は霧島六所権現の一つで「延喜式」に登場する霧島神社が当社であるといわれる古社であります。
 東霧島神社は霧島盆地・諸県地方を代表する奉斎山岳信仰の祈りの宮として祀られ、第五代孝昭天皇の御世に創建されたと伝えられる。
 その後、第62代村上天皇の御世、応和3年(西暦963年)京都の人、天台宗の僧、性空上人が巡錫参篭し、噴火出土で消失し、埋没した神殿を再興されました。江戸時代になって東霧島大権現宮と唱えるようになりました。
 御祭神は建国の祖とたたえられる伊弉諾尊(イザナギのミコト)を主祭神として地神五代の天照大御神より神武天皇に至る皇祖を合祀し、ご神宝十握の剣を御奉斎申し上げております。
 御祭神は日本国土を産み給うた父で、国造りの神・国家の御守護はもちろん、広く農・工・商すべての開運・福寿・治病・航海・縁結び・安産など世の中の幸福を増進することを計られました人間生活の守護神であらせられます。
 特に、霊界の主宰人としてのご霊威は最も高く、古来より式内名社として尊崇されているほか、中世よりは厄除開運の霊験あらたかなる権現様と親しく呼ばれているほど、根強い庶民信仰の代表的な神社であります。

公式HP



東霧島神社

麑藩名勝考には祭神「木花開耶姫」地理纂考には「瓊々杵尊」とあり、創建年代詳ならす、古老の伝によれば孝昭天皇の御宇創立といふ、此処霧島山の支山長尾山にして實に霧島の東脚に当る、因て東霧島権現と称す、かくて此東の字俗呼んでつまと唱ふ、凡そ物の端を世につまといふ、則ち当社は霧島東脚の山端に建つ、故に東の宇を訓てつまと唱ふるなり、(一説に東の訓あづまなりつまとはあづまの略なりと)伝云抑此地は伊弉冉尊火神軻遇突智の為に灼れて終り給ふをぱ、伊弉諾尊甚恨みて軻遇突智を斬り給ひし址なりと、されど地理纂考にはこの説を評して「例の妖僧が妄説なり」といへり、かく諾尊に由あるの地なる故、初諾尊を奉祀あり、六座の合殿は後の勧請なるべし、或は云ふ高崎瓊々杵尊も皇居の所なればその御時諾尊を崇奉し給ふならむと、三代実録に「元安2年冬10月22日己酉授日向国従五位上霧島神従四位下」又延喜神名式に「日向國諸懸郡一座小霧島神社」とあるはこの社なりといふ、霧島権現六社の一にして、上古の神社は霧島山上火発して焼亡せしを、性空上人当山に登り、当社を再建し、別当寺を創立す、爾後四条天皇の文暦元年甲午12月28日又山上燃え、その火亦此社寺に及ぶ、往古は数多の神領寄附あり、後世戦争の時亡びしを、島津氏歴代の藩主殊に崇敬し、若干の祭田を喜捨せり、(三國名勝図会)神体は十握劒なりといふ。
三国名勝図会に曰く、
「十握劒は本社深秘至宝の神体なり、長さ十把許、社記云、宝永5年戊辰9月29日卯刻、東霧島廟火災あり、所伝の宝物悉く烏有となれり、独十握劒屹然として灰燼の中より出で、少しも損ふ所なしと、」
三國神社伝記に云く、
「妻霧島六所権現鎮座于諸縣郡高城郷延喜式神名帳日向国諸県郡一座小霧島神社トアル是也、続日本後紀六日向國諸縣郡霧島岑神預官社、又三代実録一ニ授日向国從五位上霧島神從四位下ト見エタルモ此社ナルベシ、相伝フ此邊神代ノ旧都ナルガ故ニ高城都城ナド云ル地名謂レアルベキカト云、当社の上古ヨリ奇瑞霊験多シ高千穂ノ嶽ヲ東ニ去ルコト四五里此所ニ神石アリ、神代所謂伊弉冉尊抜所帯十握劒斬軻遇突智為三段、其一段ハ在日向國宮崎郡、二段ハ此所ニ留ルト云々
十握劒アリ当社ノ宝物トス」
往時は祭田十一石余ありき、明治10年4月官幣大社霧島紳宮の摂社兼郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿、舞殿、神饌殿等を具備し、境内地11098坪(官有地第一種)ありて、風致秀でたり。
麑藩名勝考に曰く。日本紀一書伊弉諾尊抜剣斬軻遇突智爲三段云々、今此廟側に二の磐石あり、大さ畝ばかり、中より両断に裁りたるが如し、儘以て二段の蹟なりといふ」と。
太宰管内志に云く.
幸丸云、東霧島の社地に珍しき石あり細き池の中にあり、社伝に魔石なりといふ、昔この石悪魔たりしかば霧島の神これを斬り給へりといふ、まことによき刃物にて大根などを切りたる如くにて三つに分れたる様なるが、中とかたはしと二つ残りて今一つはなし、此廻りは平地にして堤あり、御社の前道の右に細き島あり、そこより十間許にあり石の切口一つは一丈斗長さ四尺許り、今一つは切口六尺余長さ三尺許あり、この石を迦具土の神なりともいへり、いづれにも人工のなせるにはあらず」

明治神社誌料



東霧島神社

宮崎県北譜県郡高崎町東霧島。旧県社。伊弉諾尊・瓊々杵尊・彦火々出見尊・鵜草葺不合尊・木花咲耶姫尊・豊玉姫尊・玉依姫尊を祀る。かって、東霧島権現と称された。別当寺として、真言宗勅詔院があった。性空上人の創建といわれている。

神社辞典



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