石上神宮
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   【延喜式神名帳】石上坐布都御魂神社(名神大 月次/相嘗/新嘗)大和国 山辺郡鎮座
          (摂社)出雲建雄神社

   【現社名】石上神宮
   【住所】奈良県天理市布留町384
       北緯34度35分52秒,東経135度51分7秒
   【祭神】布都御魂大神 (配祀)布留御魂大神 布都斯魂大神
        宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命

   【例祭】10月15日
   【社格】旧官幣大社 
   【由緒】神武天皇御即位元年、宮中に奉祀
       崇神天皇7年に宮中より現地、石上布留高庭に移る
       垂仁天皇39年に、五十瓊敷命が剣一千口を石上神宮に藏めた
       垂仁天皇87年物部十千根大連が石上の神宝を治める『書記』
       天平2年(730)山辺郡振神戸『大税帳』
       神護景雲2年(768)「充石上神封五十戸」『続日本紀』
       延暦23年(803)神宮の器仗を山城国葛野郡に運ぶ
       大同元年(806)「石上神八十戸」『新抄格勅符抄』
       嘉祥三年(850)正三位『文徳実録』
       貞観元年(859)従二位『三代実録』
       永保元年(1081)白河天皇宮中神嘉殿を拝殿として寄進
       寛治6年(1093)行幸『社伝』
       永禄2年(1559)松水久秀・尾張勢乱入して拝殿・宝藏を打ちこす
       天正13年(1585)豊臣秀長の郡山城入部のとき神領208石余
       近世に於ては布留山を除地として認められたのみで20石
       明治4年(1871)5月官幣大社
       明治7年(1874)大宮司菅政友は禁足地を発掘
       同16年(1883)4月神宮号復旧

   【関係氏族】物部氏
   【鎮座地】創建時よりこの地に鎮座する

   【祭祀対象】この神社の創祀は布留川の水神を祀る祭祀であった
   【祭祀】祭祀は継承されている
   【公式HP】 石上神宮
   【社殿】本殿流造桧皮葺
       神庫天神庫・拝殿(国宝)・楼門(重文)

   【境内社】出雲建雄神社 式内社
       天神社・八王子社・天皇神社・七座社・猿田彦神社

   【境内図】 境内図
   【宝物】 重要文化財
   【建物】 重要文化財

石上神宮は、一名布留社とも称えられ、山辺の道のほぼ中間に鎮座する。
この神社の創祀は布留川の水神を祀る祭祀であったとされる。
布留山一帯が、南・北の古墳群の中にあつて古墳を見ないのは、この周辺が早くからの神山としての性格を持つていたためと考えられる。 素盞鳴尊が八岐大蛇を斬つた十握剣は、その神気を称えて布都斯御魂神と号し、吉備神部の許に奉齋されていた(書紀神代巻)が、仁徳天皇56年10月、物部首市川臣が勅を奉じて、石上振神宮高庭之地に奉遷して、地底石窟の内、布都御魂横刀の左座(東方)に加え藏めた。
もと本殿なく、拝殿後方の禁足地に御神体を埋納すると伝えられ、明治7年菅政友宮司によつて発掘された神劔を御神体として、地上に仮神殿を建てて奉安した。
古く、神宮の神庫には歴代天皇や諸氏族から奉献された楯・鉾・太刀・玉・装身具など、多くの神宝が『延喜式』にある伴、佐伯の2殿に納められていたという。
諸氏の神宝・兵器を奉献する事によつて朝廷への服従を、またそれを併せ祭り籠める事によつて国の安穏を祈つたのであろう。物部氏と伴・佐伯氏のこれに関与することは、祭祀としての朝廷護衛の面を示すものであろう。


