畝火山口坐神社
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   【延喜式神名帳】畝火山口坐神社(大 月次/新嘗)大和国 高市郡鎮座
          (旧地)畝火山口坐神社【旧地】

   【現社名】畝火山口坐神社
   【住所】奈良県橿原市大谷町248-5
       北緯34度29分33秒,東経135度46分52秒
   【祭神】気長足姫命 豊受比売命 表筒男命
       最初の祭神は他の同種山口神社の例よりして大山祇命であつたと考えて然るベきである

   【例祭】4月16日 例祭
   【社格】旧県社 祈雨神祭八十五座の一つ 山口社6社の一
   【由緒】創建は不明
       大同元年(806)に神封一戸『新抄格勅符抄』
       貞観元年(859)正月27日正五位下『三代実録』
       同9月8日遣使奉幣爲嵐雨祈焉

   【関係氏族】
   【鎮座地】文安3年(1446)在久米郷畝火山西山尾
        文安から天正の間に山上に遷坐
        昭和15年(1940)現地に遷

   【祭祀対象】山口の神
   【祭祀】江戸時代には畝火明神とも畝火山神功社とも云われた
   【社殿】本殿流造り朱塗
       社務所・拝殿・神饌所

   【境内社】三連流造りで、その東側から大山祇命神社・埴安彦命神社・春日神社
        次の三連流造りには八幡神社・巌島神社・高良神社


畝傍山頂から400m西の斜面にある。
文安3年(1446)に著された『五郡神社記』には「畝傍山口神社、在久米郷畝火山西山尾」とあり、山麓西ノ山の尾にあつたものである。
天正時代の畝傍山古図によれば、社殿は既に山嶺に描かれており、文安から天正の間に山上に遷坐したと思われる。
最初の祭神は他の同種山口神社の例よりして大山祇命であつたと考えて然るベきであるが、山祇命は末社にうつりいつしか現今の祭神となった。
昭和15年、畝傍山東南にあつた橿原神宮に大拡張工事が行なわれ、境内地を約15万坪としたのを機会として、神武天皇畝傍山東北陵や神宮を脚下に瞰下するものとして、当社を山下に下るよう当局より命ぜられた。このとき郷社より県社となった。山頂から現在の位置に遷す時、複数の犠牲者が出たと伝わっている。
特殊神事として埴取神事があり、大阪の住吉大社では、毎年祈年祭(2月)、新嘗祭(11月)に用いる土器を作るための埴土を畝火山頂で採取する。
埴取の場所は、山嶺に二間四方の域地に石垣をめぐらし、中に白梼樹をうえてある。この前に石燈籠があり、高六尺、「堺住吉御峯山 御みねやま 文化三丙寅九月吉日」と彫まれている。『摂津名所図会』にはこの神事を住吉神社側より見て同様の事を記しているが、この記事によると、この行事の濫觴としては日本書紀に神武天皇が天香久山の埴土をとつて八十平瓮を自ら造られ、諸神を祭り、天下の静謐を祈られた故事に慣うとし、住吉神社でも古くは天香具山の土を求めたと言うが、後に畝傍山に代えられたと説かれている。


