石上神宮
いそのかみじんぐう


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【由緒】

主神布都御魂神は、建甕槌神が中洲平定の際に帯びてゐた平國之劔で、神武天皇の中洲平定に際して、熊野高倉下を介して天皇に奉つて熊野平定の功をいたした(紀記に同じ。)。天皇は即位後、物部連の遠祖宇麻志麻治命の忠節を褒めて、その神劔を授けた。宇麻志麻治命は、その父饒速日尊が天降の際に天神御祖から賜つた天璽瑞宝十種を天皇に献り、亦神盾をたてて齋き祀つた(旧事本紀)。その神氣を称ヘて布留御魂神と云ふ(社伝)。この両神は以後宮中に奉齋されてゐたが、崇神天皇7年12月、物部連の祖伊香色雄命が勅を奉じて石上邑に移し祭つた(社伝)。次いで垂仁天皇39年に、五十瓊敷命が茅淳の菟砥川上宮にて剣一千口を作つて石上神宮に藏めた。後五十瓊敷命に命じて神宝を司らしめた(一説では、忍坂邑に藏め、後石上神宮に移した。是の時神の乞によつて、春日臣族の名は市河をして管掌せしめた。是が物部首の始祖である。)(以上書記)。同87年に、五十瓊敷命は妹大中姫に神宝の管掌を委ねようとしたが、大中姫はこれを辞して、物部十千根大連にその職を授けた。以後物部連氏が石上の神宝を治めることとなつた(書記)。 また、素盞鳴尊が八岐大蛇を斬つた十握剣は、その神氣を称へて布都斯御魂神と號し、吉備神部の許に奉齋されてゐた(書紀神代巻神劔奉天段第三一書。第二一書では石上にありと記す)が、仁徳天皇56年10月、物部首市川臣が勅を奉じて、石上振神宮高庭之地に奉遷して、地底石窟の内、布都御魂横刀の左座(東方)に加え藏め、其上に霊畤を設けて并祭した(姓氏録に加上)。
以上の他に、丹波國桑田村の入甕襲の家の足往を呼ぶ犬が殺した牟士那の腹にあつた八尺瓊勾玉を献じ(垂仁紀)、天日槍將來の神宝を納めた(釈日本紀所引『天書』)など、種々の重宝が納められた。著名な七支刀が象徴する如く、特に兵器を神幣とするものが多いため、兵器庫としての石上神宮を説く説も多いが、履仲天皇(履仲紀)や、阿閑臣國見(雄略紀)が石上神宮に匿れたのは、石上神宮の聖域性を示すもので、諸氏の神宝・兵器を奉献する事によつて朝廷への服從を、またそれを併せ祭り籠める事によつて國の安穏を祈つた点も考ふベきである。物部氏と伴・佐伯氏のこれに関与することは、祭祀としての朝廷護衛の面を示すものであらう。
「式内社調査報告」


【祭神】

現在社伝の公称としては、第一(中)布都御魂大神 第二(右西)布留御魂大神 第三(左東)布都斯魂大神 第四(右西)宇摩志麻治大神 第五(左東)五十瓊敷命 第六(東相殿)白河天皇 第七(西相殿)市川臣命とし、延喜式の一座に拠つて第二神以下を配祀神とする。
大正2年に本殿が建立されるまでは、第三神まで禁足地に埋祀され、第四神以下が拝殿に配祀されてゐた。「石上布留社略記」によれば、宇摩志麻治大神以下の諸神は、中古まで神宮の前の山にあつたが、神殿の朽損によつて、拝殿に奉遷したと記す。
「式内社調査報告」






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