石上神宮略記

御祭神は布都御魂大神で、配祀として布留御魂大神・布都斯魂大神・五十瓊敷命・宇摩志麻治命・白河天皇・市川臣命を祀る。
神武天皇御即位元年、宮中に奉祀せられ、崇神天皇7年に宮中より現地、石上布留高庭に移し鎮め祀られる。
御祭神・布都御魂大神は、又の御名を甕布都神、佐士布都神とも申し国平けの神剣、布都御魂(FUTSU 霊)にます。神代の昔、天孫降臨に際り、経津主、武甕槌の二神と共に、国土鎮定の大業を成就し給い、更に神武天皇御東征の砌、紀の国熊野において御遭難の折、天つ神の勅により、再び天降り給い、邪神賊徒を平げ建国の基礎を定め給えり。神武天皇は御即位の後その功績を称えて、物部氏の遠祖宇摩志麻治命に命じ、永く宮中に奉斎せしめ給うた。
その後第十代崇神天皇7年に物部の祖、伊香色雄命が勅により現地石上布留の高庭に鎮め祀り石上大神と称えまつったのが当宮の創めである。
爾来、歴代朝廷の御崇敬特に厚く、多くの武器を奉って儀仗に備え、物部連に配して武臣大伴・佐伯等の諸族をして祭祀にあづからしめ、国家非常の際は天皇親しく行幸あらせられ、国家鎮定を祈り給うた。
故に名将武門の尊信も深く、天下の諸氏族が挙って霊宝を神庫に托し、皇室の御安泰と国家の平安を祈り奉った。
古くは神地の周囲、凡そ10里(39粁余)に及び、殿舎神門の鎰匙は常に宮中の官庫に収められた。
又造営に当っては伊勢の神宮の例にならい、使臣を任ぜられるなど奈良朝以前に神宮号の尊称を用いられしは、伊勢の神宮と当宮のみにて、御由緒の尊厳を知ることが出来る。
社号は石上神宮のほか、石上振神宮、石上神社、或は石上社、布留社等とも呼ばれ、延喜式神名帳には、石上坐布都御魂神社と見え、早くから官幣に預ったが明治4年には改めて官幣大社に列し、同16年には神宮号が復称された。
古来国家鎮護、民生安穏、百事成就の守護神として悠久に亘る御神徳は恰く国民の尊信するところである。
配祀神・布留御魂大神は天璽瑞宝十種に籠る霊妙なる御霊威にます。瑞宝十種は、謂ゆる瀛津鏡一つ、辺津鏡一つ、八握劔一つ、生玉一つ、足玉一つ、死反玉一つ、道反玉一つ、蛇比礼一つ、蜂比礼一つ、品物比礼一つ、にして神代の昔饒速日命が天降り給う時、天つ神の詔をもって、「若し痛む処あらば、茲の十宝をして、一二三四五六七八九十と謂いて、布瑠部由良由良止布瑠部。此く為さば、死人も生き反えらん」と教え諭して授け給いし霊威高き神宝なり。その御子、宇摩志麻治命は神宝を天皇に奉り、■霊の神前に蔵めて、永く宮中に奉斎せられたが、崇神天皇の御代にFUTSU 霊と共に石上布留の高庭に鎮り給うた。世に行われる十種祓には、「天下萬物聚類化生大元乃神宝」とも唱えられ、その畏き霊威を尊んで布留御魂大神と称え奉り、古来病気平癒、長寿繁栄の守護神として、そのあらたかなる御霊験は、広く一般の信仰をあつめている。
布都斯魂大神は神代の昔、素盞嗚尊が出雲国簸の川上において、八岐大蛇を斬り給いし、天羽羽斬剣(別名を十握剣、蛇之麁正、蛇韓鋤之剣、天蠅斫剣という)の威霊にます。この時、八岐大蛇の尾より出でし天叢雲剣は、天照大神に奉り三種の神器の一つとなり、天羽羽斬剣は当神宮に配祀せられ、布都斯魂大神と称え奉り邪霊退散、開運招福の御神徳を仰ぎまつる。
宇摩志麻治命は饒速日命の御子、当宮祭主の祖神にます。御父饒速日命は天孫瓊瓊杵尊の御兄にまし、天祖より天璽瑞宝十種を受け、河内国哮峰に天降り、その後大和の鳥見の白庭山に移り、長髄彦の妹三炊屋姫を娶り、宇摩志麻治命を生み給えり。宇摩志麻治命は御父の薨後、瑞宝を受けてその遺業を継ぎ、中州の開拓につとめられたが神武天皇の大和御入国に際り天皇を迎えて忠誠を尽し給い、天皇御即位元年には天つ神の詔に随い、瑞宝を奉り鎮魂の神業をもって聖寿の万歳を祈り奉れり。これが鎮魂祭の始めである。天皇は命の忠節を喜ばれ武臣の首坐として御即位の威儀に立たしめ給い、■霊の祭祀をも主らしめ給えり。その建国に当り樹て給いし御功績を称えて配祀せらる。
五十瓊敷命は第11代垂仁天皇の皇子、御母は日葉酢媛皇后、景行天皇の御兄にます。垂仁天皇39年、茅淳の菟砥川上宮にまして剣一千口を作り(剣の名を川上部、また裸伴という)、当宮に蔵められた。そののち、勅により神庫の神宝を掌られたが、晩年には妹の大中姫命に譲り給えり。日本書紀に「神の神庫も樹梯の随に」と見えているように、命は姫の為に神庫に梯を造てられたが、姫は手弱女の身をもって高き神庫に登ることを辞み給いて、更に之を物部十千根大連に譲り、ここに物部連が再び当宮の祭主となって後世に及ぶこととなった。
白河天皇は御三条天皇の第一皇子にまして第72代の皇位を継がせらる。当宮崇敬の御心持特に厚く、永保元年8月(1081)鎮魂祭のために、宮中の神嘉殿を遷して神門を改め拝殿を造営せられた。同年9月には参議源俊明を勅使として遣わし、奉幣走馬十列を献って祭祀を行なわせらる。寛治6年7月(1093)には親しく行幸あらせられ祭主以下に官位を授け給えり。毎年10月15日の例祭に行なわれる田村渡りは、これより始まるという。
市川臣命は第5代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命の後裔、米餅搗大使主命の御子にます。その家は豪族春日臣の一族にて、垂仁天皇の御代すでに当神宮に奉仕せらる。その子孫を布留宿禰と称し、祭主物部連に副って永く祭祀に奉仕せられ、当宮社職の祖として配祀せらる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