式内大社畝火山口神社略記

式内大社畝火山口神社略記
安産の神
鎮座地
奈良県橿原市大谷町
御祭神
気長足姫命(神功皇后)・豊受姫命・表筒男命
祭日
元旦祭
正月の五日間は参拝者に御神酒を授与する。
祈年祭・御田植祭(おんだまつり)
2月28日、御神前において農事儀式を行ない、五穀豊穣を祈願する。
春季例祭(だいだいまつり)
4月16日、無病息災・家内安全・厄除などを祈願する神事がある。
夏祭(でんそそまつり)
7月28日、29日、でんそそというのは、社頭で太鼓をデンデンソソと打った音からくる俗称と考えられる。昔から夏痩の子供は、この日に綿入れの着物を着せて参ると治るといわれている。28日の夜は民謡踊りと縁日があり、参詣人で賑わう。
新穀感謝祭
12月3日
御由緒
創始は明らかではないが、新抄格勅符抄によれば平城天皇大同元年(806年)神封一戸を寄せられたことが載っていることからして、大同以前の創建であろうと思われる。降って清和天皇貞観元年正月(859年)正五位下を授かり、延喜の制では名神大社として祈年、月次、新嘗の案上官幣及び祈雨の幣に預かった。
畝火山は元帝室の御料林を守るためにその山麓において山神の霊を祀った。これが当社の起源であるが、神功皇后を祀ったともいえる。
始めは畝火山の山腹にあったが、後に山頂に遷祀し、更に昭和15年12月、現在の位置に遷座し、郷社より県社になった。
現在の御社殿は昭和15年に御造営され、昭和44年に御屋根の葺替を行なった。
御神徳
畝火山口神社は、神名帳に「畝火山口坐神社」とあり「畝火明神」又は「神功社」と称し応神天皇御降誕の伝えがあり、安産の守神として他府県よりの祈願者も日に日に増している。めでたく安産の後、当神社で命名を受けると必らず無病息災に過す事ができる。又一方、海運の神とも知られ、交通安全祈願者も増している。
特殊神事
埴取神事
大阪の住吉大社では、毎年祈年祭(2月)、新嘗祭(11月)に用いる土器を作るための埴土を畝火山頂で採取する。(行事には宮司又は権宮司が正使となり随員二名、社僕一名と同行で雲梯町河俣神社で修祓を行い直ちに当神社に来たり祝詞奏上を終りて、当神社宮司と共に山上に赴く。)
神水取神事
毎年7月26日早朝、宮司は吉野郡大淀町土田領である吉野川沿岸の周囲二丈余りの大きな櫟の所で修祓を行ない、それより清流に臨んで神水を汲み取り、これを持ち帰って神前にお供えする。俗にお峯山の水取りと称す。
餅まき神事
4月16日の春祭に行なわれる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



畝火山口神社

飛鳥・奈良時代から朝廷の尊崇篤いと伝承されている当神社が記録に見えるのは、大同元年(806・平安初頭)『新抄勅格符抄』に神封一戸を寄せられた、とあるのが最初である。
貞観元年(859・平安前期)正五位下を授かり、延喜の制(927・平安中期初頭)では明神大社として官弊及び祈雨の弊に預かったことが三代実録に、又、延喜式祝詞に皇室の御料林守護の為山麓に山神の霊を祀るとあり、大山祇命を御祭神としていたことが伺える。
文安3年(1446・室町初期)の『五郡神社記』に、畝傍山口神社在久米郷畝火山西山尾とあり、当時は西麓にあったとされている。天正3年(1575・室町末期)の畝傍山古図では山頂に社殿が描かれており、この間に山頂に遷座されたことが明らかで、口碑に当時の豪族越智氏が貝吹山に築城の際、真北に神社を見下すことを恐れて山頂に遷座したとあるのと符合する。
大和名所図絵(1791・江戸後期)にも、昔畝火山頂にあり、今山頂に遷す。祭る所~功皇后にてまします、畝火明神となづく、とあり、当神社の御祭神~功皇后が朝鮮出兵の際、応神天皇をご安産になられたとの記紀の伝承により、今安産の守神として信仰されている。
主神であった大山祇命を境内社に祀り、本殿に気長足姫命・豊受比当ス・表筒男命の三神を奉祀したのも、この頃かと思われる。
神社名も畝火坐山口神社から畝火明神・畝火山~功社・大鳥山などと呼ばれてきたが、明治に入って郷社『畝火山口神社』と定められ、俗にお峯山と呼ばれてきた。
現在の社殿は、昭和15年(1940)の皇紀二千六百年祭で、橿原神宮・神武天皇陵を見下し神威をけがすということで、当局の命により、山頂から遷座した。皇国史観全盛期の時勢を映した下山遷座であった

社頭掲示板



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