石上神宮

石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、布留山(ふるやま・標高266m)の北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残しています。北方には布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として知られています。
当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。
平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えています。
中世に入ると、興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、布留川を挟み南北二郷からなる布留郷を中心とした氏人は、同寺とたびたび抗争しました。戦国時代に至り、織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、壱千石と称した神領も没収され衰微していきました。しかし、氏人たちの力強い信仰に支えられて明治を迎え、神祇の国家管理が行われるに伴い、明治4年官幣大社に列し、同16年には神宮号復称が許されました。
当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。
禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ、昔の佇まいを残しています。

公式HP



石上神宮の十種祓詞

高天原に神留り坐す 皇親神漏岐神漏美の命以ちて 皇神等の鋳顕はし給ふ 十種の瑞宝を饒速日命に授け給ひ 天つ御祖神は言誨へ詔り給はく 汝命この瑞宝を以ちて 豊葦原の中国に天降り坐して 御倉棚に鎮め 置きて 蒼生の病疾の事あらば この十種の瑞宝を以ちて 一二三四五六七八九十と唱へつつ 布瑠部由良由良と布瑠部 かく為しては死人も生反らむと 言誨へ給ひし随まに 饒速日命は天磐船に乗りて 河内国の河上 の哮峯に天降り坐し給ひしを その後大和国山辺郡布留の高庭なる 石上神宮に遷し鎮め斎き奉り 代代其が瑞宝の御教言を蒼生の為に 布瑠部の神辞と仕へ奉れり 故この瑞宝とは 瀛津鏡 辺津鏡 八握剣 生玉  足玉 死反玉 道反玉 蛇比礼 蜂比礼 品品物比礼の十種を 布留御魂神と尊み敬まひ斎き奉ることの由縁を 平けく安らけく聞こし食して 蒼生の上に罹れる災害また諸諸の病疾をも 布留比除け祓ひ却り給ひ 寿命長 く五十橿八桑枝の如く立栄えしめ 常磐に堅磐に守り幸へ給へと 恐み恐みも白す



石上神宮

いそのかみじんぐう 奈良県天埋市布留町布留山。旧官幣大社(現、別表神社)。石上振神宮・石上布都御魂神社・石上布都大神社・石上大明神・布留大明神などと呼ばれた。主祭神の布都御魂神を佐士布都神ともいい、神代に建甕雷神の帯びていた霊剣、平国之剣ともいう。「記紀』に、神武天皇東征のとぎ天降り、邪神を破り、国々を平定したので、物部氏の遠祖宇摩志麻治命をもって宮中に奉斎したと記し、崇神天皇7年物部伊香色雄命が大臣のとき、詔により天社、国社を定め八百万神を祀らせ布留御魂神とともに、石上高庭の地に祀ったのを創始とする。その後、物部氏の歴代奉仕するところとなり、『垂仁紀』には五十瓊敷命が剣一〇〇〇口を作って神倉に納め、また丹波国桑田村の人甕襲が八尺瓊勾玉を献じた、とある。延暦13年(794)桓武天皇による山城遷都に際し、神宮の神宝を京に移すことがあり、造石上神宮使石川吉備人は運搬に要する人員を一五万七〇〇〇余人と返答したという。後、天羽斬剣、天日槍の神宝寄贈などを合わせて、古代の武器庫ともいうべぎ御神宝類を蔵していた。貞観9年(867)百姓たちが石上神山を焼いて開墾することを禁じている(『三代実録』)。平安末期永保元年(1081)白河天皇は鎮魂祭のために、宮中の神嘉殿を拝殿として寄進し、寛治六年(1092)には上皇とともに参詣した。鎌倉時代末にば寺門の勢力はなはだしく、たびたび抗争し、永禄年間(1558−70)には尾張の武士乱入により社頭を破却(『布留社式目』)、天正13年(1585)社禄を没収されるなど、中・近世は苦悩の道を歩んだ。いつの世か、御神体布都御魂剣等が拝殿背後に埋められ、封土を築ぎ禁足地と称していた。祭神布都御魂神・布留御魂神・布都斯御魂神は禁足地に埋祭し、宇摩志麻治命・五十瓊敷命・白河天皇・市川臣を拝殿に配祀していたことになる。明治7年(1874)、時の大宮司菅政友は禁足地を発掘して多数の玉類・武具・装飾具等を出土。
神戸は『続紀』に神護景雲2年(768)神封五○戸、『新抄格勅符抄』に八○戸の記事がみえ、貞観9年(867)神階正一位に叙せられた。延喜の制、名神大社祈年・月次・相嘗・新嘗の祭に預かり、臨時祭の条、石上社の門の鑰一勾、匙二口を官庫に納め、祭のときに官人・神部卜部一人つつを遣わして門を開き、掃除をして祭に備えよと規定している。社職は、物部氏(のち石川朝臣)と、市川臣(春日臣に属す)が布留宿禰になった系譜とがある。祭祀には、6月30日神剣渡御祭があり、本宮で神剣出御祭の後、三島町神田神社へ神剣を奉持し、同社の前で祭典を行い、田植神事をなし還御、夕刻神官参列者茅輪くぐり、その後神剣を本殿に安置する。10月1日傍示凌神事。もと榜示杭をたて、境の溝を俊え境界の乱れぬようにした。いま町の境に斎場を設け、榊を立てて邪神の侵入を防ぐ。例祭10月15日、白河天皇の勅使参向に起源し、田町から古幣を奉った後、霊代を鳳輩に乗せ、田町の旅所に至り、還御。10月22日、鎮魂祭、玉の緒祭。2月節分前後と年二回、鎮魂八神を祀る摂末社で、十種神宝をもって、呪文を唱え、玉の緒を結び生命の長寿を祈る。文化財に、拝殿、摂社出雲建雄神社拝殿、七支刀が国宝指定を受け、重文に楼門、色々威腹巻、鉄盾、禁足地出土品、県指定文化財に須恵器大甕、太刀などがある。

神社辞典



石上坐布留御魂神社 名神大月次相嘗新嘗

石上は伊曾乃加美と訓べし、和名砂、(郷名部)石上、(假字上の如し)布留は假字也、御魂は美多麻と訓べし、〇祭神師霊、〇布留村に在す、(大和志、同名所図会)、例祭9月15日、○式二(四時祭下)相嘗祭神七十一座、石上社一座、」同三、(臨時祭)名神祭、二百八十五座、大和國石上神社一座、」祈雨祭神八十五座、(並大)云々、石上社一座、〇江家次第、(祈年穀奉幣)石上(五位)』廿二社注式云(中七社)石上、(使五位一人、幣一前、)○日本紀神代巻上、一書曰、断蛇劔號曰蛇之鹿正、此今在石上也、』旧事紀(陰陽本祀)天尾羽張神、児建餐槌之男神、(亦名建布都神、亦名豊布都神、)云々、即石上布都大神是也、」古語拾遺に、素盞嗚神、自天而降到於出震国簸之川上、以天十握劒、(其名天羽斬、今在石上神宮云々、)斬八岐大蛇、」日本紀、神武天皇戊午年6月乙未朔丁巳、天皇独與皇子手研耳命師軍而進、忽夜夢、天照大神謂武甕電神曰、夫葦原中國猶聞喧擾之響焉、宜汝更往而征之、武甕雷神対曰、雖予不行、而下予平國之劔、則國将自平矣、天照大神曰、諾、時武甕雷神登謂高倉曰、予劒號曰師霊、今当置汝庫裏、宜取而献之天孫、高倉曰唯唯而■之、云々、』同紀、履中天皇87年正月、太子便居於石上振神宮、」同紀、顕宗天皇、白髪天皇2年11月、天皇誥之曰、石上振之神椙、伐本載未、於市邊宮、」治天下、』古事記、(神武天皇巻)葦原中國者、専汝所言向之国、故汝建御電神可降、爾答曰、僕雖不降、専有平其國之横刀、可降、(此刀名云佐士布都神、亦名云■布都神、亦名布都御魂、此刀者、坐石上神宮也、)〇姓民録、(大和国皇別)布留宿禰、柿本朝臣同祖、天足彦國押人命七世孫米餅搗、大使主命之後也、男木事命男市川臣、大鷦鷯天皇御世、達倭賀布都奴斯神社於石上郷、布瑠村、高庭之地、以市川臣爲神主、四世孫額田臣、武蔵臣、齊明天皇御世、宗我蝦夷大臣、号武蔵臣、物部首、并神主首、因茲、失臣姓、為物部首、男正五位上日向天武天皇御世、依社地名、改布瑠宿禰姓、日向三世孫、邑智等也、
鎮坐 祭祀
旧事紀、(天孫本紀)伊香色雄命、春日宮御字天皇御世以為大臣、磯城瑞離宮御宇天皇神世詔大臣、為班神物、納定天社國社、以物部八十手所作祭神之物、祭八十萬群神之神、遷建布都大神社於大和國山辺郡石上邑、則天祖授饒速日尊、自天受來天璽瑞宝、同共藏齋、号曰石上大神、以為國家、亦為氏神、崇祠為鎮、則皇后大臣奉齋神営、
神位
文徳実録、嘉祥3年10月辛亥、進大和國石上神階、授正三位、」三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國正三位勲六等石上神從一位、
官幣 神宝
日本紀、垂仁天皇39年10月、五十瓊敷命居於茅淳菟砥川上宮、作劒一千口、因名其劒謂川上部、亦名曰裸伴、蔵于石上神宮也、是後命五十瓊敷命、伝主石上神宮之神宝、一云、五十瓊敷皇子居于茅淳菟砥河上、而喚鍛名河上、作太刀一千口、是時楯部、倭文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、日置部、大刀佩部、并十箇品部賜五十瓊敷皇子、其一千口大刀者、臓于忍坂邑、然後從忍坂移之、蔵于石上神宮、是時神乞之言、春日臣族、名市河令治、因以命市河令治、是今物部首之始祖也、』87年2月丁亥朔辛卯、五十瓊敷命開妹大中姫曰、我老也、不能掌神宝、自今以後、必汝主焉、大中姫命辞曰、吾手弱女人也、何能登犬神庫耶、五十瓊敷命曰、神庫唯高、我能為神庫造梯、豊煩登庫乎、故諺曰神之神庫随樹梯之、此其縁也、然遂大中姫命授物部十千根大連而令治、故物部連等至于今治石上神宝、是其縁也、昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲、則甕襲家有犬、名曰足往、是犬咋山獣名牟士那而殺之、則獣腹有亀八尺瓊勾玉、因以献之、是玉今在石上神宮、」同紀、天武天皇3年8月戊寅朔庚辰、遣忍壁皇子於石上神宮、以膏油壺神宝、即日勅曰、元来諸家貯於神府、宝物、令皆還其子孫、」三代実録、貞観元年7月14日丁卯、遣使諸社奉神宝幣帛、掃部頭從五位上藤原朝臣貞敏為石上社使、同年9月8日庚申、大和國石上神、遭使奉幣、爲風雨祈焉、
封戸
続日本紀、神護景雲2年10月甲子、充石上神封五十戸
雑事
日本紀略、延暦23年2月庚戌、運収大和國右上社器杖於山城國葛野郡、」類聚国史、延暦24年2月丙午、云々、庚戌、造石上神宮使正五位下石川朝臣吉備人等、支度功程申上、単功一十五万七千余人、太政官湊之、敕曰、此神宮所以異於他社者何、或臣奏云、多収兵杖故也、敕有何因緑所収之兵器、奉答云、昔来天皇御其神宮、便所宿収也、去都差遠、可愼非常、伏請卜食而運遷、是時文章生從八位上布瑠宿禰高庭、即修解申官云、得神戸百姓等■称、比來大神、頻放鳴鏑、村邑咸在、不知何祥者、未経幾時、運遷神宝、望請奏聞此状、蒙從停止、官即執奏、被報宜称、卜筮吉合、不可妨言、所司咸來、監運神宝、収山城國葛野郡、訖无故倉朴、更収兵庫、既而聖体不豫、典聞建部千織、被充春日祭使、聞平城松井坊有新神託女巫、便過請問、女巫云、今所問不是凡人之事、宜聞其主、不然者不告所問、仍述聖体不豫之状、即託語云、歴代御宇天皇、以慇懃之志、所送納之神宝也、今践穢吾庭、運収不当、所以唱天下諸神、勤誚天帝耳、登時入京密奏、即詔神祇官、並所司等、立二握於神宮、御飯盛銀笥、副御衣一襲、並納御■、差典聞千継充使、召彼女巫、令鎮御魂、女巫通欝憤怒、託語如前、詔曰、天皇御命爾坐、石上乃大神爾申給波久、大神乃宮爾収有志器佼乎、京都遠久成奴流爾依弖、近処爾令治牟止為弖奈母、去年比爾運収有流、然爾比來之間、御躰如常不御坐有流爾、大御夢爾覚志坐爾依弖、大神乃願坐之任爾、本社爾返収弖之、無驚久無咎久、平久安久可御坐止奈母念志食、是以鍛冶司正從五位下作良王、神祇大副從五位下大中臣朝臣全成、典侍正五位上葛井宿禰廣政乎差使弖、礼代乃幣帛、並鏡令持弖申出給御命乎申給止申、辞別弖申給久、神那我良母皇御孫乃御命乎堅磐爾常磐爾護奉幸爾奉給閉止、称辞定奉久止申、遣典薬頭從五位上中臣朝臣道成等、返納石上神社兵杖、〇三代実録、貞観5年閏6月2日壬戊朔癸亥、大和國言、石上神社南見五色雲、

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